伯爵令嬢、男奴隷を買う
本当はこんなところに来たくはなかった。いくら義母の付き添いとはいえ悪趣味にもほどがある。義母の友人であるフェラーズ夫人が「今日はとっておきの場所に連れて行ってあげる」と言った時から嫌な予感はしていた。義母の友人の中でも、フェラーズ夫人は素行が悪く、彼女の言う「とっておきの場所」なんてロクなもんじゃない。しかし、いくら何でも奴隷市場とは思わなかった。
「一度来てみたかったのよね~。噂には聞いていたけど本当にあるのね。高級品だから貴族の中でもごく限られた人しか持てないと聞いていたけど」
「雑務用の下僕ならそんなに値は張らないわよ。ただし顔がいいのは……ねえ……」
二人は顔を見合わせてクスクスと忍び笑いをした。シルビアは会話の続きが簡単に想像できてしまってげんなりした。この国の裕福な単身婦人や未亡人の中には、見目麗しい青年を囲う者がいる。中には夫公認の愛人を買う者もいた。そのような男奴隷は高価な美術品と同等の価値を持っていたのである。
「うちの夫は自由にさせてくれる方だけど、さすがに家の中に愛人を置くのはダメだわ。目の保養にはなるんだけどね~」
「うちも家じゅうの骨とう品をかき集めなければ高級な奴隷は無理ね。まあ高嶺の花よね」
二人が人を物のように話すのを、シルビアは後ろから着いて歩きながら聞いていた。この下品な義母には日ごろから辟易していたが、父の手前大っぴらに逆らうこともできず、やむなく従っていた。今日だって本当は自分の部屋で静かに読書をしていたかったのに——
ふと、脇を見ると一人の奴隷と目が合った。サラサラした金髪を肩まで伸ばし、右目は水色、左目は茶色というオッドアイは初めて見た。美しく整った顔立ちをしたこの奴隷は、本来この場所にいるはずではなかった。愛人として買われる男娼は、もっときらびやかに彩られた場所にそれぞれ独立して陳列される。それがこの男は雑役用の奴隷たちと一緒に雑多に置かれ、鎖につながれていた。これだけの美貌なら愛人用なのは間違いないはずなのに。目が合ったシルビアはなぜか身体が動かなくなってしまった。向こうもじっとこちらを見ていた。オッドアイが珍しかったからだけではない、彼女を射抜いたまっすぐな眼差しは言葉以上に雄弁になにかを訴えていた。
「お母様、私この人が欲しいです」
考えるより先に言葉が出ていた。義母も、フェラーズ夫人もびっくりして目を丸くした。
「シルビア、今、奴隷を買うって言った?」
「ちょっと……この奴隷はダメよ。いい顔をしているのに雑役用として売られているってことは絶対訳ありよ。本来こんな安い値段で売られるわけないもの——」
「私この人がいいです」
シルビアは一旦言ったことは絶対に撤回しない性格であることを義母も知っていた。義母はそんな彼女を何とかなだめようとした。
「じゃあ、せめて身体を検分して欠損がないかどうか——」
「ここで裸にするなんて可哀想だからしなくていいです。お母様、お願いします」
義母とフェラーズ夫人はシルビアの強情さに呆れながらも、最終的に了承した。シルビアは持ち合わせがなかったので、胸に付けていたオパールのブローチを渡した。本当はお釣りが来るほどの高価なブローチだったが、シルビアはそんなことも知らなかった。
**********
さて、家に連れて帰ったはいいが、彼をどうすればいいか分からない。まさか同じ部屋に住まわせるわけにもいかない。仕方がないので客室の一つをあてがうことにした。
「お父様にはどう言いつくろうの?」
義母が意地悪そうにシルビアに尋ねた。うかつにもそこまで考えてなかった。熱に浮かされたように連れて来ることだけを考えて、後はまるで考えなしだったことに今更気が付いた。娘が男奴隷を買ったなんて知ったら、父は烈火のごとく怒るに決まっている。そうでなくても普段からシルビアには厳しいのに。シルビアは懸命に理由を考えた。
「ボディガードとして雇いました、と言っておきます」
「ふうん。雇いました、ねえ」
義母はそれだけ言うと部屋から出て行った。シルビアは男奴隷と二人きりになったことに落ち着かなかったが、それをごまかすように彼に尋ねた。
「あなた、名前は?」
「……ユリウスです」
「下のお名前は?」
「……? そんなものありません。ご存じなかったのですか?」
シルビアは何のことか分からず首を横に振った。
