16話 見つけたくなかったもの
「クロードは明日、出かけるそうだ」
湯浴みを終え、寝る準備を整えたところで、夜分にすまないと申し訳なさそうにシルヴァンが部屋にやってきた。
鏡台の椅子に腰掛けている私を見て気まずそうにしていたので、ベッドに座るように促す。信頼関係は培われたものの、男女としての距離は、あの朝の抱擁から先へ進んでいない。そのことについて、私はあえて深く考えないようにしていた。
「では、明日決行ですわね」
「ああ。いつも通りなら、朝食前に屋敷を出て、帰宅は夕食前になるはずだ」
やっとこの家の帳簿が見られる。
万が一のための『偶然の書簡』も、父から送ってもらってすでに手元にある。準備は万全だった。
私はこの日を待ちながら、マルグリットからヴィーニュ家のことを学んで過ごしていた。事前に予想していた通り、領地経営や財務はほとんどクロードが仕切っており、シルヴァンは決裁と最終判断こそすれ、日々の数字には深く触れていないようだった。
また、屋敷の中の細々とした采配はマルグリットが回していて、領主の妻である私に与えられた役目は、驚くほど少なかった。
だからといって窓辺で刺繍ばかりしているのは性に合わないし、お飾りの妻ではこの家の実態——ひいては、この領地の真実を知ることはできない。
そこで私はマルグリットに頼み、食材の管理だけでも任せてもらうようにしたのだが……。
食糧の調達を通じて、一つ気づいたことがある。ヴィーニュ家は「貧しい」と皆が口にするわりには、食材の仕入れが安定しているのだ。
特に、1年ほど前から調味料などのランクが上がっている。領地としての収入が上がる要素はない筈なのに……
シルヴァンに聞いても、心当たりはないという。
やはり、この家には何かある。
私の直感が、そう告げていた。
◇
翌朝。
予定通りクロードは出掛けて行った。
私とシルヴァンはいつも通り朝食をとると、クロードの執務室に向かった。
そっと、ドアをあけ、中に滑り込む。初めて見る彼の仕事部屋は、隙がないほどに整えられていた。
窓を背にした執務机の上は、筆記具のみが置かれている。壁一面に並ぶ、どっしりとした木製の書棚。シルヴァンが棚の鍵を開けると、背表紙の色で分類された書類が並んでいた。そんな様子からも、クロードの几帳面さが窺えた。
「帳面は、最新のもので良いのか?」
シルヴァンが、書棚の端に揃えてあった一冊を引き抜く。
「はい。まずは新しい方から拝見させてください」
私は小声で答えた。クロードが留守とはいえ、ここで私たちが何かを調べていると分かったら、厄介なことになりかねない。もちろん、領主とその妻なのだから家のどこを見ようと、後ろめたいことは何もない。だが、あえて和を乱す必要もないのだ。
出来るだけ音を立てないように、受け取った帳面をそっと開く。
——数字が並んでいる。日々の入出金の流れが書かれており、一見したところ筋は通っている。先日ジュールから受け取った金貨も、しっかり記帳されていた。
念のため、貨幣の現物が仕舞われている箱と簡単に金額を付き合わせて見たが、残高とも合っている。不審な点は特にない。お金の流れがおかしいかもと思ったのは、私の考えすぎだったのだろうか。
だが、偽ワインの噂についても確かめる必要があるし、このまま「大丈夫でした」と引き下がるのは早すぎる。
「ワインに関する取引だけをまとめたものはありませんか?」
「それなら、こちらの帳面が良いだろう」
全取引から違和感を探るのは不可能だと判断した私は、この地の主要な産業であるワインに焦点を絞ることにした。
月ごとの出荷、取引先、樽数、瓶数、単価、入金の時期。ひと目で理解できるように整理されており、こちらも不自然な点はない。
私はページをめくって、指で行を追った。計算は正しい。金額感も、妥当だ。
こういう時、前世だったら……。
営業時代を思い返す。
数字の違和感を探すための方法は……
そう、比較だ!
