第八十六話 逆転、逆転、また逆転 前編
大変遅くなりました。すみません!
「で、気が付けば動かせるようになっていたと……そういう訳ですの」
装甲の向こう側から聞こえてくるエルフリーデ・ラッツエルの苦笑するような声音に、私は、私たち二人の身体を抱きかかえている巨大な甲冑を見上げました。
今の話から推測するならば、この甲冑はリンツさまが生命を吹き込んだ『奥の手』ということなのでしょう。
それなら、なんで私ではなく彼女に……というモヤっとした想いと、自分ではなくて良かった……というホッとしたような気持ちが同時に湧き上がってきて、私は、自分が今どんな顔をしているのか、ちょっと想像がつかなくなっていました。
それにしても……気になることがあります。
私は、ひとまとめにして抱きかかえられているロジーに、こっそりとささやきかけました。
「全裸甲冑というのは……もしかして、その……リンツさまのご趣味なのでしょうか?」
「坊ちゃまもお年頃ですから……可能性がないとはいえません」
「…………」
「姫さま、何を考えておられるのかは大体想像がつきますが、そこは頑張るところではありませんから」
「でも……じゃ、じゃあ一緒に」
「巻き込まないでください。あんなのは痴女フリーデだけで十分です」
ロジーが呆れ混じりにそう口にすると、途端に甲冑が足をじたばたさせました。
「痴女フリーデはひどくありませんか!?」
「おだまりなさい、エロフリーデ。どこの馬の骨ともわからぬような甲冑に肌を許すなど、痴女以外のなにものでもありません」
≪馬の骨っていわれても、ワイ、骨ないしなぁ≫
甲冑が気の抜けた声を漏らすと、エルフリーデがヒステリックに喚き散らしました。
「アナタも変なちゃちゃをいれないでくださいまし!」
傍から見ている分には、甲冑が独りで言い争っているかのように見えます。
そんな緊張感のないやり取りをしている間に、どこか遠くの方から「にゃぁあああああ!」という悲鳴のような声が微かに聞こえてきました。
いけません。あまりにも頭のおかしい代物が出現したせいで、完全に失念していました。
大男が走っていった方向は、コフィちゃんたちが逃げたまさにその方向です。
私は甲冑を見上げて声を上げます。
「エルフリーデ・ラッツエル! 急いでくださいまし!」
「ええ、追いかけますわよ! メタルフリーデ!」
エルフリーデ・ラッツエルがそう応えたというのに、なぜか甲冑は器用に肩を竦めました。
≪そう言うたかてなぁ……ほら、頭つかえとるやろ?≫
確かに、廊下の天井はさほど高い訳ではありません。片膝立ちのこの姿勢でも頭がつかえているのです。これでは立ち上がって走ることもできません。
「何とかなさいな!」
≪ええぇ……無茶苦茶や。ホンマ人使い……もとい生体甲冑使いの荒いお嬢やでぇ……≫
ため息交じりに再び器用に肩を竦めると、≪よっこらせ!≫と、おっさん臭い掛け声を吐き出して、甲冑は――
――正座しました。
なんで? と私とロジーが首を傾げたのとほぼ同時に、エルフリーデ・ラッツエルが金切り声を上げます。
「何を落ち着いてますの! このポンコツ!」
≪まあ、まあ、お嬢、ほないくで………………む、むむむぅ≫
エルフリーデの非難の声を適当に受け流して、甲冑が唸り始めます。
途端に、『ガコン!』という音がしたかと思うと、甲冑の足首と膝の辺りの装甲が開いて、中から車輪が飛び出しました。
「な!?」
「はぁ?」
「え……?」
三者三様の間の抜けた声が響く中を、車輪がギュルギュルと音を立てて回転し始めます。そして――
≪ほな、いくでぇえ!≫
その一声とともに、甲冑は正座の姿勢のまま、すさまじい勢いで廊下を滑走し始めました。
「きゃぁあ―――――!」
「ひっ!」
迫りくる壁面、狭い廊下です。体感速度はひらけた所を走る時の比ではありません。
私は思わず悲鳴をあげ、ロジーは目を見開いてのけぞったまま硬直しています。一瞬にして廊下の突き当りにたどり着くと、後輪を滑らせて回頭、甲冑はガタガタと音を立てて、階段を下り始めました。
「あわっ、わ、わわ……」
上下左右へと身体を揺さぶられ、私とロジーは必死に互いの身体を抱き寄せます。そんな私たちをよそに、エルフリーデ・ラッツエルが甲冑に問いかけました。
「コフィさまの声が聞こえた場所は分かりますの?」
≪バッチリでっせ、ポイントはN105E452F1でおま!≫
「ぜんっぜん、分かりませんわよ! 良いですわ! とにかくそこへ向かってちょうだい!」
≪がってんでさぁ≫
一階にたどり着くと、甲冑は迷うことなく右へと曲がりました。そして、
「居ましたわ!」