「奴隷は苗字を持っていません。親や兄弟もいないのですから。他人と識別するためのファーストネームしかないのです」
そんなことも知らなかった。もしかして常識だったのか。
「ごめんなさい……私そんなことも知らずにあなたを買ってしまって。でも奴隷として働かせるつもりはないの。あの時目が合ったらなぜか放っておけなくて。ちょっと待っててね、今自由にしてあげるから」
シルビアはそう言うと、ユリウスに近づき、首にはめられた首輪に手をかけた。この首輪は、細く装飾的で一見するとアクセサリーに見えるが、鍵を使わないと外れない仕組みになっており、実質犬を繋げておく首輪と同等の役割を果たしていた。この首輪がしてある限り、奴隷は主人の所有物とみなされていた。シルビアはユリウスを買った時に、店主から首輪の鍵を受け取っていた。その鍵を使って首輪を取ってやった。
「さあ、これであなたは自由の身だわ……きゃあっ!」
シルビアは突然床に押し倒され、両手の自由が奪われる形で仰向けに拘束された。見上げるとユリウスの視線とぶつかり、上から見下ろされていた。ユリウスはシルビアに馬乗りになる形で上から押しつけ動けないようにしている。その顔はなぜか憎悪で歪んでいた。
「どっ……どうしてこんな……」
「あんたみたいのが一番ムカつくんだよ! この偽善者め……!」
ユリウスの声は怒りの余り震えていた。
「前にもあった。運動家たちが大挙して奴隷市場に押し寄せ、奴隷を解放するとか何とか言って店を襲撃した。あいつらは何も分かっていない……解放されたところで俺たちに居場所なんかないってことを。自由の身になったところで、奴隷は奴隷のままだ。俺たちを雇ってくれるところなんてない。首輪を引きちぎったところで奴隷の刻印は残ったままだ。また新しい首輪をはめられるだけだ」
ユリウスはそう言うと、シャツをはだけて肩を露わにした。そこには数字の焼き印が押されていた。
「これで分かっただろう。どこかで働こうとしても奴隷かどうか必ずチェックされる。脱走奴隷を雇うわけにはいかないからな。焼き印を消そうとしても必ず跡が残る。中には腕ごと切断した者もいたが、結局相手にされずのたれ死んだっけな。とにかく俺たちは首輪があってもなくても運命は変わらないんだよ。ああ、一つだけあった。あんた自身が外したってことは、もう俺はあんたに従う必要はないってことだ」
そう言うと、拘束した腕に力を入れ、ぎりぎりと締め上げた。悪魔のように顔を歪ませ、左右色の違う瞳は憎悪の炎で燃えていたが、それでもなお美しさは損なわれていなかった。シルビアは目に涙を浮かべながらか細い声で「やめて……」としか言えなかった。それを見たユリウスは何を思ったか、ふいに力を抜いて彼女を解放した。シルビアはやっとのことで起き上がった。
「私からは自由でも奴隷のままということは、あなたはこれからどうなるの?」
「さあな。ここにはいられないから出ていくことになるだろう。俺を置いてくれるところなんてどこにもないからまた市場に戻るしかないかな」
「そんな……それじゃ私がお金を払った意味がないじゃない」
「だからこの世界はそういう風にできてるんだよ。あんたみたいなお嬢様は知らなかっただろうが」
そう言われると反論の余地もなかった。奴隷なんて解放すればそれでおしまいと思っていた。自分の不見識さ、世間知らずさに恥ずかしくて申し訳ない気持ちでいっぱいになった。
「これまでのことはごめんなさい。それならここにずっといてください。何もしなくていいです。私のお願いってことにすればいいのでは?」
「ここで働く使用人はどう思うよ? 自分たちが働いているのに、それより身分の低い奴隷が何もしないってそんなの許されると思っているのか? むしろその方が針のむしろなんだが」
「それなら簡単な雑用をやってください。元はと言えば私が巻き込んだことなので、あなたが困らないように考えます」
これではどちらが主人か分からない。おかしなことになってしまったが仕方なかった。
話はこれで終わりかと思いきや、廊下からドシドシという大きな足音が聞こえて来た。その足音はまっすぐ二人がいる部屋の前で止まると、ノックもせずに一人の男が入りこんで来た。
「シルビア! 男奴隷を買ったというのは本当なのか! しかも安く売られていた男娼を! マリーに聞いたらどうしてもと言って聞かなかったそうだな。破廉恥にもほどがある!」
