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沈む夢

作者: リグニン

俺は今日から住む事になったひらぎ荘と言うアパートの前にやって来た。セミの鳴き声がやかましい。早く入ってエアコンをつけよう。俺は重いキャリーバッグを持ち上げながら階段を上がる。階段はグラグラしていて、所々錆びていて、歩いてる内に崩れやしないかと不安になった。


俺の名前は坂垣幹彦さかがき みきひこ。バイトしながら学校に通う大学生だ。実家からは大学もバイト先も遠いので引っ越す事にした。と言うのは建前で実家では狭い部屋を弟と共有するのが嫌で1人部屋に憧れてさっさと家を出たかったのが本音だ。


ひらぎ荘は家賃が安いが俺が引っ越す204号室は特に安い。と言うのも事故物件なのだ。2人も不審死している。1人は風呂場で、1人はベッドの上で溺死していたらしい。部屋を借りる前に大家さんに直接聞いたのでガチだ。


その噂が怖くて近隣住民は寄り付かないし居住者は出て行くしで、せっかく老後の貯蓄でアパート経営を始めたと言うのにこれでは商売あがったりだと大家さんボヤいていた。現在このアパートの居住者は俺1人だ。大家さんすらいないので派手に歌って踊っても誰も文句言わない。


俺は部屋の鍵を開けて中に入る。見た感じは普通の家だ。広くもなく狭くもない。霊感があれば多少は違った印象を受けるんだろうか。俺は靴を乱暴に脱ぎ捨てるとさっさとエアコンを付けた。念の為に部屋は窓を開けて換気を済ませる。


以前、せっかく買ったノートパソコンをたった2年で壊してしまったため夏はちゃんとエアコンが効いて室温が下がるまでパソコンの電源を付けない事にしている。


「…暇だなぁ」


スマホを開いてソシャゲを開こうとすると更新が来ていた。仕方がないので更新する。SNSを開くとメンテナンス中だった。ソシャゲの更新が終わっていよいよ開こうとすると今度はスマホの本体更新の通知が来た。


「何でこう狙った様にまとめて来るかな」


面倒くさいので更新する事にした。デジタル時計の温度計を見るにまだパソコンの電源を入れるにはまだ早い。冷蔵庫の電源も先ほど入れたばかりなので買い物に出かけてもまだ飲み物も食べ物も置いておけない。


「クソー、こんな事なら前日来て付けておくんだった」


なんて言いながら他にやる事もないのでふて寝した。


………………。


……………………。


ふと気が付くと俺は見知らぬ浴室にいた。浴槽の中にいる。浴槽の中の水嵩はくるぶしより少し上のあたり。冷水だ。手足を動かそうにも動けない。俺は浴槽の中で震えながら膝を抱えている。


目は動かせる様だ。俺は目だけ動かしてより周囲を確認する。水面を見てギョッとした。見知らぬおじさんがこちらを見て驚いている。


「?」


俺が目を動かせば水面のおじさんの目も動く。そこで俺はこれが夢である事に気付いた。夢の中の俺はどうやら知らないおじさんになっているらしい。


外は明るい。夢の中の俺は昼間なら浴槽に水を張って中で膝を抱えてどうしたのだろう?辺りには怖いお化けがいる訳でもない。ただ退屈だった。


ピロリロリン♪


スマホの通知音で起きた。


頭がボーッとする。スマホを確認すると友達からだった。名前は猪口健司いぐち けんじと言って霊感のある友達だ。昔はありきたりなキャラ作りだと思っていたが、修学旅行でクラスの不良が墓地で肝試しをして様子がおかしくなった際に正気だった不良の1人に事情を聞いて持ち歩いてるパンフレットの様な物で肩を叩いて回って除霊した事があるので本物と考えて間違いない。


どうやら事故物件に引っ越した俺の身を案じてるらしい。あまりに過保護な性格なもので下手な事を言えばわざわざ家までやって来かねない。俺は特に変わった事はないと返信しておいた。


ピチョ…ピチョ…。


水滴の音が聞こえる。俺は立ち上がり台所に向かう。ここじゃない。浴室に向かうと浴槽の蛇口から水が漏れていた。どうやら閉め方が甘かったらしい。俺は少し強めに捻って水滴を止めた。


