第二章 呪文基礎学①
一夜明け、授業初日の朝。窓から差し込む朝日を感じながら、サクヤは目を覚ました。時計の目覚まし機能などを使うまでもなく、少年はいつも同じ時間に起床する。それは意識的なものではなく、体に染みついた生活のリズムだ。
地平線から太陽が昇ると同時に体を起こし次なる戦場に備える。船で大陸に渡ってきた当初こそはリズムを崩したが、今ではもうかつてのように寝起きすることができていた。
サイドテーブルに置かれた時計は五時四十五分を示していた。授業開始は九時丁度。朝食をとる時間を考えても随分と余裕のある時間だ。かといって、ここから二度寝に耽る気も起きない。
「剣でも振るか」
ならばいつも通りに過ごすかと決めて身支度を整え始めた。制服のシャツに手を通し、ローブは置いたまま外に出た。
男子寮と女子寮の中間に存在する中庭に出る。そこでふと、後ろを振り返って今出たばかりの男子寮に目を向けた。
「小さいな……」
一年生から四年生まで延べ五百人以上の男子生徒にそれぞれ個室が与えられているとは思えないほど、外観はサイズは小さいものに留まっている。向かって右手側に聳え立つ校舎についても、同じことが言えるだろう。少年が立つ中庭も、入学前に渡された地図に記されたものよりも広く感じられる。
中庭だけではない。昨日歩いて感じた学校の敷地面積が、どう考えても地図上のそれと異なっている。もちろん、地図に細工がされているわけではない。むしろその逆で、細工がされているのはアストラルの敷地である。
特定の内部空間を外見とは異なるサイズに拡張、あるいは縮小することは結界術の応用により可能であり、魔導建築学においては基礎ともされている。
もっとも、それはせいぜい一般的な家屋サイズで用いられる技術であり、これほどまでの巨大な空間を維持する結界の構築やその内部をここまで弄ることに用いられる魔法技術は魔法建築学を専攻する者が尊敬を超えて恐怖すら覚えるほどである。それが当たり前のように存在することも、アストラルが魔法界の最高学府と呼ばれる所以だろう。
知識のあるものが知れば畏敬の念すら抱くそれも、そんなことを知る由もないサクヤにとっては奇妙な校舎に成り下がってしまう。
噴水から少し離れた場所。周囲にベンチや花壇が存在しない空間に立つと、腰に差した二本のうちの一本を抜き正眼に構えた。
朝のぴんと張った冷たい空気を深く吸い込み、一直線に振り下ろす。風を切る静かな音が鳴る。彼が以前暮らしていた場所と異なり、アストラルの土地は異常に魔素が濃い。空気中に漂うそれを吸い込み、魔法行使に必要となる魔力を練り上げる魔法使いにとって、それはあらゆる面で追い風になる。
具体的に言えば、身体能力が体感で分かるほどに上がった。魔力運用による体の強化は魔法使いの基礎であるが、それに用いられる魔力が上がれば必然的にそうなる。
「ふっ……シッ……!」
上段からの斬り下ろし。返す刃で逆袈裟。校舎の隙間から差し込む光の量が時間と共に増えることを気にせず、実家で学んだ剣の術理を体に思い出させていく。サクヤの実家は魔法使いとは無縁の家ではあるが、それは身に修めた剣技を否定することにはならない。長い年月をかけて研究されてきた技術は、それだけで無視できるものではない、というのが現在の魔法使いの常識だ。
それからしばらく剣の修練を続けていると、
「早いな、一年生」
噴水近くに立っていた男子生徒に声をかけられた。精悍な顔立ちをした凛々しい男だ。
「……っ!」
気配もなく表れた男の存在にサクヤは僅かに驚く。だが、相手にその気がないことを悟るとすぐに警戒を解いた。
「そう警戒するな。敵意はない。もっとも一年生の間はそれ相応の警戒が必要になるが、俺相手には不要だ。堅苦しい礼節もな」
一目見てサクヤがその手の作法に不慣れなことを見抜いた男が、気さくにそう告げる。
「そうっすか」
「こんな早くから剣の修練とは真面目だな。うん、いい心意気だ」