そうまくしたてるとシルビアの頬を強く叩いた。その衝撃でシルビアは床に倒れた。
「お父様、そんなつもりじゃなかったんです。ただ解放してあげたいと思って——」
「たった一人解放したところで気休めにしかならないだろう!それに奴隷は死ぬまで奴隷だ。解放なんてありえない」
父親はそう言うと、シルビアの髪を掴んで引きずり回し、腹に蹴りを2,3発入れた。シルビアは大した抵抗もできず、ただされるがままになっていた。ユリウスはその様子を見て絶句したまま何もできずにいた。
「縁談もまだなのに奴隷を買ったことが知れたらどんな噂が立つか。お前みたいな人間はただでさえ貰い手がないのに、一生独身で過ごす気か! 今すぐ市場に戻してこい!」
「それだけは嫌です! 私が教育を施して条件のいいところに就職させます。奴隷の身分でも分け隔てなく扱ってくれる人を探して紹介するんです。決してよこしまなことは考えてないので信じてください!」
「淫乱女の娘なんか信じられるか! うちには奴隷まで食わせる金はないから、捨てないのならお前が養え! 悪い評判が立ったらその時はすぐに捨てるからな!」
父親はそう言うと、ずたぼろのシルビアを床に転がしたまま部屋を出て行った。ユリウスには気づいたはずなのに無反応だったということは、奴隷は注意を向けるに値しない、犬ころと同等の存在という意味なのだろう。
「あの……シルビア?」
ユリウスが恐る恐る尋ねると、シルビアは一人で起き上がった。口の中を切ったらしく血が出ており、他にもあちこち痛めている様子だった。
「あなたは気にしなくていいの。いつものことだから。小間使いに頼んで手当してもらうわ。あなたは湯あみをして着替えてちょうだい」
シルビアはそれだけ言うとよろよろと立ち上がり、ユリウスの部屋となった客室から出て行った。ユリウスが更に声をかけようとしても無視したままだった。
**********
「なにこれ?」
「読み書きをするための教科書。私が子供の頃に使っていたものよ」
初対面から一夜明け、怪我した箇所にガーゼを当てたシルビアが会いに来た。そして、ユリウスの机の上に本の山をどんと置いた。
「仕事に就きたいならば、読み書きを覚えなければどこも雇ってくれないわ。基本的な勉強なら私でも教えられる。一緒に頑張りましょう」
「奴隷を雇ってくれるところなんてねーよ……奴隷が文字なんて覚えてもかえって白い目で見られるだけだ。無駄無駄」
「無駄かどうかなんてやってみなくちゃ分からないじゃない。読み書きは生きるために必要よ。文字が読めれば変な契約をさせられることもないし、本からたくさんのことが学べるわ」
「奴隷が知恵を付けて反乱でも起こしたら困るのはお前ら貴族だろ? 読み書きなんて覚えたら反乱を企む不穏分子と思われて消されるだけだ。俺が殺されてもいいの?」
シルビアは反論できずうっと詰まってしまった。そんなつもりじゃないのに……警戒心を持たれずにユリウスに読み書きを教えるにはどうすればいいのだろう。
「就職先は私が探すから……今は分からないけどいい人を必ず見つけるから信じて欲しい。と言っても説得力ないのは分かっているけど……結婚して私がこの家からいなくなったら、元の奴隷市場に戻るのでは意味がないのよ……ほんの一時の自由にすぎない。そうじゃなくて、あなた自身で人生を切り開いて欲しいの。そのためのお手伝いをしたい」
シルビアはたどたどしくはあったが、懸命にユリウスを説得した。今の自分ではこのくらいのことしか言えなかった。社会の仕組みも何も分からない一介の小娘にすぎないシルビアではあったが、一人の人間を救いたい気持ちだけは本物だった。
「やれやれ。とんだお子ちゃまに買われてしまったな。仕方ないからやってやるよ。ここにいても退屈だからな。夜のお勤めの方が得意なんだけど、そっちはしなくていいの?」
「けっ……結構です! 頼んでないことはしないでください!」
耳まで真っ赤にしながら反論したシルビアを見てユリウスは声を上げて笑った。
「ほんっと面白いな。主従関係はもうないけど約束は守ってやるよ。食事とベッドを世話になってるしな」
すっかり相手のペースに翻弄されてしまっているが、人生経験の差が違うのだから仕方がない。別に感謝して欲しくてやってるわけではないが、もっと他の言い方はないのだろうか。何はともあれ、読み書きも取り組んでくれそうなので胸をなでおろした。