「……………………」


俺はふと立ち止まった。思い出したのはつい先程の夢だ。確かにここにいた。俺は少し身震いした。俺はまだこの浴室をを見た事が…。


「いや、あるな」


そう言えば借りる前にちゃんと見せてもらったんだった。俺は安心する。


「…俺って案外怖がりなのかな」


好んで観る程好きではないがホラー映画は最後まで視聴できる。馬鹿馬鹿しいと思いつつ怖い話も聞き流せる。ネットで怖い画像を送られて来ても不快に思って通報するぐらいだ。心霊的な物に対して怖いと感じるのは幼少期以来だった。


どの道夏は毎日シャワーで済ませようと思っていたのでしばらくはこの浴槽を使う心配はない。俺は安心して浴室を出た。


冷蔵庫の中が冷えて来た事を確認すると俺は家を出て買い物に向かった。冷蔵庫のサイズは大きくない。何を買うべきか慎重に考えなければ。





小雨の様な音が聞こえる。いや、違うな。もっと近い。シャワーか。シャワーの音だ。出しっぱなしにしてある。俺は浴槽の中で膝を抱えている。ああ、またこの夢だ。動かせるのは目だけ。


「…?」


俺はふと目線を下にやった。…浴槽の水嵩の高さが肩まである。前回より水量が増えている。隣のシャワーの水が浴槽の中に入り続けている。


「……………」


ふと俺は自身の左側が気になった。何と言うか、そこに誰かがいるという気配を感じる。小学生の時に怖い話を聞いてしまった時、頭を洗ってる時に感じたアレとよく似ている。誰だ?俺は視線を動かして左を見る。


しかし誰もいなかった。ただの気のせいか。しかし前回もそうだったが夢だと気付いても起きられない。俺はこの状況が特に怖くはなかった。もう少しで浴槽から水が溢れるがこの浴槽が満杯になっても溢れて零れていくだけで水かさがおじさんの顔より上の高さに来る事はない。ただただ退屈だ。何なんだよもう。


ピロリロリン♪


目が覚めた。スマホの通知音だ。猪口からだ。確認すると学校を遅刻した理由を尋ねられている。時計を確認すると学校への登校時間を遅れていた。


「やべっ」


俺はソファから立ち上がると急いで登校の支度をする。すると急に立ち眩みがした。


「?!」


しばらく動かずにいるとすぐに治った。そう言えば喉がカラカラだ。俺は塩飴を噛み砕いてお茶を飲むとビスケット型の携行栄養食を持って家を出た。


何とか気合で2限目に間に合った。授業を受けると昼休憩時に後ろの席から猪口がやって来て俺の肩をポンポンと叩く。


「随分遅かったじゃないか。何かあったのか?」


「ああ…。昨日夜遅くまでゲームやっててね」


「ゲーム…?テイク・ミー(ソシャゲ)のイベントはまだ先だしランカーズ(クラウドゲーム配信プラットフォーム)では最終オンラインは3日前だったじゃん」


テイク・ミーはまだ分かるとしてランカーズに関しては猪口のフレンドは30人近くいる。1人1人のオンラインオフラインを良く確認してるものだと感心した。


「お前が心配なんだよ。2人も不審死を出してるアパートにいるんだから」


「声がでけーって。変な噂立てたくねえんだから静かに頼むよ」


「ごめん」


そうしてその日はいつもの様に何事もなく過ぎて行った。帰り道が変わった事で途中までは猪口と一緒に帰る事になった。2人共帰宅部なので帰りは学校に残らない。あのアニメがどうたったとか、このゲームの発売日が楽しみとかそんな話をしていた。


しばらく歩いているとつい先程まで真昼の様に明るかった空の天気が急に崩れて大雨に見舞われた。サイトで見た天気予報では夕立が来るなんて書いてなかったもので傘も合羽も持っておらず一緒に近いひらぎ荘のアパートへ駆け込んだ。


