犬猫検診
これは、とある人から聞いた物語。
その語り部と内容に関する、記録の一篇。
あなたも共にこの場へ居合わせて、耳を傾けているかのように読んでくださったら、幸いである。
うう、ここにも飼い犬が……こーちゃん、遠回りしていこうよ~。
ちっさいころに追いかけまわされてから、どうにも犬は苦手なんだ。近づかれるのはもちろん、声を聞いただけでも飛び上がっちゃいそうなんだよ。
大人になれば平気になるとか話す人もいるけど、僕にとっちゃ今が問題なんだよなあ。今が。
たとえ克服できたとしても、おびえていながら通り過ぎてしまった時機、時間が戻ってくるわけじゃない。大人なりの楽しみで穴埋めできるとしても、子供のころの時間は、子供だけのものだ。
どうにか早い段階で慣れたいんだけど……駄目だなあ。どうしても距離を置きたくなってしまう。
――無理にやせがまんするより、自分に素直になった方が結果的に時間を有効に使える?
うんうん、そうだよね。こうして自分の苦手に正直に従うのも大切なことだよね。
でもさ、自分は避けたとしても、物事そのものから離れるのは危ないことだってあるみたい。得意だったり、問題なかったりする誰かに張ってもらうのも大事かもしれないって、いとこが離していたんだよ。
そのいとこから聞いた話なんだけど、耳に入れてみない?
いとこの学生時代、地元では野良猫をよく見かけたという。
犬同士、猫同士が声を掛け合ったり、いがみ合ったりしている場面は何度か見たことがあるけれど、いとこの地元じゃ犬対猫もままあるのだそうだ。
本格的なファイトに発展することは、ほとんどない。
ときに対等な地面の上で。ときに猫が塀の上からマウントを取りながら、犬をにらんでくるんだ。
犬たちもそれにこたえる。どのような身体の大きさであったとしても、猫を見据えてじっとひとにらみ。
それが飼い犬で、散歩の途中であったとしてもそうだ。ほんのわずかな間でも足を止め、双方が顔を見やった後にどちらともなく去っていく。
どれだけ強くリードを引っ張っても、このにらみの間は彼らを動かすことかなわない。
それがチワワやトイプードルのような子犬であっても同じだ。大人の力をもってしても、彼らはその瞬間において、びくともしなかったらしい。
普通のいがみ合いなら、よくあることと流されただろうけれど、この頑固さは異常だ。
回数が増えてくるにつれて、いとこの周りじゃウワサになっていき、そこへ更に尾ひれが付け足される。
にらみ合う彼らが、ときおり互いに口を開くことがあるんだとか。
もちろん人語を話し始めるとかじゃない、物理的なものだ。
お互い、にらんだ相手に向けて大口を開ける。そこから吠え声が出てくるなどでもない。
同時に口を開けることは、まずなかったという。一方が口を開き、もう一方はそれをじっとにらむ。まるで歯科検診をしているかのような、不可解な格好。
猫と犬は、どのような種類であっても顔を合わせると、このにらみ。場合によっては歯科検診まで行っていったらしいのさ。
長年、飼っていたペットでも見られたそうで、単なる病気とかも考えづらかったとか。
そのいとこが、たまたま夕暮れ時に帰ろうとしたときだ。
家に向かう途中の道端で、偶然に野良猫と野良犬がにらみ合っている現場へ遭遇した。いずれも首輪をつけてはいなかったんだ。
双方はまたじっと見やりながら、やがて犬の方が口を開ける。猫はその黒い首をかしげるようにしながら、柴犬の口の中をじっくり観察しているようだった。
サイズは犬のほうが二回りも大きいだろうか。ますます患者さんの口の様子を探るお医者さんのような格好に、いとこもつい足を止めてしまったのだけど。
ふいに、近くの茂みから飛び出すや、黒猫にのしかかる影があった。