一度勉強が始まったら、ユリウスは優秀な生徒だった。元々飲み込みが早いほうなのだろう。スポンジが水を吸収するように文字を覚えていった。数か月で読み書きを一通りマスターした後は、計算の練習に入った。これも外で生きていくためには必要なスキルだった。
ユリウスは、勉強以外の時間は他の使用人と同様下働きをした。ある日、ユリウスが1階に降りていると、自分を見つめる視線を感じた。リビングの扉から義母が覗いている。周りを見渡したが他に誰もいない。シルビア以外の家人と二人きりにならないように用心していたはずなのについ油断してしまった。
「いつもシルビアがお世話になっているわね」
やけにねちっこい口調なのが気になった。義母は夫よりかなり年下で、年齢は25歳、シルビアは16歳だから親子というより年の離れた姉妹のようなものである。家にいても念入りに化粧を施し人目を惹く美貌を保っている。しかし、美しいものに囲まれて過ごしてきたユリウスにとっては、偽物くささが鼻についてたまらなかった。
「いいえ、お世話になっているのは私の方で。優しいご主人様にめぐり会えて光栄です」
ユリウスは丁寧な物腰を崩さずに答えた。そうすることで距離を近くしないよう防衛線を張ったつもりだった。しかし相手は積極的だった。
「あなたもお子ちゃまの相手は大変ね。そろそろ我慢できなくなってるんじゃないの?」
大胆にも義母はユリウスに近づき身体をぴたっと密着させると、両手で彼の身体をまさぐり始めた。むせ返るほどの香水の匂いが鼻を刺激する。こんなの家の主人に見つかったら半殺しどころではない。早くここから逃げなければ。しかし食虫植物に絡め捕られた虫のように足が動かなくなっていた。生理的な反応は如何ともし難かった。
「お母様! 何やってるの!?」
突然、階段の踊り場からシルビアの声がした。ユリウスははっと我に返り、ぱっと義母から離れた。
「何よ、いいところだったのにつまんない」
義母は何事もなかったかのようにくるりと身をひるがえしその場からいなくなった。結局シルビアとユリウスが残される形になった。
「助けていただいてありがとうございます、ご主人様」
「ご主人様なんて初めて言われたわね。もしかしてお邪魔だったかしら?」
助けてくれたにもかかわらず、シルビアは不機嫌だった。
「とんでもない。本当に感謝しているよ。奴隷は主人以外の者には仕えることはできないから。本当はあんたは主人じゃないけど、まあ一応」
「そうなの?」
「ああ。主人が許可すれば別だが。主人がいないところで勝手に他の者と関係を持ったら殺されても文句は言えない。契約違反になるからな」
「そんな……いくら何でも殺すなんて……」
「奴隷っていうのはそういうもんだから仕方ないの。これからは一人にならないように気を付けるよ。じゃあな」
ユリウスはそう言うと、シルビアの元を去った。本当のところ、シルビアのいないところで使用人仲間から散々言い寄られていた。この美貌では何もない方がおかしい。今までのユリウスなら主人が厳しくなければそれなりに遊んでいた。しかし、ここに来てからなぜかその気が失せてしまった。使用人相手なら無下に断っても角が立たないが、目上相手となると難しいので極力会わないように努めなければならない。特にあの義母は要注意だ。
基礎的な学力が身に着いてきたころ、シルビアはそろそろユリウスの働き口を探し始めようと思った。全く伝手がないのだから早く動き出すに越したことはない。シルビアには一つの考えがあった。
父の秘書にサイモン・ホランドという者がいる。真面目で謙虚な青年で、誰に対しても横暴な父の下で弱音も吐かず根気強く働いていた。弱々しくておどおどしているが悪い人ではないとシルビアは思っていた。彼ならば奴隷の身分だろうが偏見を持たずに話を聞いてくれそうだと思った。
シルビアは父のいない時を見計らって、サイモンに話しかけた。
「あのう……サイモンさん、折り入ってお願いがあるのですが」
まさか娘のシルビアに話を持ち掛けられるとは思っていなかったサイモンはびっくりして、ずれた眼鏡をかけ直した。
「わ、私でよければ相談に乗りますが、どんなご用でしょうか?」
「あのう……一人の青年の就職口を探しているんです。初等学校までの分野ならマスターしています。どこか適当なところはないでしょうか?」
