17.幸せが砕ける時
エリカが屋敷に来て二週間が過ぎた頃、オレリーはいつものように自室に籠り、帝国の地図を眺めていた。
「地図をずっと眺めていらっしゃいますけど、気分転換にご旅行でも?」
「旅行? ふふふ、それも良いわね。山と水の位置を調べているのよ」
「山と水の位置ですか?」
オレリーは、今の状況にただ指を咥えているわけではなかった。
確かに毎日心は苦しかったが、持ち前の明るさでロシュディやアレクサンドル家の役に立ちたいと考えていた。
(せっかく前世を思い出したんですもの。しっかり利用しなくちゃ。ジュエラーとしての記憶は残っているから、まだ今世にないアレキサンドライトが見つかればチャンスよ)
「ええ、シルバーヴェルでも見つかる可能性はゼロではないと思うんだけど……」
(前世ではダイヤモンド鉱山と同じ地域でアレキサンドライトが産出されたわ……確か、寒冷な地域の山脈だったわね。となると、うちの領地ではホワイト山脈が狙い目ね)
楽しそうに没頭するオレリーに、サラは嬉しくもあり不憫にも思った。
「うーん……ねぇ、サラ、桃のタルトは大好きなんだけど口に入れると……」
「あまり召し上がっていないようですが、ご気分が優れませんか?」
「んー、この間から何となく食欲が無くて」
「オレリー様……もしかして、いえ、そんなまさか」
サラは、ハッとして回りを見回し、扉がしっかり閉められていることを確認した。
(今、屋敷にはあの女がいるのよ。不用意な発言は気を付けなくっちゃ)
声をさらに小さくして、キョトンとした表情のオレリーに囁いた。
「エリカ様に知られてはいけませんわ。主治医を呼べば勘づかれてしまいますし、どうしたら……」
さっきまで傍らで毛づくろいをしていたセリーが、突然『方法ならあるぞ』と言った。
『われの力を使えば、オレリーが懐妊しているか分かる』
そう言うと、セリーはオレリーのお腹の辺りに飛び、体からほんのり温かい光を放ち呪文を唱えた。
『感じるか? オレリー、この小さな命を』
ポワンとお腹あたりに温もりを感じた。
あまりにも小さな芽生えであるにもかかわらず、加護の力のお陰かオレリーは命が宿ったことをはっきりと確信した。
「まぁ! 感じるわ、私たちの……嬉しい!」
オレリーは、慈愛と幸せに満ちた笑顔を浮かべた。
「あの……オレリー様、セリーの力を疑うわけではないのですが……」
『お前、失礼だな!』と口ばしで突こうとするセリーを回避しつつ、申し訳なさそうにサラが言った。
「そうね、もう少し状況が落ち着くまで、このことは秘密にしましょう」
喜びでいっぱいのオレリーとサラは、この幸せが続くことを願っていた。
◇
しかし、二人の願いとは裏腹に、事態は急に動いた。
エリカは、目の前にロシュディがいるにもかかわらず、全く手が届かないことに我慢できなくなったのだ。
(もう、限界だわ! 執事長が言う通りなら、ロシュディ様が屋敷を空けるのは今夜しかないわね)
そうやって焦らされて仕掛けられていることが罠だと気付かず、エリカは周囲が気味悪く感じるほど浮かれていた。
屋敷の者が寝静まった頃、エリカはオレリーが眠っている寝室の前に立っていた。
扉を開きオレリーの姿を目にした途端、エリカは煮えたぎるような憎しみで完全に我を失った。
開けた口から凄まじい憎悪にまみれた呪いのオーラを吐き出し、オレリーに絡みついた。
セリーが全力でエリカに体当たりしたが、丸焼きになりそうなほどの呪いの熱の前に、成す術もなく床にポトリと落ちた。
オレリーは、地獄のような熱さに見悶え、頭の中を恐ろしい何かが這いずり回るような感覚に、ベッドの上をのた打ち回った。
(く、苦しい……ロシュー)
言葉では表現できなほどの恐怖と苦痛の中、死を覚悟し心から願った。
(どうか、この子だけは……この子の命だけは奪わないで!)
すると、酷い傷を負い床で横たわっていたセリーから、またあの温かい光が今度は強く放たれた。
(セリー!)
オレリーは、意識がもうろうとする中で、セリーがセリュネアに姿を変えるのを見た。
(われの加護を、癒しの力を使うのだ! しかしお腹の子は……今の力ではオレリーひとりを守ることが精一杯だ)
(そんな……だめよ、それならこの子を助けるわ!)
そう願ったオレリーの全身から清らかで温かな光が波のように放たれ、オレリーの中の小さな命を守るように、その温かいオーラがお腹の辺りへ吸い込まれて行った。
(ロシュー……)
そうオレリーが呟いた時……ロシュディ、サミ、公爵家の騎士たちが寝室に雪崩れ込んできた。
「オレリー!」
ロシュディが叫んだ。
すぐさまオーラで剣気を増幅させ、部屋中に張り巡らされた蜘蛛の巣のような呪いのオーラを切り裂きオレリーの方へ進んで行くと、その行く手をエリカが塞いだ。
「エリカ……もう止めるんだ。どうしてこんなことをする!」
「どうしてですって……ロシュディ様を愛しているからですわ。その女さえいなければ、公爵夫人は私だったのに!」
「何をたわけたことを! エリカ……お前を愛したことはない。そして、今後も愛することはない」
その言葉を聞いたエリカは、憎悪に満ちた形相でオレリーを睨みつけ、呪いのオーラを再びオレリーに向けて吐き出した。
「やめろ! オレリーに何をするんだ! やめてくれ!」
ロシュディは、エリカの髪を鷲掴みにしたかと思うと、その背中をザンッと切りつけた。
ロシュディに切りつけられたエリカは、痛みなのか悲しみなのか……醜く顔を歪めて倒れた。
「……その女を、公爵夫人殺害を企てた犯人として捕らえろ!」
すぐさまサミと騎士に取り押さえられたエリカは、引きずられるようにして連れ出された。
◇
オレリーは、三日ものあいだ眠り続け、夢を見ていた。
セリュネアが、小さな光を大事そうに手で包み込んでいた。
手を伸ばして光に触れるとその光は温かく、オレリーの心の中に愛おしさがこみ上げた。
「われの加護では、この小さな命を守るのが精一杯だった。君を守ったのはロシュディだ……」
「セリュネア様、ありがとうございます」
「なぁに、君の精霊だからね……しかし、しばらく力が戻るまで眠りにつかねばならないようだ。オレリーよ、『闇の糸』に立ち向かうのは容易ではないぞ。今の君達では無力すぎる」
「『闇の糸』……それは皇妃様とエリカ様の呪いの力のことですか?」
「そうだ、ローズがあの封印された呪いの加護を授かっているのだ。エリカは、ローズに心の闇を利用されているのだろう。『闇の糸』に打ち勝つ方法は、君自身で見つけなければならない……真実の愛……」
「ああっ、待って! セリュネア様!」
最後の言葉が聞き取れないまま、セリュネアは消え去ってしまった。
「……まっ、待って!」
「オレリー、気が付いたのか!」
ゆっくりと目を開けると、目の前にロシュディのやつれた顔があった。
「ロシュー……セリーは? エリカ様は?」
「本当にすまない、すべては俺の甘さだ。エリカは公爵家の地下牢で拘束している。セリーは……あの日から姿が見えないんだ」
オレリーは、じっとロシュディの瞳を見つめ何か言いかけたが、急激に強い眠気に襲われ、気を失うように眠りについた。