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現実から回想(結婚式)へ
夜の帳が下りて幾ばくのジンシード子爵邸。
今日も今日とてサリヴァンの指導を受けていたカティンカは夕食後自室に戻るなりお行儀悪くもベッドにダイブした。
「あ゛〜〜〜、顔面攣る……もう一生分の微笑みを浮かべた気がする……」
脱力した体から思い切り気の抜けた声が出るが、のっそりと動き出したかと思えばその体勢のまま精一杯ベッドボードの棚へと手を伸ばす。手に取った本は天地闘争論のファン作品だ。青空のような澄んだ瞳が文字の列を辿り動く。
「むふっ、むふふふふふふ……サタンを翻弄するミカエル様、うひょぉぉぉぉ! 萌えるー!」
一日の疲れも推しにかかれば即癒される。カティンカの表情は部屋に入ってきた時と打って変わって幸せそうだ。
そこへ響く鈴の音。彼女は本から視線を外すと、気合を入れるようにぺちぺちと両頬を叩いた。
「よし! ミカエル様ありがとう! あと一息! 頑張れ私!」
そう言って机の上の直径二センチほどの水晶に視線を向けた。
時は少し遡る。
オンヘイ公爵邸での結婚パーティーの最中、ジンシード子爵夫妻が小さな火の天使に感極まったあまり気絶し、公爵家の使用人たちによって子爵夫妻が別室に運ばれた後のこと。
それぞれのベッドの脇で両親を案じている姉弟、カティンカから少し離れた壁側に立つアーリス、扉のそばで控える公爵家の侍女が二人。
そこへノック音が知らせた来訪者は公爵夫人であるセレスティアだ。彼女の登場に慌てふためくジンシード姉弟を微笑みで制し、その視線をアーリスへ。彼は心得たように一礼するとカティンカの側に立ち、ハマルにも彼女の隣に来るようにと手招いた。
「ご紹介します。彼女はザナの友人のカティンカ・ジンシード子爵令嬢、そして弟君のハマル・ジンシード子爵令息です。二人とも、こちらはコージーの母君のセレスティア・オンヘイ公爵夫人です」
「初めまして。セレスティア・オンヘイよ。今日は二人のために来てくれてありがとう」
——歳を重ねてなお輝く美貌
——立ち姿から滲む自信
——隙のない完璧な所作
——女神の如き微笑み
その洗練されたオーラにこれぞ社交界を牽引し続けた貴婦人と言わずなんと言おう。
「きょ、恐悦至極にございます。私はジンシード子爵が娘、カティンカと申します」
「は、はじ……じゃない。おはちゅ……お初にお目にかかります。ハマル・ジンシードと申します」
「本日はコージャイサン様とイザンバ様のご結婚、誠にお慶び申し上げます。また我が子爵家の結婚式への参列のご許可ならびに多大なご厚意を賜りありがとう存じます」
緊張に身を固くしているのはどちらも同じ。それでも、やはりカティンカの方が経験値がある。父母が起きていれば彼らが伝えたであろう礼もしっかりと伝えた。
セレスティアは変わらず麗しい微笑みを浮かべている。
「いいのよ。息子の頼みだもの。ああ、楽にしていいわよ。ご両親の様子はどうかしら?」
「この通りまだ眠っております。ご迷惑をおかけし申し訳ございません」
「あら、火の天使に驚いて気を失ったと聞いたわ。それならむしろコージーとザナが迷惑をかけたと言えるのではなくて?」
セレスティアの表情は微笑みのままなのに、彼女から放たれる高位貴族、いや、生まれながらの王族からのプレッシャーに、ぞくりと姉弟の身を緊張感が貫いた。
ただ同意を待つように泰然としている彼女を前に二人の脳裏を不敬罪が過ぎる。回答を間違えてはいけない、と。
それなのに大きくなった心拍が思考の邪魔をする。飲み込んだ唾でさえも言葉を奥へと押し戻してしまいそうだ。違う——そう言いたいのに口の中がカラカラに渇いて、指先は冷えていく。
「………………い、いえ…………いいえ……いいえ!」
それでも、カティンカは否という。
「そんな事はありません! 両親が倒れたのは火の天使を好きすぎるせいで敬愛と感動が振り切れてしまっただけなんです!」
「ね、姉さん……」
「私たち家族は直接呪いを受けたわけではありませんが、あの日間違いなく火の天使に救われました。噂で聞いた数々の呪いの悍ましさにあんな事はもう二度と起こってほしくない、そう思っています。防衛局の方々が日常を守ってくださる要ならば、火の天使は心の拠り所。今や我が国の平和の象徴です。それをまた見られたから……」
依然としてプレッシャーを放ったままの公爵夫人に向けて。
「両親は本当に嬉しかっただけなんです! だからお二人が迷惑をかけたなんてそんな事は絶対にないです! むしろ出血大サービスありがとうございます! レアな方が価値が上がるのは知ってますけど叶うなら何回だって見たいです! 小さいアズたんマジ可愛い! なんなら次はミカエル様でお願いしたい!!」
「馬鹿っ、ただの願望になってるって!」
「しまった! あ、ちが……あの、だから、あの……も……も……」
