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8.闇の糸

 タハールは帝都に着くや否や、すぐに皇太子宮に向かった。

 

 「タハール、ご苦労さま。それで上手くいったのか? ロシュディは?」

 

 「シルバーヴェル辺境伯は縁談を承諾されました。ロシュディは、シルバーヴェルに残ってオレリー嬢との距離を縮める……は建前で他の令息の牽制を」

 

 「そうか、皇妃が何を企むか分からないからな。これからシビアな戦いになるぞ」

 

 「そうですね、あの女は人の命を何とも思っていませんから。ところで、皇后陛下のお加減はいかがですか? しばらくお会いしておりませんが、陛下もずっとお側に?」

 

 アレクシスは慎重に声を潜めた。

 

 「母上は……父上が側にいる限り容体は安定しているが、一度もお目覚めになっていない。あれから六年か……母上の命は、未だ皇妃の手の中にある状態だな……」

 

 「『闇の糸』……醜く恐ろしい呪いの力ですね」

 

 ぼそりとタハールが呟いた。


 ◇


 闇の糸。

 

 この恐ろしい呪いの力が、ロシュディの両親を亡き者にし、今まさに皇后を死の淵に追いやろうとしていた。

 

 そして、この呪いの力を操れるのはローズ皇妃、ただ一人である。

 

 隣国のスタニア王国より政略結婚で嫁いできたのが、燃えるような赤髪に琥珀色の瞳が印象的なローズ第一王女だった。

 

 彼女は、両国にとって政治的な道具にしか過ぎなかったが、フェルナンド皇帝は礼節をもってローズを皇妃に迎えた。

 

 強者の象徴のような黄金の髪に精悍な顔立ち、周辺国を次々と制圧し帝国をさらに強大化した覇者にもかかわらず、思いやりのある皇帝を愛するのは時間の問題だった。

 

 そして、皇帝としての責務を果たすべく、ほどなくして二人の間には第二皇子のジェレミーが生まれた。

 

 しかし残念ながら、皇帝はすでに皇后カトリーヌを深く愛しており、第一皇子であるアレクシスのことも慈しんでいた。

 

 どんなに望んでも皇帝の心は皇后のもの、やがて、求めても手に入らない愛に執着し、皇后への憎悪が膨らんでいった。

 

 一方、皇后は、ローズの思いとは裏腹にいつも皇妃親子を気遣っていた。

 

 「陛下、ローズ様とジェレミー第二皇子の宮にも足をお運びになって。きっと異国の地で寂しい思いをされていますわ」

 

 「カトリーヌ、そなたは優しいな。その優しさを私にももっと向けて欲しいものだ」

 

 「まぁ、陛下ったら、わたくしの愛はいつも、陛下とアレクシスに惜しみなく注いでおりましてよ」

 

 フェルナンドは、勿忘草を思わせるカトリーヌの美しい髪を手に取り、軽くキスをした。

 

 優しい微笑みをたたえ、包み込むように心を癒してくれる皇后カトリーヌは、 血なまぐさい戦場や魑魅魍魎の政治の世界を忘させてくれる唯一の存在だ。

 

 「今日はアレクサンドル公爵夫人が来る日だったか?」

 

 「ええ、久しぶりにロシュディも連れてくる予定なの。だから、今日は庭園で素敵なおもてなしを考えているのよ」

 

 嬉しそうに微笑むカトリーヌに、フェルナンドは余計にその場から離れるのが惜しくなった。

 

 「それでは、邪魔者は消えるよ。久しぶりの妹と甥っ子との楽しい時間だ。アレクシスと四人でゆっくり楽しむといい。それではまた晩餐で会おう」

 

 「エメリーヌ! ロシュディ! いらっしゃい、待ってたわ」

 

 「カトリーヌお姉さま! あっ、カトリーヌ皇后陛下、お久しぶりでございます」

 

 楽しそうに再会を喜ぶ姉妹の声が、フェルナンドの耳にも心地よく届いていた。

 

 そうして皇帝と皇后にとっては穏やかで愛おしい時間が、皇妃にとっては煮えたぎるような嫉妬で辛く寂しい時間が流れていった。


 ◇

 

 それが六年前、すでに皇妃ローズは帝国に嫁いで十七年もの歳月が流れていたが、突然、母国であるスタニア王国から隠密に一人の老婆が寄こされた。

 