素直にそう告げてゆっくり近づいてくる男の脚運びに、サクヤは思わず息を呑む。昨日あった男性教師、エイワスを見たときと同じものを男から感じた。
一片の隙もない。特段こちらを警戒している様子でもないのに、男はまるで獲物を構えた戦士のような雰囲気を漂わせている。腰に差した剣に気が付いたのは、男がただ者ではないと感じた後だった。
「そして目もいい。ただ呑気に剣を振る馬鹿ではないと見た」
「そりゃどうも。で、なんの用ですか?」
「いや特に用はない。年中物騒なここも、さすがにこの時間は平穏でな。早く目覚めた日はこうして散歩することにしている。緊張ばかりでは息が詰まる。ゆっくりと過ごすことで気付けることも多いしな」
いやに実感が籠ったその言い草に、サクヤは魔女の言葉を思い出した。それこそ、妖刀に身を任せても勝てそうにない目の前の男がそう言うほどに、ここは魔境じみている。
「気付けること?」
「そうだな。例えば今日は、将来有望な一年生を発見した。おっと名乗りが遅れたな。俺は三年のベルガ・ライガットだ。君の名は?」
「サクヤ・ヒイラギです」
「ヒイラギか。あまり聞かない名前だが、大陸の出身ではないな?」
「輪ノ国から来ました」
「あぁ、なるほど。そう言えばその剣は確か極東の戦士が扱う者だったな。忘れていたよ」
ライガットが好奇心に満ちた瞳でサクヤの刀を見る。それはまるで、同じ剣士として実力を推し量るような視線だ。
その視線にあてられてサクヤの方も同じ気持ちが湧いてくる。目の前の強者相手に、自分の剣がどれほど通用するかを確かめたくなった。エルフの少女と出会ったときに感じたものとは別の、純粋な剣士としての欲求。
「先輩、暇なら一度――」
相手もそう思っていることを確信したサクヤが立ち会を提案する。しかしライガットはそれを遮って拒絶の言葉を発した。
「いや、やめておこう。君は今日が授業初日だろう?」
「怪我なら気にしません」
この相手と戦えるのならば、そんなことはどうでもいいと思った。剣士として、それだけの価値があると直感したからだ。
「君が気にしなくても俺は気にする。先輩として当然のことだ」
先ほどとは異なり、ライガットは穏やかな表情でそう言った。そして、それが本心からの言葉であることは容易に分かった。
「分かりました」
「うむ、素直で結構」
素直に引き下がる。サクヤとしても、戦意なき相手に剣を抜く気はない。この男とは、先輩後輩の垣根を超え互いに一切の禍根のない状況で、ただ純粋に剣を競い合いたいと思ったからだ。
「さて、そろそろ朝食の時間だ。食堂へ行くといい」
「ライガット先輩は?」
「食堂は二つある。上級生のはまた別だ」
広大な面積を誇るアストラルは、それ相応の生徒数を抱えている。全寮制のここでは、生徒は基本的に毎日三食を食堂で取ることになるわけだが、そうなると食堂の数は一つでは全生徒を捌けない。
そのため校舎には、一、二年用の食堂と三、四年用の食堂が別に存在している。それを告げて立ち去るライガットが、不意に止まって振り返った。
「一つ言い忘れていた。制服のローブは常時着用しろ。規則ではないが、まぁ先輩としての忠告と思ってくれ」
学校支給のローブには上等な魔法加工が施されており、ある程度の魔法や斬撃を防ぐ効果がある。授業中は義務付けられているものの、それ以外の場面ではそうではない。しかし、ここでは全生徒が常日頃から着用している。
脅威にさらされる場面など、授業を除いていくらでもあるからだ。要するにそれだけ警戒しろということである。
「はい」
「うむ、ではまたな」
後ろ手に手を挙げてライガットは去っていた。その背中にサクヤは少しだけ殺気を突きつけてみた。別にここで戦うつもりではなく、ただの悪戯だ。
「…………」
だがライガットからの反応はない。気付いていないとは思えない。単に相手にされていないだけだ。




