18話 明かされた過去
「……シルヴァン様のお父上、ロベール様は、奥様を誰よりも愛していたそうです。そして、奥様のためにワイン作りに力を入れた結果、悲劇が起きてしまったと」
そう言ってクロードは静かに目を閉じた。
義父アンドレが食事のたびに語って聞かせた、過去のヴィーニュ家の光景が、脳裏に浮かび上がる。
◇
アンドレ・ルシャールは、ヴィーニュ家に長く仕えた執事だった。
先代の領主ロベールの傍らで彼を支え続けた男であり、そして、クロードの義父でもある。
シルヴァンの父、ロベール・ヴィーニュは妻アデリーヌを愛していた。
だから、彼女が愛したワイン作りに没頭していくのは、自然な流れだった。
現在ほどではないが、土地柄、決して裕福とは言えない領地である。ロベールはワインを柱として立て直そうと考えはじめた。愛する妻のため、そして領地のため――それは、二つを同時に満たす策に思えた。
ロベールはシルヴァンの生まれた年、土地で最も樹齢を重ねたフィノワールを用い、長期熟成に耐えるワインを実験的に仕込んだ。
領地のワインの評価を上げる目的に加えて、シルヴァンが成長し、飲み頃になったそのワインを、家族三人で口にする。そんな未来を思い描いてのことだった。
しかし夢は叶わない。
アデリーヌは出産後まもなく、この世を去った。
ロベールは自室に閉じこもり、酒に溺れた。来る日も来る日も飲み、眠り、目覚めてはまた飲んだ。
アンドレは、必死だった。
「ロベール様、このままではお身体に障りますよ」
ある日アンドレは一本のワインを手に、ロベールの部屋を訪ねた。
「この身体がどうなろうと、もうアデリーヌはこの世にいないではないか」
虚な目でそう答えるロベールは、しかしワインの香りに気付き、顔を上げた。
アンドレが、一杯の赤ワインを差し出す。
「これは……?」
「奥様からの預かりものでございます」
「アデリーヌの……」
グラスを受け取るロベールの指が、わずかに震えた。
手には取ったものの、口は付けずにじっとワインを見つめる。
「……なぜ、まだ残っている」
「奥様は申しておられました。お酒は悲しみを和らげ、喜びを増やす魔法の飲み物。だが、それは酔いにまかせて過去を無きものにするためではなく、未来のために味わうからこそ生まれる魔法なのだ、と」
「それでは回答になっておらぬ」
「祝いの日に開けるようにと、預かっていたものがございます」
ロベールは、顔を歪めた。
「祝いの日など、もう来ないではないか」
「来ます。シルヴァン様が歩き出した日。言葉を覚えた日。剣を持った日。——そしていつか、成人した日に」
アンドレが、締め切っていた窓を開けた。
陽の光が差し込み、グラスの赤が揺れる。
「先ほど、シルヴァン様が初めて歩かれました」
「!!」
ロベールは目を見開いた。
そして、とても信じられないという顔でアンドレを見上げた。
アンドレは、穏やかに微笑む。
「シルヴァン様の成長を、見守ってあげて下さい。奥様もそれを望んでいるはずです」
その言葉を聞いたロベールは、口を付けぬままグラスを置いた。
「ロベール様?」
「祝いの酒なのだろう?こんな姿で飲むわけにはいかぬ」
ロベールは憑き物が落ちたように立ち上がる。
そして乱れた髪を掻き上げ、震える指で上衣の襟を正した。
◇
それからのロベール様の働きは、まるで取り憑かれたようだった。
葡萄の品種に合わせた剪定を考え、畑の一区画ごとに土地の特性を見極め、葡萄の声を聞くかのように繊細に手を入れた。
そして無名のシャトーが、十五年前の格付けでは二級へ、そのさらに五年後には一級へと駆け上った。
ベルノワール王国のワインの格付けは五年ごとに見直される。
そして五年前。次は最上位である特級を狙おうという年に、事件は起きた。
◇
「アンドレ。俺は、シルヴァンのために仕込んだあのワインを、今度の王都の品評会に出そうか悩んでいるんだ」
執務室で、ロベールはそう切り出すと、一本のワインを取り出し、グラスを二つ並べた。
「……お前には感謝している。今度は俺が、ワインでこの領地を救いたい」
髪に白いものが混じった。皺も深い。だが、その目だけは――二十年前、あの部屋で立ち上がった時のままだった。
ロベールは慣れた手つきでコルクを抜くと、そっとグラスに注ぐ。
香りが広がり、部屋が突然色付いたようだった。。
「一緒に、味わってくれ」
グラスに口をつけると、アンドレは目を見開く。
「これは……!」
だが驚くアンドレを横目に、ロベールはやや顔をしかめた。
「まだ、完全とは言えないな」
「これで、ですか?これまでにない出来だと感じましたが」
「ああ、それは間違いない。だが、あと一歩……」
と、ふいにロベールが咳き込む。慌ててハンカチで口元を押さえた。
白い布地に、赤がにじむ。
すぐにロベールはそれを畳み、何事もなかったように息を整えた。
「いや、お前の言うとおりだ。これを出品しよう」
再起の時から二十年。
全ては順調に行くかと思われた。しかし……
◇
「それで?その品評会はどうなったの?」
私ははやる気持ちを抑えきれず、クロードに続きを問うた。
クロードはしばらく口を開かなかった。
それから、ようやく絞り出すように言った。
「……ワインの評価は、散々だったそうです」
「ど、どうして!?」
クロードは悔しげに唇を噛み締める。
「わかりません。私も人づてに聞いただけですので。ただ、決め手になったのはJ.O.グランテールが記した、品評会のコメントだと聞いています」
