44.掛け違えた過去
サミとタハールは言葉を失った。
後ろ手に扉を閉め、もう片方の手は腰の剣を握っている。
「ジェレミー殿下……、誤解しないで頂きたい」
「タハール卿、お母様の部屋に忍び込むとは大した度胸だね。そちらはオレリー嬢の護衛騎士か……」
「お嬢は関係ありません! 俺が勝手に……」
「そんな言い訳が通用すると思っているのかい?」
サミとタハールの背中を嫌な汗が流れた。
「殿下、お願いします。今は一刻を争う事態なのです! リアン嬢が……」
「タハール様!」
サミが厳しい声でタハールを制した。
(しまった! 焦りのあまり口を滑らせてしまった)
「ハハハ、いつも飄々としているタハール卿でもそんな顔をするんだね」
ジェレミーはそう言うと、スタスタと迷いなく部屋の大きな鏡の前に立った。
「僕は君たちを助けに来たんだ」
◇
「ローズ皇妃様、陛下がお呼びでございます」
皇妃宮の侍女が慌ててローズの部屋に入って来た。
「陛下が?」
(公式の行事以外で呼ばれるなんて……いつぶりかしら)
「分かったわ、すぐに支度をしなさい。……今日は特に美しく仕上げてちょうだい」
ローズは逸る気持ちを抑え、フェルナンド皇帝が待つ部屋の前で一呼吸置いた。
「陛下……わたくしですわ」
静かに扉が開き、ローズと入れ替わりに部屋の使用人たちは皆、出て行った。
「ローズ皇妃……そなたの好みはこれで良かったか?」
鼻を抜けるフレッシュなミントの香りが、ローズの緊張を和らげた。
「ミントティー……わたくしの好みをご存じでしたの?」
フェルナンド自らティーポットのお茶をカップに注ぐ姿を、ローズは夢心地で眺めていた。
「そなたが私にそう言ったのだ……覚えていないのか?」
「あっ……」
嫁いで間もない頃、フェルナンドの関心を引きたい一心で、あれこれ一生懸命話し掛けたことを思い出した。
(陛下はいつも上の空だと思っていたのに……わたくしの思い違いだったというの?)
ローズが嫁いだ時期とカトリーヌ皇后の出産が重なり、フェルナンドのほとんどの時間は皇后に費やされていた。
こうして二人っきりでティータイムを過ごすことなど、数えるほどしかなかったのだから……。
ローズにとってフェルナンドとの思い出は、政略結婚で定められた形式的で限られた時間での接触しかなかった。
そこに心の通った温もりを感じたことは一度もない。
それでもジェレミーが誕生した時は何かが変わるのではと期待していた。
(思い違いではないわ……陛下はわたくしの存在など忘れているようだった)
「陛下は、わたくしを憎んでおいででしょう?」
「……そなたがカトリーヌに手を掛けた時からな」
「わたくしが? 証拠はありますの?」
「そんな無意味な茶番をするために、そなたを呼んだのではない」
ローズは大きな瞳をさらに大きくして、声を震わせ言い放った。
「わたくしは……一体、何をしたら陛下の関心を引けるのですか!」
「そなたが嫁いだ時から私を愛してくていると分かっていた。しかし、その気持ちに男として応えることは出来なかった……私の未熟さのせいで」
「和平のための政略結婚で嫁いだ身……陛下の寵愛を独占できるとも、望んでもおりませんでしたわ! ただ、わたくしは……」
(何度味わっても辛いなんて、わたくしは陛下をどれほど愛しているというの?)
フェルナンドのために着飾ったドレスも化粧も全て滑稽に感じた。
(陛下にとってわたくしは……無関心な透明人間)
「私は、そなたを蔑ろに思っていたわけではない」
「嘘よ、嘘だわ! 陛下は一度もわたくしを見て下さらなかったわ! わたくしを知ろうともしなかったじゃない!」
「他国から嫁いだそなたに不便がないように心を砕いていた」
「そんなこと望んでおりません! わたくしは陛下が寄り添って下さるだけで耐えられたというのに……」
悲しみ、失望、怒りが憎悪となり、抑えきれない闇のオーラがローズの体をうごめき出した。
忘れようとした愛と憎しみが交錯し、ローズは再び心が壊れていくのを感じていた。
「アハハ! 陛下……愛するあなた、死がわたくしたちを一つにしてくれるわ」
ローズは幾千もの蜘蛛の糸のような『闇の糸』を放ち、禍々しい呪いのオーラで一気にフェルナンドを飲み込んだ。
二人のやり取りを初めから隠れて見ていたオレリーとアリーヌは息を呑んだ。
「陛下が!」
飛び出そうとするアリーヌの腕をオレリーは掴んだ。
「アリーヌ、まだだめよ! 今は陛下を信じましょう……」
◇
「ジェレミー殿下、この鏡の通路をご存じなのですか?」
「タハール卿は本当に口が軽い。帝国の次期宰相とは聞いて呆れるよ」
「そ、それは……迷いなくジェレミー殿下が鏡の前に立たれたから」
タハールは言い返せず、ごにょごにょと口籠った。
(この非常事態にこいつらは何を悠長にしてるんだ?)
サミは腰の剣をスーッと引き抜いた。
「ジェレミー殿下は俺たちの味方ですか? それとも邪魔立てするつもりなら……」
ジェレミーはサミの剣の先を指で押し退けた。
「言っただろ、助けに来たって。ほら、見てみるといい」
ジェレミーが鏡に触れると、先ほどの通路が鏡の中に現れた。
「タハール卿、サミ卿、これで信じてもらえるかな?」
三人は鏡の中の通路を全速力で駆けていた。
息を切らしながらタハールは、どうしても我慢できずジェレミーに問いかけた。
「ハァ、ハァ、殿下! どうして鏡の通路をご存じで? なぜ方法が分かったのです?」
「ハッハッ、タハール卿は空気が読めない人物のようだ。この通路は……万が一の時、お母様が僕を守るために用意したのさ」
「ハァ、そ、ハァ、そんな必要が?」
「タ、ハッ、ハッ、タハール卿は分かっているはずだ。父上や兄上から排除されそうになった時のために決まっているだろ!」
「お二人とも鍛錬が足りないようですね。陛下も皇太子殿下もジェレミー殿下を大切にされているのでは?」
「大切……そうだな。だけど、愛されてはいない。状況が変化すれば変わってしまうような陳腐な繋がりだ」
「そうですか……ジェレミー殿下も愛の見返りの大きさで質が変わる方のようですね」
「サミ卿、それはどういう意味?」
「そのままの意味ですよ。愛は見返りがなければ虚しいだけのものなのですか?」
「何も囚われず真っ直ぐ愛を貫ける人には分からないよ。僕の気持ちもお母様がこの通路を作った理由もね」
三人は再び沈黙で走り続けた。
先頭を走るサミが突然止まった。
光が漏れている場所はドアが開いたままの部屋だった。
三人に緊張が走る。
静かに近付き、そーっと部屋の中の様子を窺った。
「誰もいない。そんなはずは……」
ジェレミーが溜息まじりに呟いた。
「ジェレミー殿下、部屋はここだけですか?」
「いいや、この下に50近くの小部屋がある。でも、この下には僕とお母様しか行けないはずなのに……」
「50! ローズ皇妃殿下は皇妃宮を蜂の巣にするおつもりか!?」
タハールはそう言うと頭を抱えた。
「お母様は……それほど皇宮の、いや、帝国の人間を信じられなかったのさ」
「あなた方の愚痴を聞きにここまで来たんじゃない! 手分けしてリアンお嬢様を探しますよ!」




