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「それに夢のお陰で気付いた事もあるんです」
そう言うナチトーノの声はとても穏やかで。
「わたくしは確かにケヤンマヌ殿下と婚約解消に至りましたが、失くしたものはそれだけなんだと」
心は傷つけられて、ハイエ王国の王子妃の未来は失くした。
だが、身につけた教養、積み重ねた経験、家族や身分に財産、人としての尊厳。そして、何よりも命を。大事なものは何一つ失っていない。
「あの時コージャイサン様が流れを変えてくださって本当に良かったですわ。改めてありがとうございました」
「礼を言われるような事はしてません。俺にとってあの流れが不必要だっただけです。あなたはあなたにとって最適な選択をすればいい」
「ええ、そうします。わたくしと殿下は合わなかった。もしも夢のような破滅が迫ったとしても……わたくしが最期に会いたいのは別の方だと気付きましたから」
ギュッとセレスティアから渡された冊子を胸に抱いた。その動作に二人は中身にもしやと思い至ったが、想いを馳せる彼女をただただ見守った。
心境の変化を迎えたナチトーノが以前と変わらない笑顔を見せてくれる事にイザンバの頬が自然と緩む。
「ナチトーノ様がお元気そうで安心しました」
「イザンバ様も。見るからに幸せそうでわたくしも嬉しくなってしまうわ」
「そ、そうですか?」
「ほら、この写真の表情なんか特に。イザンバ様のこんなお顔初めて見ました」
柔らかな微笑みと言えばいつも通りに聞こえるが、コージャイサンに向けているその表情は心から満たされているからこそ幸福感が溢れ出したような一枚。
「どの写真のイザンバ様も学生の頃と全然違うもの」
「そんなに違いますか?」
「ええ、間違いなく。あの頃よりもずっと可愛らしくて、ずっと綺麗になっています」
親愛を持っていたが、婚約すらもどこか他人事で線を引いていた学生時代。その頃を知るナチトーノだからこそ断言した。
確かに恋心の自覚のみならず両思いが呼び起こしたイザンバの変化は凄まじい。
恥ずかしさに写真から視線を逸らしていたが、訓練公開日と結婚式の写真を見比べたイザンバは、彼への想いが分かりやすく読み取れるようになっている事に思わず頬を押さえた。
「それにコージャイサン様も。誰に対しても同じ態度でしたのに、今はイザンバ様を大切にされている感じがひしひしと伝わってきます」
普段の社交や訓練中の写真と違い、妻に向ける翡翠がどれも甘さを伴っているのだからその違いは明らかだ。目は口ほどに物を言うとはまさにこの事だろう。
そしてナチトーノの視線はまた動く。その先にはダンスをしている二人の姿が。美しく広がったウエディングドレスの繊細な部分までがしっかりと分かる写真をしげしげと見つめると、彼女は楽しそうに声を弾ませた。
「ふふ、このウエディングドレス相当拘られたでしょう?」
「ええ。俺と母が」
「まぁ、やっぱり! イザンバ様によく似合っているもの! 遠目から見てもすごく素敵でしたけど、こうやって改めて見ると本当に素晴らしいドレスですわ」
「……ありがとうございます」
ダミーまで用意したサプライズだったんですよ、なんて暴露したい衝動も。
生地にしろデザインにしろ一切関わっていない花嫁は自分くらいだろうなー、なんてなんだか面白おかしい気分も。
それでも、コージャイサンが選んでくれたものが似合うと言って貰えると嬉しいという気持ちも。
全てを内包してイザンバは照れたように笑った。
「写真もこの画廊もすごく話題になっていますけど、流通はなさらないんですか?」
「その件は父が調整しています。写真が広く知られる事はいいのですが、問題点もありまして」
「問題点?」
「見ていただく方が早いですね」
そう言って彼が視線を投げ掛ければ、どこからか現れた茶髪の従者が恭しく一枚の写真を主人に手渡した。
「あらまぁ」
「なっ⁉︎」
見せられたのはコージャイサンとイザンバがキスをしているように見える写真だ。ポッと頬を染めたナチトーノに対してイザンバは顔面蒼白だ。今日一番の速度で慌てて写真を回収した。
「コージー様! なんてものをナチトーノ様に見せてるんですか⁉︎ っていうか、こんな写真いつの間に⁉︎」
「見せなかっただけでたまに撮れるんだ」
「しれっと隠蔽ありがとうございます!」
「どういたしまして。本当にキスしてる訳じゃないってザナは知ってるだろ?」
「そうだけどそうじゃないー! そんな風に見えるものを人に見せないでください!」
必死の訴えにピンと来たのだろう。新婚夫婦の攻防をよそにナチトーノから納得の声が漏れた。
