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イザンバが本棚の向こうに行った後、コージャイサンはジャケットの腰元の内ポケットから取り出した小さな水晶に魔力を通した。すると大した間も無くそこに腹心の姿が映る。
「夕食まではここで過ごす」
『はいよぉ。あ、司書はもっかい絞り直すことになりそうだぜぇ』
「そうか」
『それとさぁ、コイツらが着替え要るかってうるせーんだけど』
「いらない」
彼は淡々と用件だけを言って切ると小さな水晶を陽の光に翳した。
——アイツらとのやり取りならこのくらいのサイズで丁度いいんだが。ああ、でも潜入時には音が邪魔だって言ってたな。いっそ音をなくすか。いや、それだと互いに気付きにくいな。何か別の方法は……。
伝達魔法の小型化は主従の彼らには都合がいいものであったが、まだ改善点がありそうだと思案する。
ちなみに検証用のものは以前イザンバに指摘を受けた点を踏まえてサイズを元に戻したところである。
そこへパタパタとした軽やかな足音が耳に届く。水晶を再度内ポケットにしまってから少しするとイザンバが本を持ってコージャイサンの元へ戻ってきた。
「今日はミステリー系にしてみました! 予想外のどんでん返しにゾクゾクしちゃいますよ!」
「それは楽しみだな」
ありがとう、と本を受け取った後、イザンバの手元に残ったものに顔を顰めた。
「わーお、珍しく渋い顔」
彼女が持ってきたのは忠臣の騎士。表紙に描かれたシリウスを見てコージャイサンからはため息が漏れる。
「戦いにくい相手だったからな」
「そんな風に見えませんでしたけど」
「相手はザナの長年の推しなんだ。言っただろう? 俺だって嫉妬するし対抗心くらい持つ」
「その節は騒ぎすぎて誠に、誠に申し訳ありませんでしたっ!」
イザンバは勢いよく頭を下げた。推しが亡霊として現れた時、コスプレの時と同様の喜びを発露していたのだから。
「でも、あの、推しとコージー様は全く別で、だから気にしないでほしいです……って無理ですよね! まさかのご本人様だったし! でも二次元が三次元になると質感違うしやっぱり二次元の方がカッコいいなーって、待って私、今そこじゃない。そんな風に思わせて本当にごめんなさい! あ! やっぱり違う本読みたい気分になってきた! ちょっと取り替えてきますね!」
嫌な思いをさせた、と慌てたイザンバだが、コージャイサンは再び駆け出そうとする彼女の手を引いて止めた。
「悪い、少し意地悪だったな。でも相手が彼だからこそ俺が無様な姿を晒せないだろう? ザナから声援ももらったんだから尚更。だからそう言った意味でも戦いにくかったんだ」
あんな風に声援を貰ったのは初めてだったのだから余計に力が入ってしまったのも当然だ。
それを聞いてイザンバの胸中は複雑に渦巻いた。
——今まで言わなくて申し訳ないような
——そこまで喜んでくれて気恥ずかしいような
彼だって複雑さを抱いただろうに、こうなってもなお気遣ってくれる懐の深さにじんと目元が熱くなる。
たまらずイザンバは彼の手を強く握り返した。
「応援します。これからもずっと、何回でも。だってコージー様は私の、たった一人の…………好きな人……だから」
「……——ありがとう。嬉しいよ」
声は小さくなっていったが、それでも懸命に思いを伝えてくるイザンバにコージャイサンは花が綻ぶように笑む。その想いのまま、彼女の頬に口付けた。
「でもな、理由は他にもある。本の中で語られる強さを実際のものとして推し量る事は難しい」
ぽんぽんとソファに座るように示され、隣に腰掛けたイザンバは彼の語りに静かに耳を傾けた。
「語られてきた為人や戦術も実際に対峙するとまた違うからな。彼は容赦がないと言うか、思い切りがいいと言うか。こればかりは踏んだ場数の違いだな。実践経験で培われた勘だけで動く部分もあったし。だから次の動きが読みにくい。まぁ今の貴族令息が習うようなお行儀のいい剣ではないのは確かだ」
「そうなんですね。私は途中から二人の動きに全然目が追いつかなかったけど、イルシー達がすごく感心してましたよ」
写真を撮ろうにも両者の動きが早すぎてシャッターを切るタイミングが合わず。
その上、安全確保のためイルシーによって距離を取らされてしまえばもうどうしようもない。
睨み合っている時や鍔迫り合いをしている時は明らかに分かったのでひたすらにカッコいいを連呼していたが、それ以外では最早自分とは次元が違いすぎてただただ感心するほかなかった。
「さすが動乱の時代を生きた人だ。いい稽古相手だった」
過去の英雄を相手に稽古相手とは中々どうして肝が座っている。その豪胆ぶりは父親譲りか。しかし、それを聞いたイザンバはクスクスと笑う。
「そんな事言える人、少ないと思いますよ」
