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ここ最近で一番王都内が盛り上がったオンヘイ公爵令息とクタオ伯爵令嬢の結婚式の余韻も落ち着いたある日。心地よい季節の風が人々の合間を踊る。
さて、新婚夫婦の朝というものは多くの場合遅いものではないだろうか。とりわけ予定がないとなれば、その活動開始時間はもっと遅くなるだろう。
ここにも一人。昼前だというのに寝室のベッドで微睡む新妻がいる。
換気のために開けられていた窓から侵入した風はカーテンを揺らした勢いで女性——イザンバを起こすように通り過ぎる。
それによってゆるりと意識が浮上し始めた彼女の耳に届くノック音。しかし、返事をするほどの覚醒には至らなかった。
微睡みながらも未だベッドの主と化している彼女がもぞりと動いた事を確認した後、ベッドがギシッと鳴いた。
「ザナ」
柔らかく優しい声音での呼び掛けは彼女の意識を引き上げる。ゆっくりとその瞳が姿を現した。
「コージー様」
まだ寝ぼけ眼だがコージャイサンの姿を捉えてふにゃりとした笑みを浮かべれば、彼もつられて微笑み返す。
「起きれそうか?」
「んー……」
のろのろと起き上がったイザンバは襟ぐりの深いゆったりとしたオフホワイトのロングワンピースタイプの寝間着姿。違和感なく腰が座った事に安堵するとぐっと伸びをした。
「大丈夫そうです。今何時ですか?」
「もうすぐ昼食だ」
それを聞いてイザンバは愕然とした。
「結局半日寝て過ごしてしまった……うぅー、もったいない……」
新婚旅行から帰ってきてしまえば夫であるコージャイサンの休暇は残り少ない。
しかしながら、二人が相思相愛だと言えば彼女の現状にもある程度お察しいただけるだろう。
「悪い。昨夜は無理をさせたな」
「え⁉︎ いや、あの、その……」
彼の言葉に深く甘く愛された時間を思い出したのか、途端に真っ赤になって口籠る新妻の愛らしさの威力は中々のものだ。己が残した痕跡も相まってそれはそれはいい一撃を放つ。うっかり欲望の鎌首がもたげそうなほどに。
だが、それをなんとか押し留めるようにコージャイサンは静かに息を吐くと、努めて穏やかに言った。
「さぁ準備をしようか。昼から約束もあるだろう?」
「そうでした!」
「お前たち、ザナの準備を頼む」
「かしこまりました」
いつの間にいたのか寝室の壁際に控える側付きたち。そちらに向いた彼女の意識を呼ぶように指の背がそっと頬を撫でる。
「後で迎えに行く」
「わかりました」
もはやお決まりになりつつあるやり取りを交わして、イザンバは一旦寝室から出る彼の背を見送った。
しかし扉が閉まった後、誰に言うともなくイザンバからこぼれ落ちた呟きは落胆を孕んでいて。
「私、体力はある方だと思ってたんですけど……」
深窓の令嬢たちよりも元気とは言え、やはり騎士としても活躍する現役防衛局勤めの彼の体力には到底敵わないと思い知った。
いや、彼女とて初夜で中々離してもらえなかった事を忘れたわけではない。ただただ旅行が楽しく、その間はコージャイサンもしっかりと配慮をしていた為にすっかり失念していたのだ。昨夜はその配慮がお役御免をしただけの事。
落ち込むイザンバにジオーネが言う。
「ご主人様が相手ですからそれはもう仕方がないと思います。気になるなら体力作りにあたしと一緒に走りますか? 銃を持てばいいトレーニングになります」
「ちなみにですけど銃の種類は?」
「ライフルです」
「ふむ。ライフル銃の重さは軽いもので四キロ強。大体分厚い辞書二冊分ですね! それなら待てます!」
ジオーネからなされた提案に元気よく手を挙げるイザンバにヴィーシャが呆れたような視線を向けた。
「そもそも銃の重さをご存知なんにびっくりしますわ。それも本で読んだんですか?」
「はい! 武器の歴史図鑑っていうのがあるんですけど、そこに剣だけじゃなくて色んな武器が載ってるんです! 面白いですよ!」
「面白いて……貴族令嬢が読むもんとちゃうでしょうに。まぁ、知ってはってもジオーネと同じ事は若奥様には無理ですわ」
