その3 ロザリンデ・ジズムントの追憶 中編
本編の前日譚その2です。
一部書籍版 準拠の設定があります。ご容赦いただければありがたいです。
あの後のことは正直、よく覚えていません。
気が付けば見知らぬ部屋にいて、私は着替えることすら忘れて、メイド服のままベッドに横たわっていました。
いつの間に到着したのかすら分かりませんが、恐らくここがマルティナさまのお屋敷で間違いないでしょう。
奥様のそばに居ながら我を忘れるなんて、メイド失格……だとは思いますが、今はそんな自分を責める気にもなりません。
ずっと帰ることを夢見ていたあの子のいる家。
それが瓦礫へと姿を変え、男たちが槌を振り下ろすたびに、私の唯一の望みは打ち砕かれていったのです。
「私は一体……何のために」
何とも言えない無力感の中で、私は枕に顔を埋めました。
すぐに思い浮かんだのは、ずっと側にいてくれたメイドの顔。滅多に笑うことはありませんが、笑うと目じりに優しい皺のよる白髪交じりのメイド長――アリョーシャの顔です。
ジズムント公爵家へと連れていかれ、最初に出迎えてくれたのも彼女でした。その優しげな微笑みを向けられて、ホッとしたのを覚えています。
彼女に連れられて、私は父親と対面しました。
ノックして扉を開き、彼女は私の背を押すようにして、その部屋へと足を踏み入れます。
「旦那様、お嬢様をお連れしました」
調度品の並ぶ豪華な部屋、夕暮れ時の赤い陽光が差し込む窓を背に、執務机の向こう側にいた男性がわずかに顔を上げました。
白いひげを蓄えた厳めしいおじさん。そんな印象です。おそらくこの人が私の父――ジズムント公爵なのでしょう。
「ああ、ご苦労」
私の方へちらりと目を向けた後、彼は再び手元の書類へと目を落としました。
「……では、これから別邸へお連れします」
「うむ」
これで終わりです。信じられないかもしれませんが、私が父の姿を目にしたのは後にも先にもこの一度だけ。
以降は別邸に部屋を与えられ、顔を合わせることもありませんでした。
「お嬢様、御父上を恨んではいけません。貴族とはああいうものなのです」
部屋を辞して、廊下へと出た私の肩を抱いたアリョーシャの手が、何かを抑えつけるように微かに震えていたのを覚えています。
それからはジズムント公爵家の子女として、次から次へと家庭教師をあてがわれる毎日。ただただ過ぎて行くばかりの日々の中で、私が唯一心を許せる相手は、専属メイドとなったアリョーシャだけでした。
時が過ぎ、十五となった私が等級Eの『恩寵』を発現したその日の夜。アリョーシャが沈んだ表情で私に告げました。
「公爵さまが、あなたを追い出すようにと……そう仰せです」
当然でしょう。私をここに連れてきた唯一の理由。それは高等級の『恩寵』を発現させる可能性なのです。それが潰えた今となっては私を囲っておく理由などありません。
「そう……じゃあステラブルグに帰っていいのね?」
「残念ですが、それは無理でしょう」
それは薄々分かっていました。
私が貴族の娘だと分かった時の、お世話になっていた商家の旦那様と奥様の表情、あれは恐怖に近いものでした。
この国においては貴族と庶民とでは、その地位に天と地ほども差があります。
庶民にしてみれば、貴族の娘を側におくことで、どんな難癖をつけられるか分かったものではないのですから当然でしょう。
それが、いくら屋敷を放り出された者であったとしてもです。
それにステラブルグまでは、馬車で二日近くかかります。途中、山を越え、森を抜けなければならないのですから、若い娘が独りでたどり着くのは容易なことではありません。
「行くところが……ありませんわね」
私が思わずそう呟くと、アリョーシャが押し殺すような声でこう言いました。
「……旦那様はきっとお怒りになるでしょうが、国王陛下に名乗り出てはいかがでしょう。王妃さまの腹違いの妹なのだと訴えれば、保護してくださるのではないでしょうか」