「ああ。言い方は悪いが彼は剣術馬鹿と言ってもいいだろうな。とても楽しそうに剣を振るう人だった。きっと時代が彼を忠臣の騎士にしたんだろうな」
そう語るコージャイサンも楽しそうだが、彼の言葉にイザンバ不思議そうに目を瞬いた。
「ザナも知っての通り死者というのは柵がない状態だ。だからこそ彼はあの時はただ純粋に戦いを楽しんでいるって感じだった」
「シリウス様は剣の腕を見込まれて宮仕になったけど、配属されたのは花形と言われる場所じゃなかった。それでも腐らなかったし、キラリン王女に仕えてからはより騎士道を重んじていらした。主君の為。生前はそれが最優先事項にずっとあったのかもしれないですね」
「そうだな。時代が違えば騎士としてではなく、ただの剣士としてその道を極めていたかもな」
本当に強い人だった、とコージャイサンは声音に尊敬の念を滲ませた。
コージャイサンとの戦いに満足して冥府へと旅立った過去の英雄がもしも再び人生を歩む事になるのならば——どうか争いのない時代で、彼が本当にしたい事が出来ればいいと二人は祈る。
「というか、その本なら持ってるだろ? なんでまたそれにしたんだ?」
「あのね、今お兄様に貸しているんです!」
「へぇ……そうなのか」
イザンバの返事にコージャイサンは笑みを深めた。想定しているよりも早い妻の兄の変化に。
「カティンカ様がレグルスの事を熱く語ってて興味が湧いたんですって。私がシリウス様のことを語った時はそこまで読みたいって言わなかったのに……」
「何事もタイミングだ。アルにとっては興味がそそられたのが今だったってだけだろう」
しょんぼりと肩を下げる彼女の頭を優しく撫でる。アーリスの言い分には彼自身にも覚えがあるからだ。
撫でられる心地良さに目を細めたイザンバは彼の言葉に気持ちを切り替えた。
「そうですね。もう読み終わったかなー。早く感想聞きたいです」
「アルも仕事をしているしザナほど早く読めないだろ。もう暫くしてから連絡を取ったらいい」
「そうします! カティンカ様とお話しする時間も被らないようにしたいし。もう検証を始めてるんですよね?」
「ああ、そう聞いてる。カティンカ嬢と話すなら休憩時間を狙えばいいんじゃないか?」
「休憩時間? はっ! もしかして絡み本の執筆⁉︎」
友人が書く耽美的で性別を超えた純愛の新作への期待に胸を膨らませたイザンバに、ところが夫は何食わぬ顔でこう言った。
「いや、淑女の仮面の仕立て直し」
「え、結婚式終わったのに?」
「彼女には必要だからな」
カティンカもイザンバと同等のオタク。淑女の仮面の精度が荒い彼女の為に教師が派遣されていたが、それがまだ続いている事をイザンバは知らなかった。
淡々とした物言いに彼女はぱちりと瞬くとコージャイサンの顔を覗き込んだ。
「ねぇ、コージー様。検証以外にも何か企んでます?」
「企みってほどじゃない。親しくなるならちゃんと隠してもらった方がいいだろう?」
「いや、それって私の事情だし。うーん……」
そう言われてもイザンバはまだ納得しきれない。オタバレは極力避けたい事ではあるが、オープンオタクな友人に無理をさせていないかと心配になる。
けれども夫には一切気にした様子がなく。
「彼女にとっても損はしないんだ。気にするな」
「巻き込んでるんだし気にしないわけにはいかないでしょう? それなら逆に邪魔できない気もするし」
「だったら息抜きがてら話し相手になればいい。前も課題に煮詰まっていたらしいじゃないか。休憩時間ならヴィーシャが把握してる」
「そっか、それなら……」
いいのかな、とイザンバは思い始めた。
「あとは話が脱線しないようにしたらいいだろう?」
「あー、成る程。それは保証できませんね!」
しかし、イザンバはこれにはいっそ堂々と胸を張って言った。前回しっかり脱線しているのだから、次は気をつけますなんてとても言えない。
そんな妻の様子にコージャイサンはまた喉を震わせて笑った。
「ねぇ、お兄様とカティンカ様にコージー様がシリウス様と戦った事は話しても大丈夫ですか?」
「ああ」
「やった! 二人ともどんな反応するかなー?」
「とりあえず彼女の方は叫びそうだな」
「あはははは! 確かに!」
——軽快に弾む会話も
——時折落ちる沈黙も
——隣にいる存在感も
一緒に居て心地良いからこそ流れる穏やかな空気の中、コージャイサンの柔らかな眼差しとイザンバの楽しそうな笑い声が聞こえ、側付きたちは顔を見合わせて微笑んだ。まだ声をかけるには早そうだ、と。
もう幾分のうちに夜の帳が下りる。
たっぷりのハチミツ酒の味わいは濃厚で甘やかなコクを深め。
愛情と優しさに満ちた一対は月が欠けようが満ちようがその在り方は変わらない。
その影響は如何程だろう。
さぁ、次に熟成の時を迎えるのはどのハチミツ酒か。
夕月が時の訪れを告げるように穏やかに浮かんでいた。
これにて「蜜月の一対」は了と成ります!
読んでいただきありがとうございました!