「ここがひらぎ荘か…。何と言うか、周囲に人の気配がしないね」


「実際このアパートに住んでるの俺だけだしな。近所は雨が降ってなきゃ普通に通行人ぐらいいる」


俺は部屋を開けると猪口を中に入れた。


「うっ…」


猪口が俺の部屋を見るなり動揺した顔をする。


「どした。何かヤバイ霊でもいんのか?」


「いや…何と言うか。坂垣には何も見えてないの?」


「俺霊感無いって言ってるだろ」


「ならいいんだけど…」


「いや良くないよ。何がいるんだ?勿体ぶってないで教えてくれよ」


「いや…少なくとも坂垣に害意のある霊はいないよ」


「じゃあいいだろ」


猪口は何を思ってかマスクを付けて家の中に入った。俺は家に帰るとまず浴室に行って蛇口を閉め、キッチンの蛇口を閉めた。この2箇所は気が付くと緩んで水滴が滴り落ちるので長時間家を空けると必ずこうして閉め直している。俺はパソコンを立ち上げてテレビを付けた。


「雨が止むまでゆっくりしてけよ。ちょっとした食べ物なら冷蔵庫とか台所の引き出しに入ってるから好きに食べていい。ああ、お茶か何か出そうか?」


「いや、大丈夫。お構いなく」


「そう。遠慮しなくていいのに」


俺はパソコンでランカーズを開いた。俺はグループチャットで友達に連絡してロフトと言う流行りのバトロワゲーに誘った。返事待ちの間が暇なのできゅうりを齧っているとトイレに行って戻って来た猪口が何もない所で転んだ。起き上がろうとして転んでいる。


「体調悪いならソファで寝てた方がいいよ。ベッドでもいいけどほらアレ…うん」


「いや…体調はいいよ。それはそうと坂垣はいつもどこで寝てるの?」


「ソファ」


「100%親切心で言うけどベッドで寝た方がいいよ」


「えぇ…でもあそこで人が死んでんだよ…?」


猪口はベッドで寝た方がいい理由は答えなかった。


それから彼はしばらく何もない所で転んだりしていた。雨は一向に止む気配がない。話を聞けば彼の両親も仕事で遅くなるらしく迎えにも来れない様だ。仕方がないので泊って行く様に言うと彼はお礼を言って提案に乗った。


俺がゲームに熱中してる間に猪口はシャワーを浴び終えて俺の服を着るとすぐにベッドに向かった。


「ええ、マジでそのベッドで寝るの??」


「と言うかここ以外ありえないよ」


「ああ、そう…。にしても随分就寝時間早いんだな」


「君の言った通り今日は体調が優れないみたいだ」


日中は特に体調不良には見えなかった。ここに来てからだ。彼は俺に害意がある幽霊はいないと言っていたが…。彼がここに来てからはやけに直接的な言葉を避けて肝心な事を言いたがらない。


まあ猪口が気難しくなる事があるのは今に始まった事ではないので俺は諦める事にした…のだがふと気になった。あいつ俺にベッドで寝る様に勧めておいて自分がベッドで寝るのか?思わず首を傾げる。


そう思ってると寝室から猪口が顔を出した。


「あまり遅くまで起きてないでお前も早く来いよ」


「………おやすみ」


猪口は欠伸をしながら扉を閉めた。俺は誘っていた友達が参加準備が出来たのを確認すると早速とロフトを始めた。


しかし今日は運が悪かった。プレイ開始して十数分してすぐにボイスチャット越しにネッ友のため息が聞こえて来た。


『はあ~~~…。また姫だ』


「姫ぇ?平日なのに??」


『勘弁してくれよマジで』


姫が出た。要するに姫プレイが発見されたと言う事だ。装備が充実していない、あるいはゲーム経験が少ない、またはプレイヤースキルが高くない1人を多くのユーザーが囲って守ったり勝てる様に支援したりする。圧倒的な数の暴力で襲われるので少人数チームでどうにかなる訳もなく、迷惑行為にも該当しないので通報もできない。更に重課金の古参が取り巻きにいる場合はいとも容易く狩られてしまう。


『だーっ!今日はやめだやめ!』


「えぇ~。でもこれから面白くなる所だろお?狩り場は固定だろうし別のステージ選べばマッチングしねえって」


『勘弁してくれよ。連敗続きでランクが落ちちまう。日を改めよう』


1人がそう言うと皆も解散して行った。俺はため息を付いて諦めた。仕方がない。キャラランクが下がるとログインボーナスの質も下がる。だからそれぞれ姫の少ない平日を狙う。その平日に出たとあっては皆がプレイを続行したがらないのも無理はない。


ガタン!!