「そうですね……それなら、私の知ってる範囲だと、小麦会社の帳簿付けの仕事が現在空いていると聞いたことがあります。初等教育でも研修すれば可能かと……あと、私の叔父が測量会社をやっているのですが、雑用係が足りないと言ってたような……その人は何歳なんですか?」
「20歳くらいだと思います、正確には分からないんですけど」
「分からない? 一体どうして?」
「元々奴隷の身分だったのです。私が読み書きを教えて一通りのことはできるようになりました。元奴隷を雇ってくれるところはなかなかないと聞いたのですが、サイモンさんなら相談に乗ってくれると思って」
ここまで聞いた時、サイモンの顔は醜く歪んだ。言葉にできない嫌悪感を隠せない様子だった。
「シルビア様、お言葉ですが、奴隷に読み書きを教えても無駄にしかなりませんよ。人にはそれぞれ身の丈に合った生き方がありますから。あいつらには受けた恩を返すという脳はありません。ひどい目に遭う前にシルビア様も手を引かれるのがよろしいかと」
シルビアは愕然とした。いつも柔和なサイモンがこんなことを言うとは思えなかったのだ。
「そうですか……では他の方に頼んでみようと思います……」
「もしかして、ご主人様がおっしゃっていた、奴隷を買ったというのはシルビア様だったのですか!? それなら悪いことは言いません。すぐに市場へ戻すべきです。ご主人様もシルビア様のことは放置ぎみだから私から進言しましょう」
「お願い、それだけはやめて。お父様には何も言わないで。私が自分の責任でやりますから、サイモンさんはどうか黙っててください。お願いします」
父に介入されたら今までの苦労が水の泡になる。シルビアはサイモンに再三頼み込んで口留めさせた。結局サイモンは何の助けにもならなかった。一見大人しくて優しそうな人が差別心をむき出しにする姿を見るのは心理的にこたえた。
シルビアが自室に戻ろうとすると、ドアの前にユリウスが立っていた。
「なあ? 言っただろう? 奴隷に手を貸す奴なんかいないって」
「会話を盗み聞きしてたのね?」
「奴隷の中でも俺みたいのは一番バカにされる。男娼だものな。きれいに着飾ってうまいもの食ってふかふかの布団に寝られても、実際は奴隷仲間からすら蔑まれる。まともな死に方をする奴だって殆どいないよ。酒や薬で身体を壊すか変死するのがオチかな」
「そんな……っ……それで本当にいいと思ってるの?」
「いいもなにも、それが運命なんだから受け入れるしかないだろ。この身分になった時から覚悟していたことさ。だからなーんも希望なんか持っちゃいない。そんなんだから受けた恩を恩とも思わないってのは本当だよ。あの眼鏡のとっちゃん坊やの言う通りさ」
シルビアは何も言えなかった。奴隷の過酷な運命を知ったこともショックだったが、それをまるで他人事かのように語るユリウスのことも信じられなかった。ずっと黙ったままだったが、だんだん言葉にならない悔しさが募り、涙がこみ上げてきた。
「おい……自分のことでもないのになに泣いてんだよ?」
「分からない。自分でもよく分からないけどなんか悔しいの。悔しくて腹が立っている。今日は一人にしてちょうだい」
シルビアはそれだけ言うと、自分の部屋に入って鍵を閉めた。そしてベッドに突っ伏して枕に顔をうずめ声を殺して泣いた。
**********
月日が経ち、シルビアは17歳になっていた。誰にも祝ってもらえない寂しい誕生日だった。
「おい、シルビア。お前に縁談話が来たぞ。奴隷を飼うような娘でも貰ってくれる方がいるんだから感謝しなきゃな」
ある日、家族で夕食を摂っている時に父から言われた。家族と一緒にいなければいけない時間はいつも憂うつで、意識を外に飛ばして時間が過ぎるのを待つのが習慣となっていた。しかし、この時ばかりは一気に現実に引き戻された。
「お父様、今なんて……」
「相手はランバート伯の三男だ。年は30くらいだったかな。財産は申し分ないから大丈夫だ。お前もそろそろ身を固める準備をしないといけないから、あの奴隷は始末してこい。嫁入り前の娘が男奴隷を持っているなんて外聞が悪すぎる。隠し立てできなくなる前に何とかしろ」
