13話 実験の終わりと旦那様との始まり
「うーん、これじゃ酸味が飛んでるし、風味がありませんわね」
深夜のヴィーニュ邸の厨房で、私は鍋の前で腕を組んで唸っていた。
少し離れたところで、シルヴァンが心配そうにこちらの様子を伺っている。
「……また、ダメだったのか?」
「はい……」
保存できるヴェルジュを作る――そのために最初に考えたのは、安直ではあるが「加熱殺菌」だった。
しかし、少し考えればわかることだが、酸味と強い加熱は、相性が悪い。
たとえば黒酢を使った煮込み料理は存在するが、それはあくまで黒酢のコクを活かすので合って、酸味を楽しむものではない。加熱という方法は、「フレッシュな酸」を残したいという今回の目的にはまるで向いていなかった。
私は前世の知識を総動員して、保存方法を考えた。
加熱がダメとなると、保存料だろうか。だがこの世界にそんな便利なものはなく、せいぜい砂糖か塩で保存性を高めるのがいいところ。
しかし、あまりにも味が濃すぎると、このフレッシュさを活かせるほどの量を使えなくなってしまう。
あとは、真空パック?だが、保存料が存在しないように、真空にする技術もあるとは思えない。
クロードにあれだけ大口叩いた割には、すぐに行き詰まってしまった。
そのことがなんとも不甲斐なくて、思わず唇を噛み締める。
「少し、休憩したらどうだろうか」
シルヴァンが素焼きのマグカップを持ってきて、私の横に置いた。
「何時間も、作業を続けているだろう。行き詰まった時は、少し手を緩めてもいいんじゃないか」
「しかし……」
悔しさのあまり思わず反論しかけたのだが、直後、マグカップから漂う香りに気付いた。
「これは、ホットミルクですか?」
「ああ。仕上げに蜂蜜も入れてみた」
なるほど、この爽やかな香りは蜂蜜のものだったのね。
「ありがとうございます。シルヴァン様が?」
「このくらいしか手伝えることがなくてな……すまない」
「いえ、嬉しいです」
マグを手に取るとじんわりと温かさが伝わってきた。
一口飲むと、優しい甘さと共に、ゆるゆると強張っていた心が解けていく。
「美味しい……」
気付くと、シルヴァンが微笑んで私の方を見ていた。
は、恥ずかしい。
「こちらのミルクも、この土地のものですよね。コクも甘味もあるのに、優しい味です」
「光栄だ。これは今朝……といって良いのだろうか。葡萄畑に行く前に絞ったものだ」
「新鮮だからこの味が出せるんですね」
「ああ。でも本当は、ミルクもある程度保存できると良いんだがな」
「……」
ミルクを保存、か。
確かに前世でもミルクは要冷蔵ではあった。
その昔、保存ができないからと、ヨーグルトやチーズが生まれたのは有名な話である。
だが、牛乳って一週間程度は日持ちしてたわよね。
そういえば牛乳の殺菌方法は……
「……!!!」
頭の中で、知識の断片が一気に繋がった気がした。
(なにも、ぐらぐら煮立てる必要なんてないじゃない)
前世の世界では、牛乳は二種類の殺菌方法で売られていた。
一つは高温殺菌。たしか120度程度で数秒加熱するとパッケージに書かれていた。時間が短いので短時間でたくさん殺菌できるからだろう、大半の牛乳はこちらの殺菌方法がとられていた。
一方、低温殺菌という方法の商品も販売されていた。こちらは高温で一気に殺菌するのではなく、もっと低い温度で、じっくりと時間をかけて熱を入れていたはずだ。
牛乳パックの表記を必死に思い出す……たしか、60度強で30分、だったような。
これなら、もしかすると──
「シルヴァン様!」
「な、なんだ?」
「先ほどまでは、加熱しすぎだったと気づきました。保存性を高めたいあまり、酸味まで殺してしまっておりました。ですが、もっと低い温度で、ゆっくりと温めれば……雑菌だけ弱らせて、酸味は残せるかもしれません!」
「そんなことができるのか?」
「試してみる価値はあると思います」
私は鍋に水をはり火にかけると、ヴェルジュを陶製の壺に注ぎ入れた。これで湯煎して加熱するつもりだ。
火は、先ほどまでよりぐっと弱くする。薪をくべる量も、ほんの少し。
どうやって60度にするかの問題だが、沸騰したお湯は100度。常温の水は大体20度くらい。ということは、ややお湯多めで半分に割れば大体60度になるんじゃない!?ざっくりではあるけど、目安としては悪くない。
沸騰した鍋に同量よりやや少なめの水を入れて、かき混ぜると、ギリギリ短時間なら指を入れられる熱さにまで下がった。
そこに、先ほど準備したヴェルジュの壺をゆっくりと沈める。
これ、イケるのでは?