キルされたので他のプレイヤーのカメラ視点を眺めて暇を潰していると何かが落ちる音がしてビクッとした。寝室からだ。俺は急いで寝室に向かうと猪口が口から水を噴き出しながらベッドの下でもがき苦しんでいた。


「猪口!!」


「ガボガボ、ゴボッ…」


猪口は顔を真っ青にして手足をバタバタさせている。目が開いていない。俺は急いで駆け寄って彼を揺さぶる。


「おい、しっかりしろ!猪口!!!」


すると口から水を吐かなくなり、目を開けて咳き込んだ。マスクをしたままで息苦しそうなので俺は彼からマスクをぶん取った。


「げほっ、ごほっ、助け、助けてくれ!!」


猪口は怯え切った表情で俺にしがみつく。


「大丈夫だ。もう大丈夫…」


そう言って俺が猪口の背中を撫でてやると次第に落ち着いた。彼は肩で息をしながらゆっくり呼吸をする。


「…坂垣、今すぐにここを出よう。タクシーを呼ぶよ。俺の家に来てくれ」


「あ、ああ…」


俺は貴重品と着替えを持って彼と一緒に家を出た。外はまだ雨が降っていたが勢いは弱い。タクシーを待つ間でさえ家にはいたくなかったらしく外で待つ事になった。幸いタクシーは近くを走っていた様で到着には数分もかからなかった。


タクシーにいる間、猪口は誰かに電話していた。何やらよく分からない単語が出ていたので俺は内容を理解するのを諦めてただひらぎ壮の方を眺めていた。





家に到着すると鍵を開けて中に入る。彼の家はやや広かった。


「坂垣。落ち着いて聞いて欲しい」


「おう」


「今日からここに泊まっていいからあの家には帰らないでくれ」


どうして、とは聞けない。実際に心霊的な物に殺されようとした様を目の前で見たのだ。俺も同意せざるを得なかった。


「俺の師匠が事情を聞いて急いで帰って来てるって。到着次第あのアパートを見てもらうよ」


「ああ…」


「上がってくれ。家を案内するよ」


そう言って俺は猪口から自宅を案内された。何というか若干宗教的な物が複数置いてある以外にはあまり生活感の無い家だった。浴室やリビングルームを説明された後に自室を教えてもらった。


「猪口、もう身体は大丈夫なのか?」


「今の所は多分…」


「随分はっきりしないな」


そう言われて猪口はムッとした顔をする。


「別に坂垣だってテレビもエアコンも使ってるけど電気工学には詳しくないだろ。俺もあの家で起きてる事が分からないんだ。ひとまず家から離れたけどこれで大丈夫なのか分からない」


事前に察知できれば防げたと言う訳だ。


「気に障ったならすまん。ただ口から水を吐いて溺れてたから不安になっただけだ。別にお前を責めるつもりはなかったんだ」


「ごめん、ちょっと気が立ってた。…霊感のないお前にもあの水が見えたならかなり呪いに蝕まれてるよ。教科書とか着替えは俺が取りに行くからしばらくはあの家には近付かないでくれ」


「分かった」


その後は俺も眠気が襲って来たのでシャワーを浴びて寝る事にした。ベッドは猪口の物を使う事になった。猪口は今夜は俺に万一の事がないように寝ないつもりでいるらしい。


俺がベッドに横になっても他に何もせずにじっと見ているあたり家から離れると言う行為も気休めにしかならないのかもしれない。


そう思うと何だか怖くて寝付けない…。何て事はなくすぐに眠りにつくのだった。




…ガボガボ…ゴボボ…。


「?!」


気が付くといつもの浴槽の中にいた。いつもと違うのは水嵩が頭より上の高さまであるらしい事だ。俺は膝を抱えていて動けない。呼吸は絶えずに続く。肺の中に水が入って来る。


