その2 ロザリンデ・ジズムントの追憶 前編
本編の前日譚です。
一部書籍版 準拠の設定があります。ご容赦いただければありがたいです。
カラカラと、軽快な音を立てて車輪が回っています。
朝靄の立ち込める街道。車窓越しに外へと目を向ければ、昇り始めた旭日が山並みを赤くふちどっていくのが見えました。
心の奥底をかき分けて古い記憶をさぐりあて、そこに残っていた微かな風景をその稜線に重ね合わせながら、私は胸の内でこう呟きます。
――ついに、帰ってきたのだ……と。
私たちを乗せた馬車は、既にラッツエル領に入っていました。
ジズムント公爵の別邸を出たのは昨日の昼間。幾度かの休息を挟みながら、夜の街道を走り抜けて西へ。目指す屋敷はステラブルクの街を抜けて、そのさらに西の郊外だと聞いています。だとすればもう、さほど時間はかからないことでしょう。
漣のように寄せては返す湿っぽい感傷を持て余しながら、私は自分の手をじっと見つめます。
私が父親のもとにひきとられたのは七つの時。気が付けば、あれから十年の年月が過ぎていました。
見知らぬ屋敷に連れていかれ、怯えるように自分のスカートの裾を掴んでいた幼い指は、すでに記憶の中の母親の指そっくりに変わっていました。
――一目……一目だけでもあの子に会いたい。
目を閉じれば浮かんでくるのはいつも同じ景色。あの子との出会いは、たぶん私が覚えている中で、一番古い記憶なのだと思います。
それは春の浅い日の風景。
窓の外、柔らかな日差しが石畳に淡い影を落とし、ひだまりで丸まった猫があくびをしていたのを覚えています。
「ロザリンデ、こっちにおいで」
「なぁに?」
私は窓から離れ、部屋の奥、ベッドの脇に立っているママの方へと駆け寄ります。そして、優しく微笑むママの腰にしがみついて、ベッドの上へと目を向けると、一人の女性がゆっくりと身を起こしました。
私たち母子がお世話になっている商家のおくさまです。
「おくさま、だいじょぶ?」
「ええ、大丈夫よ、ロザリンデちゃん。病気じゃないのだし」
おくさまはにこりと微笑むと私を手招きしました。
「ロザリンデちゃんも仲良くしてあげてね」
私が戸惑いながら見上げるとママは目を細めて頷きます。私はベッドのそばに歩み寄って、おくさまの胸元に抱かれた白い布の内側を覗き込みました。
そこには生まれたばかりの赤ちゃんの顔がありました。しわくちゃで、目も鼻も口もお人形さんのように小さな赤ちゃんです。
「おくさまのあかちゃん?」
「ええ、そうよ。わたしとフリッツの赤ちゃん」
おくさまがそう口にするのと同時に、あかちゃんが微かに目を開けました。今にして思えば当然、目など見えているはずもないのですが、じっと私のことを見つめているような、そんな気がしたのを覚えています。
青と緑青の左右違う色の瞳。
(……変なの)
幼心にそう思いましたが、気持ち悪いとは全く思いませんでした。ただ何となく宝石みたいな目だと、そんな風に思ったような覚えがあります。
……あの子も今年で十五。さぞ立派になっていることでしょう。幼い頃とは顔立ちも変わっているとは思いますが、どれだけ変わってしまっても、あの瞳を見間違えることはないはずです。
そんな風に物思いに耽っていると、不意に向かいの席で目を閉じていたご婦人が、「うぅん」と小さな声を漏らしました。
「んぅん……もうお目覚めでしたの……ね、ロザリンデさん」
「はい、おはようございます、マルティナさま」
ふわふわとした眠りの余韻が纏わりついた声音。そのご婦人は、静かに私に微笑みかけました。私の新しい雇い主、ラッツエル男爵の第四婦人――マルティナ・ラッツエルさまです。
ご年齢は四十代だと伺っていますが、肌の張りは若々しく、全く年齢を感じさせません。高く編み上げた金糸の髪に白い肌。それこそ若い時にはどれだけ美しかったのだろうと、本当にそう思います。
彼女は窓の外を見回したかと思うと、「ああ、もうすぐ着きますのね」とそう独り言ちて、私の方へと向き直りました。
「ロザリンデさんもお疲れでしょう? 屋敷に着いたら少しお休みになると良いですわ。お仕事の引継ぎはそのあとでも大丈夫でしょうし……」
「はい、奥さま。それで……その私のお仕事でございますけれど、それについては奥さまから直接伺うようにと、メイド長さまからそういわれておるのですが……」
「ええ、彼女にもあまり詳しいお話をする訳にはいきませんでしたから、優秀なメイドを一人ご紹介いただきたいと、ただそれだけをお願いしましたの」
メイド長のアリョーシャから、ラッツエル男爵家でメイドを募集しているというお話をいただいた時、私は一も二もなく飛びつきました。
私はあるかどうかも分からないこの機会をずっと待っていたのです。それが分かっているからこそ、アリョーシャは私にこの話を持ち掛けてきたのでしょう。
