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セレスティアが退室してから暫し、ジンシード夫妻が目を覚ました。
「うーん……」
「お父様、お母様、大丈夫?」
心配そうな表情で覗き込むカティンカに母は安心させるように微笑み、父はまだぼんやりとした様子で答えた。
「まぁカティ。そんな顔をしてどうしたの?」
「大丈夫とは? ここは? 私たちは一体……?」
「え? 覚えてないの?」
まさかの回答に一層案じる娘とは反対に夫妻はだんだんと意識がはっきりとしてきたようだ。直前の光景を思い出し勢いよく起き上がった。
「はっ! 火の天使様は⁉︎」
「気にするとこそこ? もうとっくに消えてるよ」
「そうか、そうなのか、もったいない……」
夫妻は分かりやすく肩を落とす両親にハマルは呆れを隠しもしない。
「いやしかしもう一度お目にかかれた事に感謝しないと! とても美しくて可愛らしい天使様だったなぁ」
「ええ、本当に。夢のような光景だったわ」
あの瞬間を反芻する両親のうっとりとした表情に子どもたちは安心するやら呆れるやら。そっと息を吐き出したカティンカの背に向かって声がかけられた。
「目覚められて良かったですね」
「はい。アーリス様、色々とご助力いただきありがとうございました」
「へ?」
家族以外の声に視線を巡らせた子爵夫妻は穏やかな笑みを浮かべているアーリスを見てポカンと口を開けた。
「お父様、お母様、ほら、口閉じてしゃんとして。アーリス様に失礼でしょ」
「姉さんにだけは言われたくないだろうけどマジで口は閉じて。てか、起きるならもうちょい早く起きて欲しかったな。さっきまでオンヘイ公爵夫人も居たんだし」
「あ、お母様のお飾りは外してここに置いてあるから」
「え? なに? なんて?」
矢継ぎ早に告げられた内容を子爵が問おうとしたその時、ノック音が彼らの意識を攫う。控えていた侍女の一人が素早く対応した。
「ジンシード子爵夫妻がお休みの部屋はこちらで?」
「ええ、そうです。若奥様の兄君もご一緒ですよ」
「あれ? この声って……」
その聞き覚えのある声にカティンカが首を傾げていると現れたのは正しくヴィーシャで。そしてその後ろに主役のうちの一人である花嫁。
「イザンバ様!」
「カティンカ様、ご両親が倒れられたと聞きました。お加減はいかがですか?」
「お気遣いありがとうございます。今目が覚めたところです」
カティンカの返答にイザンバは安堵の笑みを浮かべた。しかし、そこへアーリスが妹に近づき問う。
「ザナこそこっちに来ちゃって大丈夫なの? コージーは?」
「他の方とお話しされてます。私はご夫妻のお加減がいいならご挨拶をしたいなと思って。お兄様、付き添ってくれてありがとうございます」
「どういたしまして」
他の客の手前まだ二人揃って離席出来ない。すでに子爵一家との対面を済ませているコージャイサンが会場に残り、イザンバが抜けてきたのだ。
そんな彼女は未だフリーズしたままの子爵夫妻に向かって次期公爵夫人に足る優雅な淑女の礼を。
「はじめまして。カティンカ様と親しくさせていただいていますクタオ伯爵が娘、イザンバと申します」
「わぁぁぁぁあ!!」
「きゃぁぁぁぁあ!!」
挨拶を受けた二人の喉からもはや発狂と言っていいほどの歓喜が大音量で飛び出した。
これに慌てたのはハマルだ。常日頃から姉を窘めている両親がまさか姉のような反応をするとは思わなかったのだ。火の天使を見て気絶した時は結婚式前から続く緊張と感動のあまり声すら出なかったから余計に。
目を丸くするクタオ兄妹にハマルはペコペコと頭を下げた。
「すみません! 本当すみません! 一回タイムでお願いします!」
「あははははは! 分かるー! 推しが目の前に来たらそうなっちゃうよね!」
「姉さん!」
さらに姉弟の反応はまるで正反対。そのあまりにも呑気な笑い声はハマルの苛立ちに拍車をかけた。笑っている場合かと鋭い声を飛ばすが、カティンカはこれまた至極軽い調子で返す。
「ごめんて。ほら、二人とも一回落ち着こ?」
「ひひひのひの、めの、あぁぁぁあ!」
「いや、何言ってるか分かんないから」
興奮から言葉がうまく紡げない父にハマルは冷たいほどの声を返し。
「ああ、カティ、どうしましょう……神々しすぎて目を開けられないわ……」
「イザンバ様は発光物じゃなくてコージャイサン様の事が大好きな可愛い花嫁様だから大丈夫。はい、深呼吸してー」
顔を覆い涙声の母にカティンカは慣れたように、けれどもしっかりと訂正を入れて返す。
さて、彼らが落ち着いた頃を見計らい、アーリスは妹に声をかけた。
「それじゃあザナも間違いを訂正しようか」
「え?」
「さっき結婚したでしょ? もう名乗りが変わるんだよ」
「あ! いつもの癖でつい……すみません、やり直させてください」
己の失敗を恥じるイザンバだが、兄の柔らかな微笑みに後押しされてもう一度ジンシード子爵一家に向き直った。
「改めまして。オンヘイ公爵令息がつ、妻、イザンバと申します」
自分で妻と名乗って照れるイザンバに、アーリスは良く出来ましたと頷き、カティンカはニマニマと感情の赴くままに緩い笑みを浮かべている。
「わぁーい! イザンバ様ってば可愛いんだー! これはコージャイサン様に報告しないと!」