シルヴァンも興味深そうにこちらを見ている。
「なるほど、間接的に熱を加えるのだな」
「はい、熱の入りが緩やかになりますし」
「ふうむ……?」
何やら納得していない様子だ。
「何かございまして?」
「いや、余計な口出しだったら済まないのだが」
「なんでもおっしゃってください」
「その……外の湯の熱さで、中身も同じ具合にしたい、という話だったな?」
「はい」
「冷たい壺を入れたら、湯がぬるむのではないだろうか」
「……!!」
確かにその通りだ。
低温殺菌というアイディアに舞い上がったばかりに、他のことが疎かになっていたことを恥じる。
そして熱の吸収問題を解消するためには、論理的にはあらかじめ外側の温度を上げておけばよいのだけれど、何度くらいにしておけば壺の中身が希望の温度になるのか、私には検討もつかない。
いいアイディアだと思ったのになぁ……
「すまない、落ち込ませるつもりはなかったんだ」
「いいえ、先に教えていただいてよかったです。ただ、どうすれば湯加減を思い通りにできるのか、と頭を悩ませておりまして」
「セリエ嬢は、希望の熱さのお湯自体は作れるのだな?」
「そうですが?」
「では、俺がその熱さを覚えよう」
「え……?」
「指で湯加減を覚える。そして、壺の中身を指で確かめる。これでいいんじゃないか?」
!!??
指で温度って覚えられるの?
何それ、チート能力……?
小説にはそんな設定なかったのに……
でも温度計のないこの時代、指で温度を確かめていても、不思議はない。
「……」
「ああ、すまない。もちろんヴェルジュに指を入れる訳ではない。まずは壺の中身に水を入れて、狙った湯加減とするための手順やタイミングを探れないかと思ったのだ」
「いえ、違いますの、私が黙っていたのはそういうことではなく……」
ええい!
やれるとおっしゃるのならやっていただこうじゃないの!!
「是非、よろしくお願いいたします!」
という訳で、私とシルヴァンとの湯煎実験が始まった。
60度という温度は、繰り返し指を浸すにはきつい熱さだと思うのに、シルヴァンは顔色ひとつ変えずに指で温度を確かめていたのが印象的だった。
ヴェルジュを入れる壺をあらかじめ湯で温めたり、火加減を調整したり……
ようやく希望の温度にし続けるための方程式に辿り着いた頃には、朝日が昇りかけていた。
「シルヴァン様!これで低温殺菌が完成いたしましたわ!」
「て、ていおん……?」
「あとはこのメモの通りの時間と手順で熱を加えれば……あ、そうそう、保存性のためにお塩もひとつまみ加えたいですわ。それから、ええと……」
「もうよい、よく頑張った。領地を代表して、感謝の意を捧げる」
わわ、褒められちゃった。
嬉しいなー……
ていうか、何これ?徹夜ハイってやつ?