人を人とも思わない父の考えは分かっていた。かねてからシルビアを貰ってくれる裕福な貴族の家を探していた。人格や前評判や年齢はどうでもいい。とにかく金持ちの独身男なら誰でもよかった。ユリウスだけでなく、娘のシルビアすらただの駒にすぎない。いつかこの日が来るのは分かっていたが、それが今日だとは思わなかった。
シルビアは食事も喉を通らないまま早々に自室に戻った。部屋のドアの鍵を締めるとそのままバルコニーに出た。夜空を見上げるとたくさんの星がまたたいている。いつまでそうしていただろう。ふと横を見ると、離れた部屋からユリウスもバルコニーから星を見ていた。
「珍しいな。あんたがバルコニーに出てくるのは。この夜空は俺が独り占めしていると思ってた」
「星を見るのは好きなの?」
「まあな。自然とか動物とか見るのが好きなんだ。人間と違って裏切らないから」
確かに。人間に嫌気が差しているのはシルビアも同じだった。
「偶然ね。私もなの」
なるべく明るい声色を装ったが、ユリウスには隠しきれなかった。シルビアの沈んだ顔を見たユリウスは彼女の異変に気づいたようだった。
「どうした。またあのクソ親父にぶたれたのか」
「実際にぶたれてはないけれど、似たようなものね。あなたの働く場所を早く探さなくちゃ。私が婚約したらこの家にいられなくなる」
「なに? 婚約するのか?」
「そうみたい。相手の顔も分からないけど。皮肉ね。私も売られるようなものだわ。自分の意思なんて関係なく親の決めた相手と結婚させられる。家のために」
ユリウスは何も言わずに聞いていた。
「父はずっと母に暴力を振るっていたの。小さい頃からずっと見せられてきた。2年前に、母はうちに出入りしている男性と恋仲になって家を出ていったの。そしたら今度は私が標的になった。前に母を淫乱女と呼んでいたのはそういうわけなの。あなたを買った私も同じように見えたんでしょう。それもあって早く厄介払いしたくてたまらないのよ」
シルビアはそこまで言うと、今度はユリウスの方に向き合った。
「あなたのことは私が最後まで責任を持つから心配しないで。そんなこと信じられないのは分かっているけど、あなたには私が生きられない人生を生きて欲しいの。自分で選び取った人生を。どこかであなたが元気に生きていると分かっていれば、私も頑張れる気がするから」
そう言うと、懸命ににこっと笑った。ユリウスはまっすぐシルビアを見つめた。彼女を見つめる彼の顔は、月の光に半分だけ照らされ、まるでこの世の者ではないかのような美しさを放っていた。
「今夜、お前の部屋に行く。鍵を開けておいてくれ」
ユリウスはそれだけ言うと、部屋へ戻りバルコニーの扉を閉めた。
**********
シルビアはユリウスの言った意味が分からないほど子供ではなかった。しかし、具体的にどうするかまでは詳しくは知らなかった。いずれにしても、大きな決断を迫られていることは確かだ。決断した後に待っているのは地獄かもしれない。それも今となってはどうでもいいような気がした。
午前1時にユリウスはやってきた。ノックもせず静かに扉を開けて無言のまま入って来た。彼は夜着だけを身に着け、シルビアもまたネグリジェに上着を羽織っただけだった。
ユリウスはベッドに腰かけ、シルビアにぴったりと寄り添った。そして何も言わずに優しく髪をなで始めた。小さい子供をあやすように優しく、何度も何度も。シルビアは彼の胸に身体を預け腕を回して抱きしめた。
どれほどそうしていただろう。シルビアは回した腕にぎゅっと力をこめた。すると、滑らかなはずの背中がごつごつしていることに気が付いた。ふと我に返って手のひらで触って確かめると背中全体にいびつなうねりがあった。
「どう……したの……これ?」
「ああ、これか」
ユリウスはこともなげに言った。
「前の主人に拷問されたんだよ。嫉妬深い奴で、俺が別の誰かと関係を持ったと疑った。冤罪だったんだけど、奴隷には弁解する機会はないからな。殺されなかっただけマシだけど、体に消せない傷ができたとなっては男娼としての価値はない。それで雑役用の奴隷と一緒に売られていたのさ」
そう言って寝間着をめくり、背中の傷跡をシルビアに見せた。鞭で打たれた跡、火傷の跡、適切な治療をしなかったばかりに醜く癒合した傷跡が背中じゅうに広がっていた。
「そんな……余りにもむごい」
シルビアはその傷跡を指でなぞりながらはらはらと涙をこぼした。際限なく泣けて泣けて仕方なかった。同時に腹の底から怒りの感情が湧いてきた。この怒りは何に対する怒りなのか、今ならわかる。この世のあらゆる理不尽に対する怒り、力なき者から淘汰される摂理への怒りだった。
