5.精霊の加護
月も傾きかけた夜更け、ようやくロシュディは公爵家に戻った。
「ロシュディ様、おかえりなさいませ」
執事のギョームと侍女長のマルゴーが、静かにロシュディを出迎えた。
「ああ、今日はずいぶん疲れた」
「ホットミルクでもお持ちしましょうか?」
長く公爵家に仕えているマルゴーが明るく冗談交じりに尋ねる。
「フッ、今日は必要ないぞ。遅くまでご苦労だったな、ゆっくり休んでくれ」
「ええ、ええ、ロシュディ様も早くお休み下さいませ。マルゴーはいつもお体を心配しておりますよ」
母親のような温かい言葉と、柔らかい笑顔を残してマルゴーが立ち去った。
「ギョーム、遅くに悪いが『精霊の書』を執務室に持ってきてくれ」
◇
アレクサンドル公爵家が『時の精霊エーテル』から授かった加護の力は、切れないものは無いと称えられるほど強い『剣の一撃』だ。
そう人々は思っていたが、隠された本当の力は『精霊の書』を媒体にオーラで『過去を見る力』だった。
もっと正確に言うと、『精霊の加護』を授かった者の過去の行いを見ることができた。
成人前、ロシュディは父にこの力の意味を訊ねたことがある。
「『精霊の書』は、『精霊の加護』を持つ者の過去の行いしか見せてくれません。一体、なんの意味があるのでしょう?」
「ハハハ、確かにな。意味か……そうだな、『精霊の加護』の力は使い方を誤ると多くの人を傷付けてしまう。だから力を監視し、正しく使われるように審判を下す使命を負っているんだ」
「それでオーラを込めた剣の一撃が、これほど強いのですね。審判を下すため……」
「そうだ。しかし、アレクサンドル家が政争の道具として『過去を見る力』を使うようになってからは……力を正しく使えているとは思っていない」
「父上、綺麗事だけでは足元をすくわれます」
「それでも……いや、信じているぞ。お前なら、いつかこの力の真の使命を果たせるだろう」
◇
六年前に当主となったロシュディは、初めて『精霊の書』を開いた時の衝撃を一生忘れることはないだろう。
そこには、両親の死の真相とカトリーヌ皇后陛下の昏睡の原因がつまびらかに見えた。
あろうことか、シエロ帝国には存在しない『精霊の加護』を持つ者の仕業だったのだ。
その者の名は……ローズ皇妃。
そして、両親が秘密にしていた方法で自分を守ってくれたことを知り、深い絶望に襲われた。
ロシュディは全てを犠牲にしても、必ず復讐を果たすことを心に強く誓った。
◇
コンコン。
ギョームが、無駄のないキビキビとした動作で執務室に入ってきた。
その腕には、ボロボロの古びた革装本が大切に抱えられている。
「ロシュディ様、デビュタントボールで何か気になることでも?」
「ああ、実際会って気になったというか……あの家門も『精霊の加護』を授かっているからな」
「実際会って……? こうして急いで『精霊の書』をご確認なさるということは……噂の美しいご令嬢に一目惚れでもされましたか?」
「ハッ?オ、オレは……ただオレリー嬢が『精霊の加護』の影響がないか調べようとしてるだけだ」
「フフフッ、わたくしは一言もオレリー嬢とは申しておりませんよ。シルバーヴェル家のご令嬢……たしか、『顔だけ令嬢』と社交界で噂でしたね」
「まったく、勘違いも甚だしいぞ。俺が一目惚れ? いつもの……アレクシス皇太子殿下の命令だ」
「はい、はい、ロシュディ様は変なところでシャイでいらっしゃる。もう初心なお年頃でもないのに」
二人きりということもあり、ギョームは少しおどけた口調でからかった。
ギョームはロシュディの乳母を務めたマルゴーの息子で、乳兄弟ということもあり心から信頼できる存在だ。
「ギョーム、俺をからかうな。それにオレリー嬢は、『顔だけ令嬢』とはかけ離れた魅力的な令嬢だったよ」
そう言うと、ロシュディは窓の外に目をやり、神妙に何かを思い返しているようだった。
(誰かが、オレリー嬢に悪意のある視線を送っていたような気がしたが……)
「ロシュディ様?」
「いや、何でもない……『精霊の書』に変化はなさそうだな。ギョーム、明日から忙しくなるぞ。オレリー嬢に縁談を申し込む」
「ええっ! 私が、皇太子殿下とロシュディ様のお考えを察するなど恐れ多いことですが……急に他のご令嬢方をさしおいて縁談とは」
「分かっている。しかし、どうやらローズ皇妃がシルバーヴェル家を取り込もうと動いているようだ。殿下も焦っている」
ギョームは、復讐と政争のためとはいえ、ロシュディがいつか心から愛する人と結ばれて欲しいと願っていただけに、どこか素直に喜べないでいた。
(いや、でも、今までのご令嬢方とは違って、ロシュディ様が急いで行動を起こすぐらいだ。……これは案外、もしかするぞ)
あれこれ考えながらギョームは執務室を出ると、すぐに仕事に取り掛かったのだった。
◇
「た、大変でございます! 旦那様!」
いつもは冷静沈着なシルバーヴェル家の執事アルバンが、ノックをすると同時に慌てて執務室に入ってきた。
「騒がしいぞ、今度は何ごとだ? またどっかの馬鹿が求婚状でも送りつけてきたか?」
辺境伯ジャメルは、朝からひっきりなしに届く大量の求婚状と贈り物の山にうんざりしていた。
帝都でのデビュタントボールから一家が戻るやいなやこの有り様だった。
帝都から馬車で五日はかかる北の領地に、様々な家門から求婚状や贈り物が届けられ、屋敷の者たちは右往左往しながら対応に追われていた。
「ほんっとに、中央の貴族はいつまでたってもダサいわ。ロマンチックの欠片もない、騒がしいだけね。誰が、こんなセンスのない求婚でなびくと思っているのかしら」
そう言い放ったオレリーの母であり辺境伯夫人セシルの実家も由緒ある中央貴族なのだが……。
「母上、オレリーの美しさは人を馬鹿に……いや惑わすのですよ。封を開けるのも面倒だ、もう全部燃やしましょうか?」
ルシアンは、床にまで置かれた求婚状の山を蹴りなが執務室に入ってきた。
「アレクサンドル公爵様が」
「どうした? まさか、女には困っていない色男まで求婚状を送ってきたのか?」
珍しく少し取り乱していたアルバンは、こんな時でも変わらない一家の辛口を聞いて冷静さを取り戻した。
「いえ、アレクサンドル公爵様がこの屋敷へお越しになりました」
「はっ? 今!? あの男が!?」
ジャメル、セシル、ルシアンが素っ頓狂な声を同時に上げた。
「はい、さようでございます。先ほどから応接間でお待ちでございます」