 「お前は何者なの? 今更、何のためにスタニア王国がお前のような者を寄こしてきたの?」

 

 不愉快そうに問いただすローズを嘲笑うかのように、老婆はニヤッとしたかと思うと何か呪文のようなものを呟き、瞬く間に髪も瞳も真っ黒な美しい女の姿に変わった。

 

 「国王陛下の命で参りました。ジェレミー様も十六歳になり、来年は成人を迎えられます。国王陛下は、そろそろ機が熟したのではないかと仰っておられます」

 

 ローズは、サーっと顔が青ざめていくのが分かった。

 

 「お父様が……。わ、私は皇帝に愛されていないのよ、今の状況、お前も知っているんでしょう!」

 

 「国王陛下も大変憂いておられ、ジェレミー第二皇子様が皇帝となる妨げになるものを、全て排除することを望んでおられます」

 

 「なんてこと、皇帝陛下まで手にかけろと仰るの! ああ……お父様」

 

 「フッ、なんと憐れな。皇帝に一度も心から愛されていないのですよ。やっと手に入れた唯一の愛の結晶さえも、むざむざとあの皇后に踏みにじられて良いのですか?」

 

 その言葉に、ローズの中でプツッと何かが切れる音がした。

 

 そして、心には黒くドロドロとした憎悪が広がり、今まで奥底に閉じ込めていた感情が一気に爆発した。

 

 「ローズ皇妃様、その調子でございますよ」

 

 黒い髪の女は不敵な笑みを浮かべながら、口からまるで蜘蛛の糸のような不快な黒いオーラを吐き出し、もわもわと広がったかと思うとそのオーラでローズを包み込んだ。

 

 あまりにも強い悪臭と不快な気を纏ったオーラに、ローズは吐き気がしたが、強大な力が全身を駆け巡るような高揚感も感じていた。

 

 「この力は何なの……」

 

 「アハハハ、私はお前の父親が召喚した『闇の精霊エゴヌ』さ。お前に授けた加護は『闇の糸』だ。この力は、お前の憎悪の強さが根源だ。誰しもが持つ心の闇や憎悪を糸のように引き寄せて操り、呪いの力にするのさ」


 ローズは背筋が凍り付いた。


 大昔に、堕落した精霊と呼ばれる『闇の精霊エゴヌ』は『光の精霊セリュネア』に封印され、どちらもその時に消滅したと伝承されていたからだ。


 (たしか『闇の精霊エゴヌ』は、加護を授ける対価として命を奪うはずでは……お父様、そう言うことね……。このままで終わるものですか!)

 

 こうして『闇の糸』の加護を授かったローズ皇妃は、自分の命と引き換えに、愛する息子ジェレミーを皇帝にすると心に決めた。


 ローズ皇妃は、ジェレミーには自分のような惨めな日陰の人生は送って欲しくなかった。


 そして長い間、喪失感や寂しさ、嫉妬や執着……もう名前も無いような感情に心が擦り切れていた。


 『闇の精霊エゴヌ』に小さな良心や希望すらも奪われてしまったのか、もうローズ皇妃の心には憎悪しか残っていなかった。


 ◇

 

 貴族社会ではどんなに善良に生きようとも、必ず妬み、嫉み、逆恨み……様々な感情の対象となる。


 『闇の糸』は恐ろしいほど狡猾に、カトリーヌ皇后やアレクサンドル公爵家に対する負の感情を集め、強力な呪いのオーラを生み出した。

 

 ローズ皇妃はそのオーラを操り、カトリーヌ皇后そしてアレクシス皇太子の強力な後ろ盾であるアレクサンドル公爵家に、次々と呪いをかけた。

 

 アレクサンドル公爵夫妻は呪いに抗えず亡くなったが、皇后は皇帝が継承する『大地の精霊リュー』のお陰で一命を取り留めた。


 『大地の精霊リュー』の加護は、自然の生命力を源とする『浄化の力』で、使い過ぎると自然に影響を及ぼすため加減が必要だった。


 カトリーヌ皇后は、皇帝の加護の力で昏睡状態を保っているものの呪いは解けず、いつ命が尽きてもおかしくはなかった。

 

 一瞬にして、家族の幸せを呪いによって奪われたロシュディとアレクシス。

 

 ローズ皇妃との長い戦いの始まりだった。

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