ああ、麗しい微笑みでなんとつれない事を言うのだろう。
だが、それも致し方なし。持てる事と持ち続ける事は違う。現時点で二人のスペックが違うのだから。多少知識があったところで暗殺者に張り合えるわけがない。もちろんそこはイザンバも承知している。
「ですよねー。じゃあ、まずは短い時間のウォーキングから始めようかな。ジオーネ、それでも付き合ってくれますか?」
「もちろんです」
「ありがとうございます。目標はいつか銃を持って走る事!」
何事も無理なく続けられる事から。段階的に難易度を上げていく方が続けられる事をイザンバは知っている。
「ですが、実用的な事を考えると若奥様がお持ちになられるのならライフルよりも小型の拳銃がよろしいかと。いざという時の用心にドレスの下にも隠せますし」
「つまり……私もついにレッグホルスターデビュー⁉︎ ジオーネみたいにカッコよくバーンってやっちゃう⁉︎」
「若奥様が御御足をお出しになられるよりも早く若様が片付けてしまわれそうですけど。もちろん私たちもお守りしますのでご安心くださいませ」
リンダの言葉にイザンバはぱちくりと目を瞬かせた。
「もしかして二人も戦える人なんですか?」
「はい。彼女たちには劣りますが、公爵家に仕える者として必要な技量ですから」
「カッコいい!」
微笑むリンダとヘザーに向けられたのは憧憬に煌めく瞳。
公爵家の使用人はいざという時、主君一家を守る為に、また逃げる時間を稼ぐ為に動く。ヴィーシャやジオーネほどとは言わないが、全ての女性使用人にも武術の心得があるのだ。
「私も足手纏いにならないように頑張ります!」
「頑張りすぎてお疲れになりませんように。若奥様には若奥様にしか出来ない事がございます」
イザンバの頑張る方向性が変わってきそうな気配にヘザーがやんわりと待ったをかける。
何かあったっけ? と首を傾げるイザンバにそれでも彼女たちはにこやかで。
「若様に心身ともに愛され、いつかお子を宿される。これは世界中のどこを探しても若奥様にしか出来ない事ですから」
そう言ってちらっと動いたリンダの視線の先には首元から胸元にいくつも咲いている赤い花弁。若夫婦の仲睦まじさが見て取れてリンダはニコニコとしている。
その視線に気付いたイザンバの頬がすぐに朱色に染まる。恥ずかしさから布団を引っ張り上げてその部分を覆い隠し、キュッと肩を縮こまらせた。
「や、でも、あのね……なんか、思ってたのよりちょっと、いやだいぶ? えっと、その、ほら、なんていうか……ね?」
「お盛んだったんですね」
「あう……言い方〜」
もじもじと言いあぐねていたところをジオーネにずばりと言われてしまい、イザンバの頬どころか顔中を彩る赤みが増した。
首元を隠していた布団で今度は顔を隠す彼女に、側付きたちから向けられるのは見守りの笑み。
「新婚さんなんてみんなそんなもんですよ」
「えー、本当に?」
「ほんまですって」
初心な反応にコロコロと笑うヴィーシャにイザンバから向けられる疑いの眼差し。
それを見ていたジオーネだが、しかし解決策はイザンバの体力向上のみとそれはもう元気に提案する。
「では体力作りの後にストレッチもしましょう! 血行が良くなると回復も早くなります! そうすればご主人様にお付き合いできる時間も増えるはずです!」
「それならご入浴の後のマッサージもしっかりいたしましょうね! 体力と一緒に肌ツヤもアップさせましょう!」
「お腰の強い殿方も世の中にはたくさんいらっしゃいます。たまたま若様がその部類の方であったと言うだけの事かと。ですから甘んじてお受けくださいませ」
リンダもノリノリで、ヘザーにまでにこやかに言われてイザンバは退路を絶たれた気分だ。
側付きたちには何を言っても敵わないと、軽いため息の後に困ったように微笑んだ。
「さぁ、若様がお待ちです。若奥様もお召し替えをいたしましょう。本日はどちらをお召しになりますか?」
「……首までしっかり隠れるものでお願いします」
「かしこまりました」
ゆっくりと隣の自室に向かい、イザンバも準備を始めた。
活動報告に側付き決定戦の小話アップ予定です。