「!!!!!」


苦しい。動けない。体は動いてくれない。目を動かすと俺の体は無数の手が浴槽の底に押しつける様に張り付いている。


「?!?!!!」


痛い。苦しい。死にたくない。助けて。


痛い。苦しい。苦しい。


助けて。


たすけて。


その時、俺の左手首を強い力が握った。その瞬間体が動く様になった。


「!!!!」


目が覚めた。左を向くと毛むくじゃらの怪物がいた。俺の手首を握っている。


「うわああああああああ!!!!」


俺は毛むくじゃらの左頬をぶん殴った。手応えあった。毛むくじゃらの塊は床に手を付いて倒れる。近くにいた猪口が駆け寄ると俺を羽交い締めする。


「化け物!化け物がそこに!」


「落ち着け!!その人は俺の師匠だよ!!!」


「え?」


よく見ると単に髪の毛が恐ろしく長い細身の男性だった。師匠と呼ばれた人物はおよそ人間とは思えない関節の動きで起き上がる。まるで暖簾の様に垂れ下がった髪の毛をかき分けると酷く荒れ、土気色した肌の男の顔が現れた。まつ毛は白、瞳も輪郭ばかり黒くて白い目をしている。紫色の唇でニタ〜ッと笑った。


「ふひひ。若人は元気だね。こうでなくては。坂垣君、お体はどうかね?」


「え、ええ…元気…です…?さっきはすみません」


「心配したよ。もう駄目かと思った」


猪口がため息をついた。体に目をやると俺の全身…ばかりかベッドごと水で濡れていた。


「全身から水を噴き出してのたうち回っていたんだ。俺、もうどうしていいか分からなくて…」


「明日の夕方にお邪魔しようと思ったのに猪口君からどえらい電話がかかって来てねえ。さてさて、坂垣君が起きた所でひらぎ荘へ行こうか」


「…今から?」


「うん。今から。もう次に君が一睡したら私でも助けられないからね。ふひひ」


俺達は師匠?の車に乗るとひらぎ荘へ向かった。外は雨が止んだ様でじんわりと蒸し暑い。クーラーが少し効いて来たかと思う頃にひらぎ荘が見えて来た。


ひらぎ荘は外から見ても分かるほど、俺の部屋から水が漏れている。


「あわわ、あわわわ…水道代が…」


「気になるのそこなんだ…」


「心臓に毛の生えた様な子だねえ」


そんなやり取りをして自室に向かう。師匠が下がってる様に言うと彼は部屋の扉に手をかけた。すると扉は勢いよく開いて水が噴き出し、噴き出した水は逆再生される様な動きで師匠を連れ去って行った。


呆気に取られていると隣にいた猪口が扉を何度も叩く。


「師匠!師匠!!」


ドアノブを何度も回す。俺は鍵を使うが鍵は開いている。叩いても蹴っても開かない。俺が扉を開けようと必死になってる間に猪口は近くで扉を開けるのに使えそうな道具を探している。しばらくすると近くの工事現場から何かを持って来た。


「バールがあったよ!」


「それだ!」


俺は扉の隙間にバールを突っ込むと無理矢理扉をこじ開ける。すると扉が勢いよく開いて頭をぶつけた。痛みを気にせず中に入る。


俺は中を見てギョッとした。天井から水が漏れ続けており、壁も床も黒カビでびっしりと埋め尽くされている。床は黒い藻のような物が生えていて絶えず水が川のように流れ続けていた。


「なるほど、猪口が家に入るのを嫌がる訳だ…」


「師匠!師匠!!」


猪口は叫びながら中に入る。俺も後に続いた。あれからどこに連れて行かれたのだろう。真っ先に思い当たるのは浴室だった。ざぶざぶと膝の高さまである水をかき分けながら中を歩くと、浴室の中で異様に伸びたシャワーホースに巻きつけられた師匠がいた。


「かふっ…ぐっ…」


ホースが皮膚に食い込んで苦しそうにしている。猪口は急いで彼の元へ走る。


「師匠!!」


師匠は口をぱくぱくとさせて何かを喋ろうとしているが首を絞められている物で声が出ない。俺は口の動きから何か読み取れないか見つめる。


あうい…お…いえお…。


まるで分からない。猪口は必死にホースを緩めようとしている。しかし指が食い込んで余計に首が締まっている。師匠は必死の形相で俺の方を見ると下を指差す。その先にあるのは蛇口だった。あうい…蛇口。蛇口…を、閉めろか!