J.O.グランテール。
ワイン好きで名を知らぬものはない、ワイン評論家である。一説によると王家の関係者ではないかと言われているが、その素性は隠されたままだ。
ただ、彼の評価によってワインの命運が分かれると言っても過言ではない。
「彼が出品したワインを酷評したせいで、他の評価者も意見を翻したと。そして、そのコメントは品評会の結果を決めるだけでなく、国中に広まりました。この一件で、ブローニュ領のワインの値は落ちました。いえ、値だけではありません。格付けも二級に落とされ、王都の商人の態度も変わってしまったのです」
「……俺も、父の変化は覚えている。だが、そんな事が起きていたなんて……」
「あの頃、シルヴァン様は他領におられましたから」
シルヴァンは苦しげにクロードを見たが、クロードは過ぎたことだという風に、諦めの滲んだ息を吐いた。
「それでも、ロベール様は畑に立ち続けました。父も、ロベール様、そして屋敷を支え続けた。ですが、立て直しは叶わぬまま、ロベール様はお亡くなりに。義父も、足を悪くして引退しました」
クロードの拳が、ゆっくりと握られる。
「私は、グランテールという人物を、そして彼の住まう王都の人々、評価制度を憎んでいます。義父も、確かに出品したワインは奇跡の仕上がりだと言っていました。あいつらは、ワインそのものではなく、ブランドしか見ていないんだ……」
「そんなことは」
私は開きかけた口をつぐんだ。
そんなことはないと、信じたい。
だが、クロードの発言が事実ではないという根拠もないのだ。
五年前の品評会に、何があったのか。
そして、そこから今回の偽ワイン騒動は、どう絡んでくるのか。
私はクロードが続きを話すのを待った。
「奥様は認められないでしょうが、これが王都のワインを巡る事実です。そして、義父に代わって私が執事を継ぎ、経営の立て直しに必死になっていた頃。ジルと名乗る男が現れたのです」
◇
クロードの話は、こうだ。
ある日、王都でワインの取引に失敗した帰り、クロードは一人の男に呼び止められた。
ジルと名乗るその男は、クロードの持ってきたワインを試飲したいと言い、味を褒めるにとどまらず、是非高額で引き取らせて欲しいと言いだした。
せっかくなら少し飲もうと誘われて、二人は酒場で酒を酌み交わすことになる。
「実に気の毒な話です。あれほどの酒を造っても、王都では名前がなければ屑同然ですか」
ジルはそういってクロードを慰めた。そして、
「味ではなく、ラベルに頭を下げる連中ばかりです。……反吐が出ますね」
と、クロードの気持ちを代弁するような言葉を口にした。
初めは警戒していたクロードだったが、徐々にジルの言葉に心が解けていく。そして程よく酔いが回り、打ち解け始めたところで、ジルはこう切り出したのだ。
「偽のボルテール産ワインを作って、あいつらを見返してやりましょう」と。
ジルのやり口はうまかった。ただ偽ワインを作ろうと誘うだけなら、クロードは初めから断っただろう。
しかし、ジルは同情し、クロードや領地を認め、労い、そして味もわからずに格付けやブランドだけでワインを持て囃す王都の人々を非難した。
悪いのはラベルしか見ていないあいつらだ、偽ワイン作りは悪いことではない、むしろそんな人々の目を覚まさせる、正義の行いなのだ。
そう言ってクロードをそそのかしたのだ。
それでも産地偽装は重大な犯罪である。クロードは最初、断るつもりだった。
どれほど王都が憎くとも、偽りのワインを売るなど、先代と義父への裏切りに他ならない。
だがジルは、抜け目がなかった。
金の話をしたのだ。
今のブローニュ領がこのままだとあとどれだけ持つのか、静かな声で突きつけ、そして最後に、こう言った。
「この提案は正義のためだけでなく、領地をも救うことができる、最良の策なのですよ」
クロードはついに頷いてしまった。
◇
ひとたびクロードが同意すると計画はあれよという間に進んでいった。
取引の条件はこうだ。
まずブローニュのワインは樹齢が若い畑のものであっても、市場価格より高値で引き取る。これは、当面の運転資金とするためのものだ。
一方で、樹齢の古いフィノワールは、別の領地で取れる黒葡萄と混ぜ、指定の方法で加工することで、ボルテール産の特級として売り出せるようにする。そのために、ジルはオーク樽だけでなく、加工のための様々なものを次々とクロードに渡した。
焦がしたチップ、砂糖、偽のラベルにコルク…
これらを前にして偽装の方法を説明された時、あまりの所業にクロードは天を仰いだ。だがもはや引き返すことは許されなかった。
◇
「以上が、この偽ワインの顛末です」
クロードはそういうと、どこか投げやりな口調で続けた。
「どうです?悪事を暴いた気持ちは。全てが公になった場合に、罪を被る覚悟はできています。シルヴァン様、どうか王都の司法官に突き出して下さい」
「そんなことが、できるか!」
「ですが、領主が悪人を庇うなど、許されません」
「……っ」
初めて見るシルヴァンの深い悲しみの表情だった。
領地のためとはいえ、ずっと信頼してきた執事の裏切りを聞かされたのだ、無理もない。
だが、まだだ。
この話には続きがある。
「クロード、まだ話していないことがあるのではなくて?」
クロードの表情が、変わる。
「それは……」
私はイカリ型のワインボトルを手に取ると、ゆっくりと言った。
「このワインは、失敗作です。そうですよね、クロード」