私は同じ時期の別の年の数字と見比べ始めた。
すると……
「シルヴァン様。確認したいのですが、こちらの区分のワイン——こちらのものです。これらは早飲みするような作りなのでしょうか?」
「……というと?」
不思議そうに私を見るシルヴァンに事情を伝えるべく、私は帳面の端を指で押さえると、特定の銘柄の取引について記載された列を二つ、三つと辿った。
「取引も流れを追っていたのですが、出荷の間隔が短いのです。前年までと比べて、回転が早い。寝かせるはずのものが、早く市場に出ているように見えます」
シルヴァンが帳面を覗き込む。彼の横顔には、わずかな緊張が浮かんでいた。
「すまないが、それだけ見てもどのワインかは特定が難しい。だが……回転が早いのは、悪いことなのか?」
「状況によります。売れるのなら、それ自体は良いことですわ。ただ——」
私は今度は単価の欄に指を落とした。
「回転が早くなっているのに、単価が上がっています。もちろん、これだけを見れば、とても良い変化です。しかし、良い変化には理由が必要ですの。品質が劇的に良くなったとか、世間からの評判が良かったとか、格付けが上がったとか」
「……心当たりはない」
シルヴァンは首を振る。
「もう少し古い帳面もありますか?」
シルヴァンは、棚の上の方から同じような革表紙をもう一冊引き抜いた。
私は二冊を並べ、必要なページだけを開いて照らし合わせる。
これは、やはり……
「シルヴァン様。こちらのワイン、今はどちらに保管されていますか?」
「それなら……」
指で書かれた記号を確認すると、小さく頷く。
「屋敷から少し離れた場所にあるワイン倉庫だ」
「ではそちらに参りましょう」
「えっ?」
シルヴァンが驚いた様子で私を見た。
だが、数字の違和感は数字だけ見ていても答えなどでない。
「帳簿の違和感への答えは、ワインが教えてくれるはずです」
◇
その倉庫は、屋敷から馬で30分ほどの場所にあった。
丘の段差を利用した半地下にあり、中は日中だというのに薄暗く、ひんやりとしている。
「久しぶりに来たな」
シルヴァンが、あたりを見回しながら懐かしそうに呟いた。
「あまりワインの様子は見にいらっしゃらないのですか?」
「恥ずかしいのだが……ワインには苦手意識がある。だから葡萄の栽培にかまけて、保管に関してはクロードに任せきりだ」
倉庫には、瓶詰め前の樽入りワインもあれば、コルクをして封まで終わり、出荷を待っているものもある。いずれも、帳面に書かれていた通りの状況だ。
ただ、探している記号のついたワインは見つからない。
だが、その時。
私は奥に進む扉を見つけた。
「シルヴァン様。こちらの階段の先も、ワイン倉庫でしょうか?」
「ん?ああ、そのはずだ。しかし今は使っていないと聞いていたが……」
「行ってみてもよろしいでしょうか」
「もちろん。気になる点は全て、確認しよう」
古めかしい扉は、外観に反してすんなりと開いた。ノブに埃もない。今は使っていないというのは嘘だろう。最近まで出入りしている形跡が伺えた。
明かりを手に、恐る恐る、階段を降りていく。
地下に降りているからか、それとも緊張のせいなのか、部屋を包む空気が、先ほどよりもじんわりと冷たい。
「ここは……」
下まで降りると、先ほどと同じくワインが保管されていた。
樽に入ったワインと、それから、ラベルのない空のボトル。これから瓶詰めするようだ。
試しに出荷するためなのか、瓶詰めが終わったワインが1ケースだけ置かれている。
樽の記号を確かめると、私が違和感を持っていた、あのワインだった。
保管場所は記載された通りだ。
だが、この瓶の形は……
「どうだろう。見たところ、問題はなさそうだが」
迷いを感じながらも、基本的にはクロードを信じたかったのだろう。シルヴァンはどこかほっとした表情で私を見た。
私はそんな彼を見つめ返すことができず、俯いてしまった。彼の不実の種を見つけてしまったのだ。
「セリエ?何か気になる点でも?」
今から話す私の仮説はシルヴァンを傷つけるかもしれない。だが、黙ってみなかったふりをすれば、さらに傷口は広がるだろう。
私は思い切って、口を開いた。
「こちらに空のボトルが置かれております」
「ああ、それが?」
「よくご覧ください」
そう言って、1本を取り上げると、彼に手渡した。
「ワインのボトルではないか」
「ええ、ですが、形がこの地のものではございません」
「!!」
そうなのだ。
ブローニュのワインは、基本的になで肩のボトルが使われている。私が嫁いでから口にしたこの地のワインも、すべて同じ形だった。
だがここにあるのは、いかり型――ボルドータイプ。この世界では主にボルデールで使われている形だ。これは澱を堰き止めるための形で、短期熟成の回転が早いワインに、わざわざ使う理由がない。
(実は、ボルデール産の特級ワインにきな臭い話があるのだ)
父の発言が脳裏に蘇る。
まだ、確証がある訳ではない。
だが、疑念という意味では十分すぎるほどに状況が揃っており、それを今更伝えないという選択肢はなかった。
「シルヴァン様、実は……」
「セリエ様。こんなところで何をなさっているんです?」
私が口を開くのと同時に、階段を降りてきた人物が、声を掛けてきた。