確かに、数年前に亡くなられた王妃様は、ジズムント公爵家から輿入れしたのだと聞いたことがあります。国王陛下は王妃様をとても愛しておられて、亡くなられた後もずっと操を立てておられるのだとか。
「妖精姫さまはとても聡明な方だと聞いておりますし、半分とはいえ血がつながった叔母を邪険にされることはないでしょう」
ですが、私は静かに首を振りました。
やっとジズムント公爵家の娘という立場から、解放されようというのです。その名に縋って生きるというのは考えられないことでした。
「私は……ステラブルグへ帰ります」
「どうやって?」
「わかりません……けど」
私が唇をかみしめると、アリョーシャは肩を竦めました。
「では、お嬢様……いえ、もうお嬢様ではありませんね。……惨めなロザリンデ。実はこの屋敷で一人、メイドを募集しているのですけれど?」
「メイド?」
「ええ、あなたがこの屋敷を出た後、次のお嬢さまがお越しになるのですけれど……先日メイドが一人お暇を頂戴しましたので、人手がたりません」
私には彼女が何を言っているのかわかりませんでした。思わず首を傾げる私に、彼女はいたずらっぽく笑いかけました。
「メイドとしてここで働きませんか? 出ていくのはメイドとして生きていく術を身に着けてからでも遅くはありません」
これには流石に驚きました。
「そ、そんなことがバレたら、あなたも只ではすまないんじゃ……」
「……バレるとお思いですか?」
確かに父が……いえジズムント公爵がこの別邸を訪れることなんてありえません。それに、もし訪れることがあったとしても、きっと私のことなんて覚えてはいないでしょう。
「……私にメイドが務まるのでしょうか?」
「そうですね……今のままでは無理でしょうね」
「……ですわよね」
実際、この屋敷にきてから料理、洗濯、着替えすらメイドたちの手を煩わせてきたのです。思わず俯く私の頭を、アリョーシャのあたたかな手が撫でました。
「良いですか、惨めなロザリンデ。どんな職業であれ上達するためには『哲学』が必要なのです」
「哲学?」
「ええ、哲学という言い方がしっくりこなければ、心構えでもなんでも結構ですけれど……働くということを、生きていくための労働ではなく、それこそ神聖な儀式のように向かい合うことができれば、必ず上達します。貴族には貴族の心得があるように、私たちメイドにはメイドとしての矜持があります」
「その哲学を教えてくれるということ?」
アリョーシャは静かに首を振りました。
「私が教えられるのは、あくまで技術です。あなた自身がどのようにメイドという職業に向かい合うのかを考え、『哲学』を構築していくのです。そうすれば、やがてそれは道となってあなたを導いてくれることでしょう」
こうしてその夜から、私はメイドとなったのです。
そんな風に物思いに耽っていると、扉をノックする音が響いて、私は慌てて身を起こしました。
「はい」
そう返事をすると、メイド服姿の女性が扉の隙間から顔を覗かせます。
年の頃は私と同じか、少し年下でしょうか。やけに不機嫌そうな顔をした、人を寄せ付けない雰囲気をまとった銀縁眼鏡の女の子です。
彼女は私の方をいかにも不機嫌そうなジトっとした目で見据えました。
「引継ぎしてしまいたいんだけど?」
「あ、はい、すみません」
「……ついてきて」
慌ててベッドから降りて、彼女の後についていくと廊下の途中、彼女は振り向きもせずに問いかけてきました。
「名前」
「え?」
「あなたの名前を聞いてるの、私はコゼット」
「は、はい。ロザリンデです」
「貴族みたいな名前ね。偉そうに」
「あははは……」
とりあえず愛想笑いでごまかします。そんなことを言われても、偉そうにしたくてこんな名を名乗っている訳ではありません。
「呼びにくいから、ロジーって呼ぶわ。かまわないわね」
「ええ、もちろんです」
そして彼女は足を止めると、こちらを振り返ってこう言いました。
「私とレオン坊ちゃまが出発するのは三日後、それまでに全部引き継ぐから、そのすっトロそうな頭でちゃんと覚えてよね、ロジー」