白猫。ちょうど対になる色合いで、同じ体格ほどの猫だ。たちまちもみ合う両者は、激しく威嚇しあい、互いの手の爪を出して引っかきにかかる。
ここまで本格的なケンカを、間近で見るのははじめてだった。
両者はしきりに上下を入れ替えてマウントを取り合い、牙さえ突き立てんばかりの形相だ。鳴き声はやまず、みるみるその体中に傷をこさえていく。
その間、犬は軽く口を閉じながらも、その様子を見守っていた。立ち去ろうとする素振りなく、かといってあおりや野次を思わせる茶々を入れる様子もなく、じっと成りゆきを見届けんとする落ち着きようだったとか。
いとこもその異様さに、去ろう、探ろうという気はとっさに起きなかったんだそうだ。
ヘタにこの場から動かないほうがいいんじゃないか。
そう語りかける感覚が、体中の神経をうずかせていたらしい。
どれほどのケンカだったろうか。
ふと、電灯がつき始めたころ合いで、元からいた黒猫がのしかかられた体勢から、白猫を突き飛ばしたんだ。
ほんの数十センチの間。けれども犬から見た両者の距離は明らかに離れる。
そのとき、犬と黒猫が同時に白猫の倒れ込んだ方を見やった。
見ているのは白猫じゃない。更に遠く、ここまで等間隔で並ぶ街灯たちだ。
いとこもつられて、そちらへ顔を向ける。
いずれもしっかり明かりを灯しているそれ、その10個ほど向こうの明かりが、いきなり消えてしまったんだとか。
単なる電球切れとは思えない。
あれよ、あれよという間に電灯は、9つめ、8つめ、7つめ……と順番に暗闇を作り続けていくんだから。
――なにか、来る?
いとこがはっと見下ろしたときには、犬が先ほどと同じように大口を開けていた。
その口の先に、わずかに猫の黒い尻尾が飛び出し、すぐに引っ込んだのをいとこは見て取ったとか。
すでに電灯は4つ手前まで来た。伸びていた猫は何とか立ち上がろうとするも、深手を負っていて俊敏には動けない。
これまでのダメージにくわえて、先ほど突き飛ばされた拍子に、黒猫の立てた爪がいとこの目にも分かるくらい、腹から足にかけて深い傷を残していたんだ。
どうにか身体をあおむけからうつ伏せに戻したとき、2つ目の電灯も消えてしまった。
そうして、猫の真上にある1つ目の電灯もかき消えてしまったとき。
白猫も一緒に、姿を消してしまったんだ。
いや、本当に消えたといえるのだろうか。いとこの目には明かりが消えるとともに、猫の皮がむけ、肉がはげ、骨が見えたのち、失せたように思えた。
生皮はぎ、というやつだろうか。それが瞬きの間に起きて、猫の身体は暗闇の中に溶けて行ってしまったんだ。
いとこの背後に続いていた明かりたちも消える。5つ目のT字路に差し掛かるあたりまで、停電は及んだ。
そこから今度は、10個先の街灯からつき始める。
ひとつも乱れることなく、順番にだ。
ここにも明かりが差したときには、もう黒猫が犬の真ん前に現れている。
傷だらけには違いないが、その身体からはしとどに、粘り気に飛んだ液体が落ちていく。濡れるのを嫌がるのは大半の猫に見られる習性にもかかわらず、この黒猫はじっとしていた。
柴犬を見やっていたんだ。犬はもう口を開かず、黒猫のまなざしを見つめ返すと、さっと踵を返してその場を後にする。
黒猫もまた、犬とは反対方向に歩いていき、ぴょんと近くの家のブロック塀に飛びのって去っていったんだそうだ。
あの明かりの下にいたもの。
正体は分からないけれど、いとこは猫にとっての「天敵」そのものではないかと思っているんだとか。
それを逃れるためには、どこかへ身を隠すよりない。つまり、他の動物の内側へとだ。
「歯科検診」は、その中で自分が隠れるにふさわしいものの、品定めでもあったのだろう。
そして、場合によっては犬が猫にやることもあるはずなんだろう、とね。