第九十四話 のぞむところです。
ゴクリ……。
白亜の屋敷を見上げ、レナさんが喉を鳴らして、手の甲で顎を伝って滴り落ちる汗を拭った。
「覚悟はいいか、突入するぜ。オレが倒れても決して振り返るんじゃねぇぞ、そんときゃぁ、オレの屍を越えていくんだぜ」
「あの……レナさん」
「なんだ、こんな時に!」
「……いや、盛り上がってるところ、ホントに申し訳ないんですけれど」
「だから、なんだ!」
「ご実家……なんですよね、ここ?」
そうなのだ。僕らが立っているのは戦場でも、魔王の城の前でもない。
公爵家本邸のエントランス。乳鋲に飾られた立派な扉の前である。
西クロイデルに到着して二日後の夜。
僕らを乗せた馬車は、西クロイデルの中部、ヒルフェン領の中心都市モリエントへと辿り着いていた。
モリエントは、中央クロイデルの王都にも勝るとも劣らない巨大な都市である。
目指すヒルフェン家の本邸はその北側。中央を貫く大通りを走り抜けると巨大な門、そしてその門をくぐってから、さらに半刻近くも走って、やっと屋敷へと辿り着いたのだ。
あまりにも広大な敷地。その上、辿り着いた屋敷はノイシュバイン城砦よりも更に一回りも大きな白亜のお屋敷であった。
僕らが気後れするのは仕方がないとしても、レナさんがテンパっている意味が分からない。だが、僕の問いかけに彼女はジタバタと足を踏み鳴らした。
「ああ、そうだ! ご実家だ、ご実家だよ、ばかやろー! ここに足を踏み入れるぐらいなら敵陣を単騎で突破しろって言われた方が気が楽なんだよ、こんちくしょー!」
僕とサッキが思わず顔を見合わせると、マグダレナさんが苦笑しながら、レナさんの肩に手を置いた。
「レナ殿、落ち着いてくださいな。ここで慌ててしまっては作戦が台無しですよ。ほら、我が王と腕を組んで、なるべくお淑やかに」
レナさんは僕にゾッコンで、僕の前ではお淑やか。あのレナさんがここまで付き従うのだから、この少年はきっと大物に違いない。
そう思わせて、話を有利に運ぼうというのが、僕らの作戦なのだ。
「う、ううぅ……仕方ねぇな……」
レナさんが渋々僕の右腕に腕を回すと、マグダレナさんが満足げに頷く。そして、彼女は正面の乳鋲で飾られた大きな扉、そのノッカーを手にして音を鳴らした。
カツン、カツンと青銅のノッカーが高い音を立てる。
一瞬の静寂の後、扉の向こう側から、ガチャリと錠の外れる音が響いた。
ゆっくりと重厚な音を立てて開いていく扉。
その向こう側には、白髪交じりの髪を油で撫でつけた初老の執事を中央に、メイドたちが列を成して待ち受けていた。
「お待ちしておりました。レナーダお嬢さま、お久しゅうございます」
「お前は少し前に会っただろうが……キルケ」
この執事はノイシュバイン城砦を訪ねてきた人物である。
レナさんが仏頂面で返すと、執事は恭しく頭を下げた。
「私とはそうでも、お嬢さまがこちらに戻られるのは、実に六年と三十一日ぶりでございますゆえ」
「そんなに帰ってなかったんですか?」
「うっせ、ばかやろー! ぶっ殺すぞ」
僕は思わず苦笑する。作戦はどこへ行ったのだろう。それにしても、レナさんもテンパっているのか、罵詈雑言にもいつものキレがない。
「レナ殿……言葉遣いが乱れておりますよ」
背後から、マグダレナさんが低い声でそう囁くと、レナさんはやけくそ気味に声を上げた。
「うるさいでございますよ。ばかやろうさま、おぶっ殺しになりますわよ、おほほほほ」
いや……レナさん、それはただの頭がおかしい人です。
実際、居並ぶメイドたちの表情にも困惑の色が浮かんでいる。
「あはは、レナさんってば冗談ばっかり、ほんとお茶目なんですから」
僕が白々しくもそう取り繕うと、執事さんが苦笑しながら口を開いた。
「では皆さま、長旅でお疲れかと存じますので、本日はゆっくりと旅の疲れを落としてくださいませ。後ほどお食事のご案内に参ります。尚、旦那様とのご面談は明日の正午を予定しております」
面談は明日と聞いた途端、レナさんがホッと息を漏らすのが聞こえた。
「それでは、お部屋にご案内を……」
執事がメイドたちに指示を出そうとすると、それを遮ってレナさんが口を開く。
「あーちょっと待ってくれ、オレとこいつは、一緒の部屋で」
「何故ですかな? お嬢さまのお部屋は出ていかれた時のそのままにしておりますが……」
「なぜって、野暮なこと聞くんじゃねーよ。俺とこいつは愛し合ってんだぞ、一時だって離れたくねーっての!」
レナさんのその一言にメイドたちが、キャッと声を上げた。
「ちょ、ちょっと、レナさん」
慌てる僕の耳元で、レナさんが小声で囁く。
