10.見えない壁
そして、静けさを取り戻した初めての夜。
美しい夜着に着替えたオレリーは、新しい公爵夫妻のための寝室で、心臓が飛び出そうなほどの緊張を抱えながらロシュディを待っていた。
と、そこに僅かに緊張した面持ちのロシュディが部屋に入ってきた。
そして二人は静かにベッドで向かい合った。
「夫人……デビュタントで出会ってから嵐のようにあなたを迎え入れたが……その……心は追いついていないだろう?」
「あっ……あの、公爵……ロシュディ様、もう私は子供ではありませんわ」
「その……初夜のことではなく……もっと結婚相手を選びたかったのではと。あなたなら皇族や他国の王族とも縁を結べただろうから」
「政略結婚ということは理解しておりますわ。でも……前にもお伝えしましたが、私はロシュディ様だからお受けしたのです」
オレリーの嘘偽りのない心からの気持ちだった。
オレリーの言葉にロシュディは何かを考えているようだったが……迷いを断ち切るような眼差しでオレリーを見た。
「そうか……たとえそうだとしても、この結婚は所詮――貴族の政略結婚だ。私の心を渡すことはできない、決して……」
部屋の灯りは一本の蝋燭のみ。
揺らめく炎にぼんやりと浮かび上がる、ロシュディの表情も声音も淡々としていて、オレリーの心をチクッと刺した。
「あなたを……公爵夫人として尊重し大切にするよ。そして、この穢れのない体は、一生あなたにだけに捧げよう」
「ロ、ロシュディ様!」
(今、なんて仰ったの? 社交界で令嬢たちと浮名を流している方だと、お兄様から聞かされていたから、てっきり……。でも、それでは心は一体どなたに……)
オレリーは、嬉しいような苦しいようなブランコのように気持ちが揺れて、表情を隠すように手で顔を覆った。
「私のことはロシューと呼んでくれ。こう呼べるのはあなただけだ……今ではね」
「わ、私のこともオレリーと名前で……お呼び下さい」
そうして二人は、どうにもならない距離を感じながらも、本能のままに全てが新鮮な初めての夜を過ごした。
無意識に、強く、お互いを求めていることにも気付かずに。
翌朝、遅くに目が覚めたオレリーの横にロシュディの姿はなかったが、左薬指にはめられた『エーテルの指輪』を眺めるだけで、幸せな気持ちが心に広がるのを感じていた。
◇
オレリーが嫁いで二週間が過ぎようとしていた。
デビュタントを迎えたかと思いきや、あれよあれよという間に縁談が持ち上がり、その一ヶ月後には挙式を上げ、今こうしてアレクサンドル公爵夫人となっている。
しかもお相手は、令嬢たちの熱い視線を集め、デビュタントの庭園でオレリーの心をかき乱したアレクサンドル公爵。
オレリーは、自分を取り巻く環境の目まぐるしい変化に戸惑い、幸運が続くことに少し不安にもなっていた。
(ロシューはあの夜の言葉通り、私のことを大切にしてくれているわ)
毎日、政務に追われ帰りが遅いロシュディと夕食を共にすることは叶わなかったが、朝食だけは欠かさず共にしてくれた。
オレリーが夢中になって話す日常の些細なハプニングにも静かに耳を傾け、一緒に笑ってくれた。
しかし、僅かな時間しかロシュディと過ごせない寂しさや、公爵家にやってきてはロシュディとの親密さを仄めかすエリカの存在は、オレリーの心をザワつかせ小さな棘となっていた。
(エリカ様との関係を気にするなんて……おこがましいわ。私より長い時間を過ごした幼馴染ですもの)
◇
「オレリーお姉様~っ」
元気いっぱいに駆け寄ってくるアリーヌに、庭園でティータイムをしていたオレリーとサラは笑顔で応えた。
オレリーとアリーヌは挙式で初めて出会ったが、二人はすぐに打ち解けた。
「ねぇ、こういうのを運命って言うのかしら……」
「プッ、オレリーお姉様ったら、神妙な顔つきでケーキを頬張って、そんなことを考えていらっしゃったの?」
「オレリー様はご結婚されてから、毎日こんな調子で惚気られるんですよ」
「こら、二人とも! 馬鹿にしてるでしょ」
三人は顔を見合わせると、大きな弾けるような笑顔で笑いあった。
束の間の楽しい時間に、オレリーの胸のつかえはスーッと溶けて、今だけは忘れられるような気がした。
◇
廊下の曲がり角の向こうから、仕事が一段落したメイドたちの賑やかな声が聞こえて来た。
「ねぇ、ねぇ、聞いた? 見習い騎士が訓練中に手を滑らせて、その剣がロシュディ様のシャツを破っちゃったらしいの」
「やだ、なにそれ。ロシュディ様は大丈夫だったの?」
「もちろんよ、ロシュディ様なんだから。 それでね! 見学されていたエリカ様がドレスの汚れも気にせず、ロシュディ様に駆け寄ったんですって! ロシュディ様も一言、心配はいらない、ですってー」
「キャーッ、素敵~!」
曲がり角の向こうにオレリーがいるとも知らず、メイドたちはキャッキャッと黄色い声を上げている。
「正直、ロシュディ様とエリカ様の方がお似合いじゃない?」
「そうよねぇ、綺麗だけど夫の訓練も見学しないでお茶ばかりしている『顔だけ令嬢』じゃなくて……ねぇ」
「ホントよねー、貴族の政略結婚だから仕方ないみたいだけど……エリカ様がお可哀想だわ」
オレリーは、今にも走り出してメイドたちを叱り飛ばそうとしているサラの手を掴んだ。
「サラ……いいのよ。不慣れだからゆっくりで良いという、ロシューの言葉に甘えているのは本当のことだわ」
「そんな、オレリー様! ロシュディ様が訓練中は危険だから見学に来るなと……。お部屋でも騎士やメイドたちの資料に目を通して、しっかり家政をなさろうと準備して……それなのに」
「私が公爵夫人という立場を理解して、使用人たちからの目をもっと気にするべきだったの……。幸いメイドたちのお陰で気づけたのだから頑張らないとね!」
オレリーはニコッとして、静かに今来た廊下を戻った。
サラは、領地では天真爛漫だったオレリーが、このアレクサンドル家に嫁いでから、どこか遠慮がちでいるのが気になっていた。
(政略結婚だけど、お二人とも想い合っているように感じていたのに……公爵様は一時の気持ちだったのかしら。歩み寄ったり突き放したり、オレリー様が不安に思うのも無理ないわね)
「サラ、私は大丈夫よ。ちょっと……ちょっとだけ落ち込んだけど、でも、みんな良くしてくれているわ。ちゃんと周りにも気を配らないとね。『しっかりしなさい~』って、お母様に怒られちゃうわ」
「もう、オレリー様ったら。私もお側におりますから、ちゃんと辛いときは仰って下さいね」
「ありがとう……。じゃあ、早速、明日は騎士団の訓練を見に行きましょう! それから……」
サラは、公爵夫人としての務めを果たそうと奮闘する健気さに胸が詰まったが、オレリーが立ち向かうべき試練だということも分かっていた。
(はぁ……ジャメル様にはオレリー様を信じて見守るように言われているけど、あのメイド達ったら……ギョーム様とマルゴー様のお耳には入れておきましょう)