ですが、『彼女にもあまり詳しいお話をする訳にはいきませんでした』、その言葉は私に警戒心を抱かせるのには十分過ぎました。
ですが、それを表情に出すことはありません。感情を殺し、表情を崩さないこと、それは私がメイドになってからの二年の間、ずっと心がけてきたことです。
「ロザリンデさん。あなたにはワタクシの新しい息子の世話をお願いしたいの」
「新しいご子息……ですか?」
新しい息子とは、何ともおかしな言い回しです。
「ええ、この度私の子として養子を迎えることになっているのですけれど、専属メイドとしてその子の世話をお願いしたいのです」
「かしこまりました」
貴族にとって養子を迎えるというのは、別段珍しいことではありません。婚礼のための箔付けのために名ばかりの養子縁組など日常茶飯事ですらあります。
ただ……わざわざ優秀なメイドとして名のあるアリョーシャに、人選を頼むからには名ばかりの養子縁組という訳ではなさそうです。
「その……養子に入られる方は、どんな方なのでしょう?」
「ごめんなさい。ワタクシもまだ会ったことはありませんの。今はステラブルグの本邸に滞在していますけれど、数日のうちに私の屋敷へ移ってくることになっています。ただ……主人が直接目をつけたということですから、おそらく『恩寵』の素質があるのでしょう」
「素質?」
これもまたおかしな話です。素質も何も、『恩寵』の等級は発現してみなければわからないというのは一般常識なのですから。
私が首を傾げると、奥さまは真剣な表情で私を見据え、そして何かを決意するような表情でこう仰られました。
「ロザリンデさん、主人は……ラッツエル男爵はとても恐ろしい人です。目的のためなら手段を択ばない、そんな人なのです。新しい息子、その子は事故で両親を失って天涯孤独の身。それを哀れんだ主人が引き取ったのだと、そう伺っていますけれど……事実はきっと逆」
「逆?」
「主人がそう仕向けたのです。その少年を手に入れるために」
「まさか」
それは少し荒唐無稽に過ぎる気がいたします。その少年を養子にするために、貴族が庶民を陥れて殺したのだと。そこまでの価値がその少年にあるということなのでしょうか。
私が疑わしげな目を向けていることに気付いたのでしょうか。奥さまは小さく息を吐くと、声を潜めてこう仰いました。
「……ワタクシは庶民の出です。小さな鍛冶屋を営む前の主人を事故で失い、小さな子供を抱えて途方にくれているところに、手を差し伸べてきたのがラッツエル男爵――主人なのです。あの時にはなんと善い方なのだろうと、心から神に感謝しました。ですが……」
マルティナさまは小さく唇を噛んで、俯いてしまわれました。
つまり、マルティナさまを手に入れるために、男爵は前のご主人を殺したのだと、それを知ってしまったのだと、そう仰っているのでしょう。
私は胸の内で大きくため息を吐きました。どうやら相当厄介なことに巻き込まれてしまったようです。
とはいえ、最初からラッツエル男爵家に長居する気など毛頭ありません。ラッツエル領に戻ってくることだけが私の目的だったのですから、適当なところで暇を乞い、あの子のところへ戻れればそれでよいのです。
「その子……ワタクシの息子ということになりますけれど、たぶんワタクシは愛情を注ぐことはできないでしょう。表面を取り繕うことはできますが、長く接すれば接するほどに、なぜそこにいるのが本当のわが子ではないのかと憎んでしまうことでしょう。ですから、無理を承知で申しますけれど、あなたが守ってあげてください。そのかわいそうな少年に愛情を注いであげてほしいのです」
……無茶を仰る。
私はそう思いました。それに「なぜそこにいるのが本当のわが子ではないのか」とはどういう意味なのでしょう? なにもかもがきな臭く、正直どう返事をすればよいのかわかりませんでした。
そうこうしているうちに、馬車はステラブルクの門をくぐり、街中へと入っていきました。私は車窓から外を眺め、淡い記憶の中の風景と照らし合わせます。
古くなった家屋を取り壊しているのでしょう。崩れ残った壁を男たちが大槌を手に叩き崩しているのが見えました。
こうやって街中の風景は変わっていくのでしょう。ですが、変わっていないものも幾つかありました。
あの宿屋はまだあるのだ……とか、あの家に住んでいた娘とは、よく一緒に遊んだものだとか、そして記憶を追っているうちに私はハタと気が付きました。
今、男たちが取り壊していたあの家屋。
あれこそが私がずっと帰ることを夢見ていた……あの子のいた家なのだと。
お読みいただいてありがとうございます。
この短編は三話構成になる予定です。
この反転の創造主の背景となるお話を、ここできちんと書いておこうと思います。
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