必死に言い募る内に口から飛び出たのは願望で、ハマルの声に慌てて口を押さえたが時すでに遅し。顔を見合わせて青ざめ震えた姉弟は揃って頭を下げた。
「申し訳ございませんでした!!」
チクタク、チクタクと秒針が時を刻む音だけが響く。ああ、なんと沈黙が重いことだろう。
ひたすらに頭を下げ続け審判を待つ二人の耳に違う音が届いた。それはクスクスと淑やかに笑う声。そろりと見上げた先、セレスティアは笑っていた。いつの間にか重苦しい圧もなくなっている。
——待って、これはどうするのが正解……⁉︎
混乱を露わにする姉弟に助け舟を出したのはアーリスだ。
「公爵夫人、あまり彼女たちをからかわないであげてください」
「あら、息子夫婦と関わりのある令嬢なんでしょ? だったら知りたいじゃない。ふふ、試すようなことを言って悪かったわね」
どのような人物なのか知りたかったのだと、尊大にも言ってのけるのは流石は何様わたくし王女様。柔らかくなった雰囲気と扇子で隠さずに見せられる微笑みがカティンカに向けられている。
しかし先程までの落差と恐れ多さが混乱に拍車をかけ、姉弟に分かるのは拒絶の空気がないという事だけだ。
「え、あ、あの、と、とんでもございません。私の方こそはしたなくも大声をあげ大変ご無礼いたしました」
「ええ、そうね。最後の方は淑女としては失格よ。公の場で己の欲だけを叫ぶ者は未熟者よ。いついかなる時も格好の餌食でしかないわ。そういう事は身内の前だけになさい」
「申し訳ございません……」
バッサリと切り捨てられてカティンカの肩がしょんぼりと落ちる。だがしかし、セレスティアは至極穏やかに続けた。
「まぁ基礎はできているようだし今日という日に免じて許しましょう。アーリス、あなたもよく気付いたわね」
「私もオンヘイ公爵家のご厚意を受けた身ですので」
「身についているようで何よりだわ。領地を預かる者としてその力は必要よ。そのまま精進なさい」
「恐悦至極に存じます」
厚意を受ける価値があったとその身で示したアーリスの振る舞いにセレスティアは満足そうに頷いた。
さて、場が一つ落ち着いたところで彼女の口から憂いのため息がこぼれ落ちた。
「それにしても、これだけ話していても起きないなんて……。倒れた時にどこか強く打ってしまったのかしら?」
「あの、それはオレ、いや、私が、ぎりぎり受け止めましたので。だから頭は打っていません」
「そう。あなた自身に怪我は?」
「わ、私は、大丈夫です」
「まぁ! 子どもが遠慮しなくていいのよ」
そう言われてもそれが建前なのか本当に遠慮しなくていいのか。ハマルが判断ができずにいると、そっとアーリスが隣の立った。
「大丈夫だよ。どこか痛むところがあるのなら正直に言ってごらん」
「あの……慌てて少し足を捻ったのと、支えきれずに尻餅をつきました」
その優しい微笑みに背を押されてハマルがおずおずと答えれば、セレスティアから慈愛のこもった眼差しを向けられた。
「よくご両親を庇ったわね。それも治させるから待ってなさい」
「重ねてのお気遣いありがとう存じます」
「我が家が招待したんだからゲストを気にかけるのは当然のことよ。今なら治し放題だから何も心配いらないわ」
カティンカが弟に代わり丁寧に頭を下げるが、セレスティアがなんて事ないように言う。なにせ今オンヘイ公爵邸には治癒魔法の使い手が複数名いるのだから。
「とはいえゲッツもコージーもまだ手が空きそうにないのよね。魔術師団長か医療管理官を寄越すから治癒魔法をかけてもらいなさい。ゲッツが言えば彼らも動くでしょう」
「……それって職権濫用じゃ」
ついボソッと溢してしまったハマルに宝石と見紛うほどの碧眼が向けられ、己の失態に体が揺れた。
しかし、その後にセレスティアから紡がれたのはとても勝気で自信に満ちた声と。
「使えるものは使うのがオンヘイ公爵家の流儀よ」
その堂々たる風格が彼女は間違いなくコージャイサンの母であると思わせるには十分だった。
——その使えるものの種類の多さも、規模の大きさも段違いなんだけどね……。
なんて、思いはしても胸の内に留めるアーリスは流石である。
さて、勝気さを引っ込めたセレスティアが次に見せたのは大変人の心を揺さぶるような憂い顔。小さく吐き出された吐息すら人に視線を絡めとる。
「本当は子爵夫妻が起きるまで私も側にいるべきなんだけど、今日はゲストの数が多いから……。悪いけれど一旦失礼するわね」
「い、いえ! こうしてお部屋をお借り出来ているだけで十分です!」
「ご両親が目覚めてもゆっくりとしてくれていいわ。アーリス、子爵夫妻への言付けを頼まれてくれるかしら?」
「私ですか?」
「ええ。この場にあなた以外の適任者がいて?」
「謹んでお引き受けします」
彼女の言動にはアーリスへの信用が垣間見える。それでも変わらずに穏やかに微笑むアーリスの横顔に少年は青空色の瞳を輝かせた。