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揃ってナチトーノを見送った後、何やら考え込んでいるイザンバにコージャイサンが声をかけた。
「見せたいものがあるんだ。これからいいか?」
「はい」
側付き達を引き連れて二人が向かったのはオンヘイ邸の一角にある図書室だ。
「うわー!」
足を踏み入れた途端にイザンバから思わず上がる感嘆の声。元より蔵書の多い図書室だったが、彼女が最後に訪れた時よりも広さも棚の数もグレードアップしていた。
相変わらずジャンル毎に綺麗に分けられているが、ただ棚に収めてあるだけでなく続き物は一冊目の表紙が見えるようになっていたり、入り口の近くには本屋のように新刊用のラックが増えている。
またイザンバが好みそうなものは回転式本棚に収められ、他よりも目につきやすくなっているではないか。
学生時代に隣同士で並んで座っていたいたテーブルセットはそのままに、ゆっくり読書ができるようにと日当たりのいい場所に新設されたくつろぎ空間には木目調のテーブルと図書室に馴染む落ち着いたデザインの鉤形のカウチソファ。程よい弾力性と耐荷重性を備え、全身を預けてゆったりとくつろげる仕様で、ふかふかのクッションもついているのだからどこまでもリラックス出来る事だろう。
奥にはミニキッチンまであり、ヘーゼルがこれでもかと言うほどに煌めきと青みを纏う。
「ぐるっと見てきていいですか⁉︎」
「ああ。あそこで待ってるからゆっくり見てきたらいい」
「ありがとうございます!」
尋ねる彼女にコージャイサンはもちろん応と返す。
パッと華やいだ笑顔と共に駆け出した背中を見送り、彼はソファへと腰掛けた。
そして図書室の構造をすでに頭の中に叩き込んでいる従者達も主人の側に侍る。
「で、ああやってざっと見ただけで何がどこにあるとか覚えんだろぉ。本当変な女だよなぁ」
「クタオ伯爵邸の書庫の何倍もあるのに……若奥様の脳みそはどうなっているんだ?」
「アンタら。褒めるんやったらもっとちゃんと褒めたり」
呆れたようなイルシーに続き心底不思議がるジオーネだが、二人とも褒めているのか貶しているのか。冷めたヴィーシャのツッコミにイルシーが一人鼻を鳴らした。とは言え悪感情の見えない様子にリンダとヘザーも微笑ましい気持ちになる。
そんな従者たちのやり取りを聞き流すコージャイサンは本棚の向こうに見え隠れするイザンバを眺めている。ゆるく口角を上げながら。
暫くして蔵書の数に胸をときめかせたままのイザンバが戻ってきた。
「きゃー! ミニキッチンも可愛い! これなら喉が渇いてもすぐ淹れられますね!」
「それは私たちがしますからいつでもお申し付けください。さぁ、若奥様もどうぞあちらへ」
「はーい」
リンダに促されイザンバもコージャイサンの隣に腰を下ろす。ソファの座り心地がこれまたいい感じなのだから高揚感は右肩上がり。ふかふかのクッションを抱き込んでご満悦な彼女は、コージャイサンに眩いほどの笑顔を向けて言った。
「コージー様! 私今日からここに住みます!」
「住まない」
ところがコージャイサンは新妻の要望を四文字で一刀両断。あまりにも素早い返しにイザンバが分かりやすくショックを受けた。
「ダメですか⁉︎ 増えた本の量を考えたら夜通し読んでも絶対に時間が足りないし、このカウチソファなら余裕で寝られます!」
「これを選んだのは俺だけど、ここに住ませる為じゃない。風邪でも引いたらどうする」
「アイアム健康優良児! 掛け布団があったら大丈夫です!」
「そう言う問題じゃないだろう」
うたた寝程度ならコージャイサンもダメとは言わなかっただろう。むしろそれを想定してのカウチソファだ。
「日中は入り浸ってもいいし、本も好きなだけ読んでいいけど——……」
懇願を表す彼女を囲い込むようにそっと抱き寄せると。
「ザナが眠るのは俺の腕の中だろう?」
「ひとまえー!」
イザンバは瞬時に顔を真っ赤に染め上げた。クッションで彼の体を押し返せば、緩い拘束はあっさりと解ける。そのままじりじりと警戒するように後退した。
そこへ落ち着いた声が「僭越ながら」と二人に声をかけた。
「私は若奥様からお肌の状態維持を任されております。夜更かしなさる事を、ましてやここでお眠りになる事を容認する事はとても出来ません」
「そんな……! ヘザー、そこをなんとか!」
「お肌にとって湿度は大切ですが、本にとってはそうでない事は若奥様もご存知かと」
乾燥や埃は美肌の敵。実家でとてもいい状態に仕上げられた肌を嫁いできた途端に失くすわけにはいかない、とヘザーは言う。
「お肌には若奥様の生活が如実に影響してきます。どうぞお眠りは寝室で」
「じゃあ……寝る前の読書もダメですか?」
「ストレス解消やリラックスにいいと聞きますので適度であれば大丈夫です」
「ちょっとだけ夜更かしは?」
「それはお控えください」
使命感に溢れるヘザーにキリリとした眼差しで言い切られしょんぼりと肩を落としたイザンバだが、ふと何かに思い至ったのかチラリとコージャイサンを見た。
「ん?」
「……なんでもないです」
「なに? 言いたいことがあるなら言って」
「別に今じゃなくてもいい事ですから」
「ザナ」
だがしかし、今言えと愛称を呼ぶ声が言う。
イザンバが困惑した視線で懸命に後でと伝えてみても彼は頷かない。とうとう観念したイザンバはたっぷりと溜めた後に頬を赤く染めながら小さな声で言った。