エルフリーデ・ラッツエルの声が響いて、正面の方へと目を向けると、廊下の奥にぐったりとしたミュリエ・ボルツを、その小さな身体で抱きかかえているコフィちゃんの姿。そして、そのすぐそばには、ナイフ片手に彼女たちへと迫る砂猫族の男の姿が見えました。
ですが、
「え?」
私の口をついて、疑問符付きの声が零れ落ちます。
その男は、どう見ても先ほどの大男ではありません。
砂猫族にしてはめずらしくローブのようなものを羽織った細身の男です。頬のこけた病的に青白い顔をした、いかにも陰険そうな雰囲気の男でした。
混乱する私をよそに、エルフリーデ・ラッツエルが声を上げます。
「コフィさまを傷つけてはいけませんよ!」
≪了解でおま!≫
甲冑はさらに速度を上げると、拳を振り上げて砂猫族とコフィちゃんたちの方へと突っ込んでいきます。
けたたましい車輪の音に、男が気づかないはずなどありません。
「ななっ!?」
男は、跳ねるようにこちらへ向き直ると顔を引きつらせ、慌てて宙を掻くような素振りを見せました。ですが、その時にはすでに甲冑の巨大な拳は男の鼻先にまで迫っています。
「にゃ!? ダメにゃぁあああああ!」
コフィちゃんが大きく目を見開くのが見えました。
彼女の切羽詰まった声をかき消すように、ガツン! という衝突音。それに、水気を帯びたグシャッ!と潰れるような音が混じりあって響き渡ります。
甲冑の巨大な拳が男の顔面を捉えたのです。吹っ飛ばされた男は、コフィちゃんたちの脇をすり抜け、その背後の壁に叩きつけられました。
同時に、逆回転する車輪が石畳の床を抉る、女性の悲鳴のようなけたたましい音が響き渡って、甲冑はコフィちゃんたちとの間に、わずか拳二つ分ほどの隙間を残して停止しました。
「にゃ……ぁあ」
ぽかんとあっけにとられたような顔をしたコフィちゃんが、その場にへなへなと崩れ落ちるのが見えました。
「エルフリーデ・ラッツエル! 下ろしてくださいまし」
「あ、はい」
私とロジーは甲冑の腕を振りほどくように床に降り立つと、コフィちゃんの方へと駆け寄りました。
「大丈夫ですか? けがはありませんか?」
私がそう声をかけると、コフィちゃんは「う、ううっ……にゃぁあ……」と泣きながら、私の首へと抱きついてきました。
「ああ、かわいそうに。もう大丈夫ですからね」
私はぎゅっと彼女の小さな身体を抱きしめます。
不謹慎といえば不謹慎なのですが、この時、私は感動に打ち震えておりました。
天国のお母さま、ついでにお父さま。ついに、このかわいい女の子に懐いてもらうことができました……。私、幸せです。
ですが、
「姫様……お顔が緩んでおられますよ」
と、ロジーがじとっとした目で私を見下ろして、この甘美なひと時を邪魔します。
「そ、そんなことありませんわよ」
思わず頬を膨らませながら顔を上げると、コフィちゃんの背後の壁に、塗料を投げつけたような赤い染み。そこに張り付いていた男の身体が、ズルズルと床の上へと崩れ落ちていくのが目に飛び込んできました。
顔は既に原型も分からないぐらいに潰れていましたが、身体はピクピクと痙攣しています。辛うじて生きている。そんな有様ですが、むしろ即死でなかったのが不思議なぐらいです。やはり、こんなひょろっとした殿方でも、砂猫族は人間より頑丈なのかもしれません。
「もう大丈夫ですわ、コフィちゃん」
あらためて私がそう声をかけると、彼女は静かに顔を上げました。
「大丈夫じゃないにゃ。ダメって言ったのに……オモンディを攻撃したら……」
彼女がそう口にしたのと同時に、私たちの背後で何かが軋むような音が響き渡りました。
慌てて振り向くと、生体甲冑の頭部から胸の辺りにかけて、何かに握りつぶされるかのように、ギリギリと音を立ててひしゃげていくのが見えました。
「な!?」
思わず言葉を失う私たちの目の前で、甲冑の胸のあたりの装甲がはじけ飛びました。そして、顔面に大きな亀裂が走ったかと思うと、その亀裂の向こう側に、目を丸くするエルフリーデの顔がのぞきました。
「な、なに!? どうしたのです!?」
私が狼狽えるのとほぼ同時に、生体甲冑の目に灯っていた赤い光が消え失せて、その巨大な身体が背後へと倒れこんでいくのが見えました。
重々しい響きとともに石畳の床へと倒れこむ生体甲冑。その巨体が舞いあげた埃の向こう側に、誰かがこちらへと歩いてくるのが見えました。
ひげで毛むくじゃらの凶悪な顔に、ひと際大きな猫耳。あの大男です。
大男は、天井につるされたカンテラの薄明かりの下で、こちらを眺めながらニヤリと笑いました。
「はははっ、そいつは実にくだらん男だが、こういう使い道もあるってことだ」