なんだか体がふわふわして……
「おい、セリエ嬢!大丈夫か?」
「もちろんですわ。このあと最後の仕上げを……」
私の意識は、一旦ここで途切れることになった。
◇
「ヴ、ヴェルジュ……」
目覚めると、私は自室のベッドの上にいた。
ゆっくりと起き上がると、ベッドサイドの椅子に、シルヴァンが座って居眠りしている姿が目に入る。
サイドテーブルには、緑の液体が入った小瓶が置かれている。もしかして、あれは……
「完成したのね……!?」
その言葉を聞いたシルヴァンは、目覚めるや否や私をガバリと抱きしめた。
えええ!?どゆこと!??
「セリエ……目覚めたか……」
「は、はい、大変に気分は爽快で……ただ……あの……」
「!!!」
私を抱きしめてることに気づいたシルヴァンが慌てて身を離した。
その顔は真っ赤に染まり、さすがに鈍感な私でも彼が照れていることが見てとれた。
「す、すまない。そなたが倒れてから気が気ではなくて、つい」
「いえ。それより、こちらこそご迷惑をおかけしました」
「な……っ!迷惑などでは断じてない。俺は、セリエがこの土地の発展のためにあそこまで真剣に取り組んでくれたことが……本当に嬉しくて……」
わずかに目を潤ませたシルヴァンはそういうと、あらためて私の方に向き直った。
「そなたはヴェルジュのレシピ完成直後に倒れ、丸一日寝込んでいたのだ。その間、他のものと話を進めておいた」
シルヴァンはベッドサイドの小瓶を嬉しそうに示した。
「どのくらい保存できるかは今試しているところだが、商品としては大きく前進だ。保存性が高まったとのことで、ジュール殿も販路を検討してくださるらしい」
「よかった……」
私は、ほっと安堵の息を漏らした。
売れるかどうかはさておき、実験が成功したならあの夜は無駄じゃなかった。
私は、協力してくれたシルヴァンに、感謝しかなかった。
「本当に、ありがとうございました」
「いや、いいんだ」
シルヴァンは少し言い淀んだ後に、口を開いた。
「こんなタイミングで、すまない。俺の話を、聞いてくれるだろうか」
「はい、なんでしょうか?」
「俺は正直、契約結婚というものに、懐疑的だった。そなたの父からの提案を受け入れたのも、金銭的援助が目的であった。今思えば、本当に表面的なものの見方しかできていなかったと、反省しかない。そして、やってくる妻という存在には全く期待していなかったのだ。だが……」
そっと私の頬に触れるシルヴァンの手つきは妙に優しく、そのことが私の心拍数を上げる。
「その思い込みは間違いだった。勝手に決めつけて、本当にすまない。あなたは、違う。共にこの土地を支えていけるパートナーだと、確信した。これからも、俺を、そして、この土地を、支えてほしい。俺もあなたの望みに、全力で応えるから」
長い前髪がさらりと流れ、誠実な瞳が私を見つめている。
初めて見つめ合ったシルヴァンの瞳は、朝日を受けて明るく輝いていた。
私に、断るなんて選択肢は、ない。
それは、彼が私の望みを叶えてくれるというからでは、ない。私もこの土地に惹かれ、彼と共にこの土地を繁栄させたいと、そう心から願うからだ。
「はい、この地のために、セリエは全力を尽くします」
私はそう返事をすると、彼の手を握った。
信頼を、そしてそれ以上の感情を得られたことが、ひどく嬉しかった。
前世では知らずにいたこの気持ちを、できればこのまま味わっていたい。
だが……。
私は手の温もりを振り切ると、シルヴァンを見つめた。
まだだ。今の私に必要なのは、恋ではなく、領地の発展。それはきっと彼の望みでもあるはずだ。
私は胸の高鳴りを鎮め、次の一手に思考を切り替えた。
あるものを、確認しなければならない。
「つきましては、お願いがございます、シルヴァン様」