「…………………………夜更かしはダメなんですって」
夜の営みが長いのも夜更かしでしょう? と含みを込めて。そんな彼女の言い分に当人よりも側付きたちが早く返した。
「いえ、若様に愛されるお時間はその限りではありません」
それはそれ、これはこれとヘザーが微笑み。
「そこは控えたらあかんでしょう。他の誰にも変われませんのに」
ヴィーシャは少しばかり呆れて。
「あたしと体力作りをすると言いましたし大丈夫です」
脳筋な後押しをするジオーネに。
「何よりも幸せホルモンが増える事で若奥様はより綺麗になられてますよ」
ニコニコ顔のリンダも続けば。
「ここに来てまた生殺しとかこっちが迷惑被るからマジでやめてくれよなぁ」
イルシーが全力でご遠慮願う。
ああ、やはりと言うべき結果である。
「だから言いたくなかったのにー!」
味方がいない、とイザンバは大いに嘆いた。
元より従者達は既成事実推奨派であった。主人の念願が叶った今、余程のことがない限り彼らが我慢を願う必要がないのだ。
コージャイサンはくつくつと喉を鳴らして笑うとそっと彼女の頭を撫でた。
「住みたいと思うほど気に入ってくれて良かったよ。どうしてもここで寝たいなら俺もそうする」
「ダメですよ! ちゃんとベッドで寝てください! 疲れが取れませんよ!」
「そのセリフ、そっくりそのまま返す。せっかく時間を気にせず一緒にいられるようになったんだ。あまりつれない事を言うな」
「えっと、あの、その……」
新婚早々に別室に行かれては寂しい、とコージャイサンが眉を下げて訴える。するとどうだろう。イザンバは途端にしどろもどろになる。
「もう今までみたいに頻繁に本屋へ行けないからな。ここを変えたのはその詫びも兼ねてる」
「はい。前にジオーネたちが教えてくれました。ごめんなさい。すごく素敵な空間になってたからつい本屋の住人になれる日が来たのかと興奮しちゃって……」
あまりにも整いすぎていて興奮値が跳ね上がったが、その理由は以前従者たちが述べていた。
イザンバはもう一度本棚の方に視線を向ける。この空間には彼の思いやりが詰まっていると思うと胸が甘く疼く。
「あのね、本屋に行けなくても色々と妄想したりコスプレの準備してる時間も楽しいし、私はコージー様と邸でのんびり過ごす時間も好きですよ」
たとえ別々の事をしていても二人は時間を共有できるから。
「コージー様、ありがとうございます。こうやって揃えてもらえて本当に嬉しいです。時間がある時はここでも過ごそうと思います」
「うん。でも礼なら——……」
——抱き寄せる腕が
——唇の縁をなぞる指の背が
——色香を纏う声が
乞うように落とされる。唇をなぞる指が何を求めているのか、瞬時に理解したイザンバの瞳を恋慕と羞恥が彩った。
そこへ誘い込まれるようにコージャイサンが顔を近づけてくるから、イザンバは慌てて両手で遮った。
「ちょ、待って!」
「ん?」
「人前、ダメ、絶対!」
「どこに人が居るんだ?」
「え⁉︎ あれ、みんな⁉︎」
なんという事でしょう。見渡しても側付きたちは誰もいない。
「いつの間に……」
「心配しなくても俺もあいつらもザナが恥ずかしがり屋なのは分かってる」
「それはそれで気まずいです!」
コージャイサンは当たり前のように言っているが、こうもあからさまに気を遣われるとイザンバは羞恥心と申し訳なさで逃げ出したくなる。しかし、腰を抱かれているためそれは叶わない。せめてもの抵抗に赤くなった顔を手のひらで隠した。
それでも優しく手を剥がされ、開けた視界を埋める蕩けた翡翠。
結婚してから一層増した甘さがイザンバを捕える。こうなったらもう、胸の高鳴りが全身を支配するままに。
「ザナ」
愛称を呼ぶ声が強請る。もう触れていいか、と。
二人きりの空間。触れ合いを求める唇を拒む理由はもうない。そっと目を閉じるだけで合図となった。
——慈しむように優しく
——愛欲を唆るように切なく
コージャイサンから向けられる甘やかさに翻弄されてイザンバは息も絶え絶えだ。
くたりと力の抜けた彼女を腕に閉じ込めたままコージャイサンはカウチソファにゆったりと身を預けた。
自身の胸元で恥ずかしそうに目を伏せる新妻の額に口付けを送れば、彼女はさらに隠すように顔を埋めてくる。
そして照れを誤魔化すように鼻を鳴らし始めた。クンクン、スンスンと。
それを見てコージャイサンは喉を鳴らして笑った。
「ほら、やっぱり犬みたいだ」
「わんわん!」
そう言われたからにはノらなければ。暫し胸元に留まっていたイザンバだが、そこから戯れるように夫の首元に顔を寄せた。
クンクン、スンスンと。大好きな匂いに安心感と幸福感を得た彼女はスリスリと頬擦りまでした。だが、ふと仰ぎ見た翡翠に浮かぶ妖しげな気配。あ、と思った時には彼の手が官能を呼び起こすように腰を撫でる。
「そういうところも可愛いけど悪戯がすぎるなら——……躾が必要だな」
「ごめんなさい! 調子に乗りました!」
浴びせられた色香にドカンと羞恥が湧いてイザンバは大慌てで飛び退き、急いでクッションで顔を隠した。
「そう言えば一緒に眠るようになってから悪夢は見たか?」
「見てません快眠爆睡です有り難い匂いの提供ありがとうございます!」
「くくっ、それは良かった」
喉を震わせて笑う夫の隣で羞恥に集まった熱がなかなか冷めない。そんな自分にイザンバは一人身悶えた。
活動報告に従者たちの会話劇をアップ予定です。