冷静になって辺りを見渡すとどこかしこ蛇口が開きっぱなしになっている。俺はまずシャワーホースへ繋がる蛇口を締めた。すると師匠の体が拘束から解放されその場に倒れる。猪口が彼の体を支えた。


蛇口…。そう言えば家を行き来する度に水滴が落ちる程緩んでいた。俺は家中の蛇口を締めて回る。すると先ほどまで足元を覆っていた水がどこへやらか消えて行った。それから急いで浴室に戻る。


「よくやってくれた。さて…」


師匠は懐から何かを取り出す。それは金色で三叉槍の先を両側に付けた様な物だった。それをタイルの上に突き立てると部屋中の黒いカビが豪雨の様な音を立てて刃先に集まる。ゆっくりとそれを床から引き抜くと黒いカビが四角形の箱の様な形を象って一緒に盛り上がる。


師匠はその表面を手で払うとオルゴールケースの様な木箱が出て来た。彼はそれを開けると中にはへその緒が入っていた。


「師匠、これは?」


「ある地域で船乗りのお守りとして使われていた物だよ。今はどっかの馬鹿が馬鹿向けに呪物として売っている様だがね。私も実物は初めて見たよ」


元々は海で溺死した幽霊達が船を転覆させて引きずり込んだりしない様にするための物だった。寄って来た幽霊達を捕まえてこの中に封じ込め、持ち帰ってしっかり供養したりした。これの悪用を考えた人間が呪い殺すための物として売買しているらしい。


「元々正しい知識がないと管理が難しい物なんだ。これを使って人殺しを企んだ人間が自ら呪い殺されたって所だろう。箱を開けて魂を放ったからしばらくは問題ないがこいつはしっかり処分する必要がある」


そう言ってその木箱を懐に入れた。


「災難だったね、坂垣君。でもこれでこの部屋が君に牙を剥く事はないだろう。私はこれで失礼するよ、おやすみ」


師匠は踵を返して部屋を出て行く。猪口が彼の後を追った。


「師匠、ご一緒します」


「君は坂垣君の傍にいてあげなよ。あんな事があった後じゃ安心して眠れないだろうからね。それにこいつの呪い効果が出るまでは数か月はかかる。それまではむしろ私のお守りになるだろう」


「ならいいんですけど…」


そう言って今度こそ師匠は家を出て行った。俺はソファにどっかりと座ってため息を付いた。


「あんな事があった後じゃそう眠気なんて来ねえな…」


「だよね。俺もそう。明日学校休む?」


猪口が笑った。少し考えたが首を横に振った。


「いや、明日バイト入れてる。学校休んでバイトやってるのを目撃されたらまずい。仕方ねえ、頑張って寝る」


「そっか。俺はお前がうなされてないのを確認してから寝るから先に寝てくれ」


「おう、頼むわ」


俺は寝室に向かう。つい先ほどまで膝まで浸かって滑りやすくなった室内を歩き回っていたというのに部屋はまるで何もなかった様に綺麗だ。玄関の扉はバールでこじ開けたので傷がついている。これは弁償するしかない。後浴室のタイルもそうかな。まあ命があっただけでも大儲けだ。


そうして俺はベッドで横になる。先程までは今からバイトができそうなほど目がばっちり開いていたと言うのに横になると一気に強い眠気が襲って来る。俺は眠気の勢いに身を任せてそのまま眠った。


この晩は結局うなされる事なく快眠できた。変な夢も見なかった。どうやら悪夢から解放されたようだ。


その日からは俺は悪夢にうなされる事はなくなった。猪口も嫌な顔をせずに時々遊びに来る様になった。あの恐怖体験も少しずつ過去の思い出になって行った。


夏も過ぎて秋が来る。俺はすっかり通いなれた自宅に帰ると手洗いとうがいを済ませ、浴室とキッチンの蛇口を捻って閉め直した。


ホラーは映画もゲームも漫画も好きだけど書くのは苦手。怖い話に仕上がってるといいなあ。

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