「そういう事ですか……」
「ええ。国王夫妻の写真を発表してすぐに近隣諸国からも問い合わせがあったようですが、都合よく切り取られた場面が既成事実となっては危険ですから」
「場合によっては脅しに使えちゃいますもんね」
サラッとイザンバが言っているがそれは本当に懸念すべき事で。しかもそこに他国の王侯貴族が絡んでいたとなれば即刻国際問題となる。
だが、今は国際問題よりもイザンバにとってはこちらの方が重要案件。
「コージー様、こう言う系の残りの写真も処分するからください」
「やだ」
「やだ⁉︎」
「画廊には飾らないから大丈夫だ」
「それも大事だけど存在が私の精神衛生上よろしくないです!」
まだ続く二人の攻防はさておき。
「こんなに素敵なのに……ままならないものですね」
赤い冊子を胸に抱いたナチトーノの残念そうな声が画廊に落ちた。
さて、いつまでも客人を立たせたままにはしていられない。写真を見終わった三人は予定していたお茶会の席へと移動した。リンダが丁寧に淹れたお茶で喉を潤すと、口火を切ったのはナチトーノだ。
「そう言えば先日オンヘイ公爵閣下と隣国の皇帝陛下への謁見を共にさせていただきました。なんでも希少花の苗が必要だと仰って」
「ああ、あの苗ですね。ナチトーノ嬢のご助力でしたか。ありがとうございました」
「助力というほどの事はしていません。閣下と陛下も旧知のようでしたし」
しれっと礼を述べたコージャイサンだが、苗を求める経緯を知るイザンバはナチトーノの側に置かれた赤い冊子を見た。
——お義父様が言ってたツテってナチトーノ様の事だったんだ。だからお義母様もお礼を……。
ちなみにその苗を入手出来たお陰でトムはすっかり上機嫌だ。なにせ頑固親父がまめに様子を見に行っているのだから。
荒れた一角に丁寧に植えられた苗がこれからどんな風に育ち、どんな花を咲かすのか。期待に胸を膨らませているトムは生涯現役だろう。
「無事に花を咲かせた暁にはあなたにもお知らせします」
「楽しみにしています。閣下が護衛として振る舞われた時はどうしようかと思いましたけど、よく考えたらとても贅沢で貴重な状況でしたわ。お陰でわたくしもシュート殿下にお会いできましたもの」
防衛局長が護衛とは道中も安心安全だったに違いない。
それとは別に隣国の皇子の名を口にした途端ナチトーノの雰囲気が柔らかくなった。どうやら彼とは良い関係を築いているようだと、イザンバは穏やかに尋ねた。
「シュート殿下もお変わりありませんでしたか?」
「……ええ」
「何かあったんですか?」
返答の声音は明るいが何かを思い出すような間があった事にイザンバが問い掛けると、ナチトーノは恥いるように俯いた。
「実は謁見の間に殿下も居られたんだけど、その、わたくしと目が合った途端に嬉しそうにされたの。皇帝陛下や閣下に揶揄われてすぐに元のお顔に戻ったんだけど。でも……」
たおやかな指が赤い装丁をそっと撫でた。
「逞しい男性にこんな事を言うのは失礼かもしれないけど、その後も目を合わせる度にお顔が和らぐからなんだか大型犬のように見えてとても可愛いと思ってしまって」
「強面溺愛系にわんこ属性をプラスとは……。シュート殿下いいギャップをお持ちですね!」
「わんこ……ふふ、そうですね。思わず胸がキュンとしました」
「ナチトーノ様が惚気られているの初めて聞きました」
「やだ、惚気だなんて……わたくしそんなつもりじゃ……」
潤んだ瞳に、紅潮した頬で綻ぶ華の顔。そんな滅多にない照れ顔がイザンバに直撃した。
「はうっ。やばい。ギャップ萌え可愛いー」
「ザナ、お手」
「わん!」
友人の愛らしさにデレデレとしていたイザンバだが、コージャイサンの声につい条件反射で手を置いた。しかし、藪から棒になんだと彼に問う。
「コージー様、急になんですか?」
「いや、別に。ここにも素直でノリのいい小型犬が居たなと思って」
「それ張り合う必要あります?」
「ふふ、本当に、ふふ、ふふふふ」
物言いたげな目のイザンバにコージャイサンはただただ微笑んで。
二人のやり取りにナチトーノの肩が楽しげに揺れる。大きな笑い声を上げないあたりがまた彼女らしい。そして訳知り顔で言った。
「小型犬どころか火の天使ですもの。しっかり捕まえておかないと。ね、コージャイサン様?」
「ええ。目を離すと新しい扉へ飛び立とうとするので大変です」
わざとらしく肩を竦めるコージャイサンの発言に先程も阻止されたイザンバとしてなんだかばつが悪い。乗せていた手をそっと離して素知らぬ顔を作れば、夫と友人は小さな笑いを溢した。