「しーっ、黙ってろ。あのクソジジイのやることだ。今晩の内にお前の寝首を掻こうって腹かもしれねぇんだからよ」
「まさか……」
だが、レナさんの目は真剣そのもの。冗談で言っている訳ではないらしい。
「そういうことであれば……二階の角の部屋、あそこではいかがでしょう」
「ああそうしてくれ、あそこなら少々声を出したって誰にも迷惑かけねぇしな」
「声を出すって……」
僕が思わず顔を赤くすると、メイドたちが再びキャッと声を上げる。するとレナさんが肘で僕の脇腹をつついて、小声でささやいた。
「うっせ、照れてんじゃねぇよ、バカ。話を合わせやがれ!」
◇ ◇ ◇
案内された部屋は、それはもう豪華な部屋だった。
金枠の飾り窓、壁には高そうな絵画が飾られている、なにより天蓋付きの大きなベッドが部屋の真ん中で、異常なまでの存在感を放っていた。
そんな部屋に女の子と一緒に放り込まれれば、どうやったって緊張せざるを得ない。ましてや、一応婚約者ということになっている訳だし。僕だってそれなりに健康的な年ごろの男子なのだ。こんな状況で迫られたりなんかしたら、流石に、ぼ、僕も理性を保てるかどうか……。
だが、
「ベッドはオレが使うから、お前ソファーな」
「あっはい……」
部屋に荷物を下ろすなりレナさんがそう言った。
ちがうから、残念とか思ってないから。
僕が思わず遠い目をした途端、突然、背後で扉をノックする音が響いた。
レナさんが扉へと鋭い目を向けて身構える。
僕が「はい」と返事をすると扉が開いて、男性が一人、部屋の中へと入ってきた。
それは、糸のように細い目をした四角い顔の男。身をかがめて鴨居をくぐるような大男だ。
その男の姿を目にした途端、レナさんが素っ頓狂な声を上げた。
「うぉ! 兄貴じゃねぇか! なんだよ、兄貴も帰ってきてたのかよ」
「うむ、お前が婚約者を連れて帰ってくるというから、俺も呼び出されてな。扉を開けたら妹と婚約者がいちゃいちゃしてたらどうしようって、兄さんドキドキだぞ」
「んなわけあるかよ」
レナさんがバカバカしいと言わんばかりに肩を竦める。うん、そんな訳はない。ないんだからね。
それはともかく、兄妹の関係は良好な様子。味方になってくれるようなら、それはちょっと心強い気がする。
「しっかし、なんで兄貴まで……」
「その……婚約者殿を見定めて欲しいとお祖父さまがな……師匠も一緒にきておられるぞ」
「あ゛? ジジイは関係ねぇだろうがよ」
途端に不機嫌になるレナさんに、お兄さんが苦笑する。
「そういう訳にはいかんだろう。カストラートとの結婚話を袖にするんだ、師匠の裏書ぐらいはないと、納得せんだろうさ」
「カストラート?」
僕が首を傾げると、お兄さんが説明してくれた。
「カストラートというのは、王家から分かれた名門貴族で我がヒルフェン家とあわせて二公と呼ばれているのだ。レナの結婚相手に上がっていたのは、いずれもカストラートの縁者なのだよ」
「まったく、なんでよりによってカス野郎のとこなんて」
「うむ、クラウリとか言ったか……例の中央の貴族が散々ひっかき回してくれたおかげで、我がヒルフェン家とカストラート家は一触即発。終いには内戦へと発展しかねないという状況にまでなって、国王陛下がお祖父さまに命じられたのだ。なんとかせよと」
「丸投げかよ……」
「まあ、そんなものだ。こじれにこじれた関係を修復しようと思えば、新たな縁を紡ぎ直す必要がある。そこでお前に白羽の矢が立ったというわけだ」
「結局、あのアホ貴族のせいかよ……。で、兄貴、あいさつしにきただけって訳じゃねーんだろ?」
「うむ」
お兄さんは一つ頷くと、僕の方へ向き直る。
そして、言い含めるかのような口調でこう言った。
「婚約者殿、悪いことは言わん。妹のことは諦めろ」
「ちょ、兄貴……」
「このバカ妹のことだ、軽く考えているのだろうが、ここは尚武の国、西クロイデルだぞ。先ほど言ったようにカストラートを納得させようと思えば、相応に強さを求められる。見た所、失礼だが……キミに応えられるとは思えん」
まあ、そうだろう。そりゃ剣の腕なんてからっきしな訳だから。
でも……。
「そういう訳にはいきません」
レナさんと約束したのだ。いまさら尻尾を巻いて逃げることなんて出来る訳がない。
「この国では強さが全てだ。命を……懸けることになるぞ」
やはりこの人はレナさんのお兄さんなのだなと思う。糸のように細い目の奥の眼光は鋭い。だが、僕はそれをまっすぐに見据えてこう言い返した。
「のぞむところです」
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