「おいおい、俺から慰めに来たのに、反対になっちまったじゃねえか」
ユリウスは苦笑した。
シルビアはユリウスにしがみついたまま泣いていた。ただこうするしかできない自分の無力さに打ちのめされていた。ユリウスはそんな彼女を優しく包み込むように抱き返した、彼はこんな穏やかな気持ちになるのは生まれて初めてだった。
「今ここでお前を抱いたところで解決にはならないって分かったよ。だからもう少し待ってくれ。今の俺では無理だ。いつか力を付けて戻ってくる、手遅れになる前に。それまで希望を捨てないでくれ、頼むから」
ユリウスはそう言うと、シルビアにそっと接吻した。触れるか触れないかの優しいキスだった。
「ありがとう。これでもう十分よ。この先何があっても強く生きていけそうな気がする」
シルビアは泣きはらした目でほほ笑んだ。
その後、ユリウスはシルビアが寝付くまでそばにいた。翌朝シルビアが目を覚ますと、彼の姿は屋敷のどこにもなかった。
**********
更に年月が過ぎ、シルビアはランバート伯の三男と婚約をした。シルビアが20歳になるころに式を挙げることまで決まった。シルビアは何の感慨もなく淡々と受け入れた。
相手の男性もまた、シルビア自身に興味を持っている様子は見受けられなかった。彼女自身よりも父や義母と交流する方が多かった。一緒に食事をしても彼女だけ蚊帳の外に置かれることが多かった。
もう一つ気になることがあった。婚約をしてから家の羽振りがやけによくなったのだ。ある時、老朽化が進んでいた家の全面改修を行うことになり、工事のため一時的に転居したことがあった。さすがに不審に思ったシルビアが父に尋ねても「お前には関係ない」と一蹴されただけだった。
転機は突然やって来た。改修が終わり元の家に戻ってから数週間が経った頃、婚約者が会いに来ていますと使用人から報告を受けた。気の進まなかったシルビアは、ゆっくり身なりを整えて時間稼ぎをして1階の応接室へ向かった。そこで見たのは、義母と婚約者が抱き合っている現場だった。
「シルビア! 音も立てないで来るなんてはしたない子ね! 気持ち悪いじゃないの!」
はしたないのは一体どちらなのか。これにはシルビアもさすがにあきれ果てて声を上げた。
「これはどういうことですか? すぐに父に報告します。式も間近なのに信じられません!」
シルビアはそう言うと父の部屋へ行こうとしたが、婚約者に腕をつかまれた。
「この結婚は双方の家にとって利益があるんだ。今更中止なんてできないんだよ」
「何言ってるの? 私はどうでもいいの!? 貴族である以上、結婚が家同士の契約だというのは分かっていたけど、夫になる人が不実を働いてもそう言えるんですか!?」
そこへ騒ぎを聞いた父が駆け付けた。そしてシルビアのところにまっすぐ進み、平手打ちを食らわせた。
「この方の言う通りだ。今更後戻りはできないんだよ、シルビア」
「なぜ!? お母様と不義を働いていたのに怒らないんですか?」
「マリーもそうせざるを得ない事情があるんだろう。私がふがいないせいだ、彼女は悪くない」
父が何を言っているのか分からなかった。義母の心は明らかに父よりも若いシルビアの婚約者に傾いている。その事実から目を背けたいだけとしか思えなかった。
「分かりました。では私の方から身を引かせていただきます。荷物をまとめてここから出ていきます」
しかし、跡が残るほどの強い力で父に腕をつかまれた。
「聞き分けのない娘だな。もう後戻りはできないと言っただろう。それはお前にとってもだ。どうしても出ていくというのなら出ていけないようにするまでだ」
そう言うと、シルビアを引きずって地下の食料貯蔵庫へと押し込んだ。
「式まであと数日、おとなしくしてろ!」
父は、シルビアが何かを言う隙も与えずがちゃんと鍵をかけた。食料貯蔵庫に頻繁に出入りする者はおらず、数日なら誰にも知られないだろう。扉を強く叩いて大声を上げたが、使用人にも聞こえないようだった。
一体どれだけの時間が経っただろう。シルビアはウトウトしては起きての繰り返しで時間の感覚が分からなくなっていた。昼も夜も区別がないのでだんだんおかしくなりそうだった。式の日まで耐えられるのだろうか。