「それはしなくていいです」
「写真も撮っておくべきだったのでは⁉︎ 絶対喜ばれますよ!」
「それならカティンカ様とお兄様も後で一緒に写真撮りましょう」
「いやいや。アーリス様はともかく私はいらないでしょう。コージャイサン様的にも邪魔でしかないと思います」
「そんな事ないですよ。それにせっかくお友達が来てくれてるんです。ツーショット撮りたいです。ダメですか?」
年下の友人の健気なお願いはカティンカの母性本能を大いにくすぐり、それはもうあっさりと撮らないという選択肢は消え去った。
「ぐうかわ! 是非撮りましょう! すぐ撮りましょう! てかツーショットって具体的にどんな事するんですか⁉︎」
「そうですねー。顔を寄せてピースとか、手を合わせハート作るとか、片方が抱きついたりとか、色々ポーズを決めて撮るんです」
「それ全部コージャイサン様とやるべきだと思う人、挙手!」
カティンカの号令にイザンバ以外の全員が手を挙げた。アーリスとヴィーシャにおいては呆れ顔なのだから、さてイザンバは居た堪れない。
「や、でも、これは友達同士でも出来るんです!」
「イザンバ様、見てください。アーリス様やヴィーシャさんだけじゃなくて侍女さん達まで挙げてるんですよ。それに二人の写真でそんなのありましたっけ? 画廊にないですよね?」
「ない、かもですけど……あ、さっきピースはしました」
だから大丈夫、なんて笑顔で言うイザンバにカティンカはやれやれと肩を竦めると、だめ押しの一手をお願いした。
「はい、ヴィーシャさんからも一言どうぞ」
「お二人の自然体のお写真はたくさんありますが、そんなポーズがあるならまずはご主人様とお撮りください」
「ほら、ヴィーシャさんもこう言ってるし先にコージャイサン様とやってきてください。私は氷漬けになりたくありません」
「なりませんよ⁉︎」
真面目な表情で言い切ったカティンカだが、コージャイサンの冷気に当てられた事があるからこそのお断りだ。そして、あれはまだ優しい方だったと今なら分かる。脳内には巨大マネキンの氷漬けがそれはそれは強烈な印象で残っているのだ。
イザンバは可愛い友人だが、自分の身だって可愛い。絶対王者の怒りを買う前に懸念事項は潰すに限る、とこればかりはカティンカとて譲る気は皆無である。
そんな二人のやり取りにアーリスがクスクスと笑った。
「楽しそうなところごめんね。二人とも、話が逸れてるよ」
「はっ!」
挨拶の途中での盛大な脱線。アーリスやカティンカがいる安心感とパーティー会場に比べると人の視線が減った事でイザンバ自身も気を抜きすぎたようだ。彼女は素知らぬ顔で淑女の仮面を付け直した。
「マジか……本当に友達みたいだ……」
姉の言葉を信じていなかったハマルは目の前で展開された親しげな二人の様子に呆然と呟き、両親にいたっては火の天使と仲良く話す娘が恐れ多いやら羨ましいやらでもはやキャパオーバー寸前だ。
イザンバはわざとらしく咳払いをすると彼らの注目を集めた。
「失礼しました。皆様、本日は急な招待にも関わらずお越しくださりありがとうございます。また私たちのした事で驚かせてしまったと聞きました。目が覚められたばかりとの事ですしご無理をなさらず、具合が悪ければ遠慮なくおっしゃってください」
「あわわわわわ、火の天使様が……ななななんとお優しい……!」
「それから、こちらは私の兄のアーリスです」
「はじめまして。アーリス・クタオと申します。カティンカ嬢とは妹を通じて知り合いました。どうぞお見知りおきを」
「ここここちらこそ! あっ、このような格好で申し訳ありません! 私、わぁっ!」
子爵は自身がまだベッドに座ったままだった事に気付き立ちあがろうとしたのだが、その焦燥感が足をもつれさせた。
「お父様!」
「旦那様!」
「大丈夫ですか?」
「ジンシード子爵、お手をどうぞ」
部屋にいる誰もが彼を案じ、アーリスが手を差し出せば子爵の顔は恥ずかしさから一転、とても尊いものを見る目になった。
「火の天使様のお兄様のお手を……すみませんすみませんありがとう存じます! もうこの手は一生洗いません!」
「病気になるといけないからちゃんと洗いましょうね」
「はい! 洗います!」
ころっと意見が変わった父にジンシード一家は皆カクリと力が抜ける。
そのままアーリスが立つように促すと、軽く身だしなみを整えた彼は子爵然りとした姿で挨拶を返した。
「お恥ずかしいところをお見せしました。私は子爵位を賜っておりますルサーク・ジンシードにございます。妻のマヌフィカ、娘のカティンカ、息子のハマルです。敬愛を集める火の天使様と心優しき兄君にお目にかかれた事、また今日という素晴らしき日に同席の許可を賜った事、光栄の極みにございます! 本日はご結婚、誠におめでとうございます!」
「ありがとうございます」
イザンバは微笑みと共に礼を述べただけであるが、それでもジーンと感動に浸っているルサークにアーリスから続けられた公爵夫人からの言付け。
「オンヘイ公爵夫人が魔術師団長か医療管理官を呼んで治癒魔法をかけてくださるそうなのでもう暫くお休みになってください」
「え?」
「あ、その方なら私と一緒に来たので入ってもらいますね」
そう言ったイザンバの視線を受けて、ヴィーシャが扉を開いた。