その時、外が慌ただしくなった。大きい足音と怒声が入り乱れる音が聞こえる。シルビアは何があったのかと扉に耳を近づけた。その時「シルビア! シルビア! 大丈夫か!」と声がした。懐かしさといとしさが一気にこみあげる。あまりに聞き覚えのある声だった。
「ここよ!ここにいるわ!」
シルビアは半狂乱になりながら叫んだ。開錠される音が響き扉が開いた。久しぶりの光が差し込み眩しさで目がくらんだが、彼の姿は見間違えようがなかった。ユリウスは、最後に見た時よりも日焼けして健康的な体つきになっていた。
「よかった……シルビア……無事だった……」
ユリウスは安堵のため息をつきながらそう呟くと、彼女をひしっと抱きしめた。華奢な身体が壊れるんじゃないかと思うほど強く力を込め、いとしい人の名を何度も呼んだ。
「間に合わないんじゃないかと気が気でなかった。もしお前の身に何かあったらと思うと……もう……」
「どうして分かったの?」
シルビアはまだ現実の展開に着いていけなかった。
「ここの使用人からお前が急に姿を消したと報告を受けた。今でもひそかに連絡を取っていたんだ。お前に何かあったらすぐに知らせるようにと。表立って何も言えなかったが、お前の扱いには使用人たちも胸を痛めていた」
「父は? あなたが無事に入ってこれるとは思えないわ」
「クソ親父なら今頃、税務局と警察の追及を受けているよ。あと婚約者もな」
「どういうこと?」
「俺の生活費をシルビアが宝飾品を売ることで賄っていたのは知っていた。親たちは贅沢三昧だったのに。最初は娘をないがしろにしているだけだと思っていたが、それ以外にも金をかけるところと節約するところがアンバランスなのがおかしいと思った。それでこの家の経済状況が悪化しているのではと察した。しばらくの間帳簿をごまかして何とかやりくりしていたが、お前の縁談が決まってから婚約者から援助を受けるようになった。とはいえ、相手もただで援助するわけがない。代わりにお前の母親が残した高価な宝石を譲渡するのが条件だった。しかしその所有権は今でも母親の実家にあって、親父さんはそれを知っていながら話を持ち掛けた。それを告発したってわけ」
「どうしてそんなことまで知っているの?」
「最近家を改装しただろう? そこで内装業者にもぐりこんで父親の書斎を調べさせてもらった。証拠をいくつか拝借して税務局に告発した。向こうも調査するのに時間がかかるからすぐにとはいかなかったけど、何とかギリギリ間に合ってよかった……お前が危険だと聞いてすぐに乗り込むよう頼み込んだんだ」
「そうなの……」
ユリウスがそこまで手を回していたなんて知らなかった。最初から自分の運命を諦めていたはずのユリウスが、数年の間に確実に力をつけていたことがシルビアには信じられなかった。
「嬉しい……あなたは自分で運命を切り開いたのね。私はただ流されるだけだったのに」
「お前が教えてくれた。可能性に賭ければ運命が変わるかもしれないって。俺だけだったら今頃生きていなかったかもしれない。この家を出てから必死で働く場所を探した。奴隷なんてどこも雇ってくれなかったが、数を当たるうち、元奴隷が事業を興して同じ境遇の者を雇っているという話を聞いた。そこへ行って弟子にしてもらうように頼み込んだ。勉強ができるのが仕事にも役立って、今ではそれなりに信用されている。そうだ、苗字ももらったんだ」
ユリウスはそう言うと、一枚の名刺を取り出した。そこには「ユリウス・シンクレア」と書かれていた。
「ユリウス・シンクレア……いい名前ね」
「ああ……ずっとこの時を待っていた。シルビアを守れる強さを身につけたらすぐに迎えに行こうと思っていた……ただ、手遅れになったらと思うと不安でおかしくなりそうだった…………なあ、シルビア・シンクレアになってくれないか?」
「ええ、もちろんよ」
シルビアの目から大粒の涙があふれていたが、今度はうれし涙だった。そして小さな教会で二人だけの式を挙げた。シンクレア夫妻は、おしどり夫婦として近所でも評判となった。そして同じような境遇の奴隷の地位向上のために尽力したと伝えられている。
最後までお付き合いいただきありがとうございました!作風は違いますが、長編「婚約破棄された令嬢は忘れられた王子に拾われる」、短編第二弾「じゃじゃ馬王女は護衛騎士を振り向かせたい」も投稿しています。よかったらそちらもお願いします。