第八話 脱出
出口までの距離は、わずか百シュリット(約七十メートル)。
本気で走れば、数秒で到達する距離だ。
だが、そのわずかな距離が、今は恐ろしく遠い。
衛兵達はフロアにひしめき合い、僕らの行く手を阻むべく、剣と槍を掲げている。
茶色の革鎧と鈍色の甲冑が入り乱れた人の海。華やかなドレスに取って代わって、フロアを埋め尽くすその武骨な人波の中に、二頭の大理石の獅子が突っ込んでいく。
「怯むな!」
「うわっ! わわ! こっちにく、来るなぁ!!」
けたたましい悲鳴と怒号。鉄と石がぶつかり合う硬質な音。それらが、渾然一体となって響き渡る。
獅子たちが突っ込んだ一角は、逃げようとする者と、勇ましく前へ出ようとする者が入り乱れて、混乱しているように見えた。
衛兵の肩口に牙を突き立てた獅子は、その身体を大きく振り回し、突っ込んでくる別の衛兵達の方へと投げ捨てる。
そして、嘶く様にその身を起こすと、両腕の爪を振るって、襲い掛かって来た別の衛兵を弾き飛ばした。
獅子狩りの現場かと見紛う風景の中、
グルォオオオオオオ----!!
倒れ込んだ衛兵を踏みつけて、獅子が咆哮を上げると、怯えた衛兵達が、引き潮の如くに後ずさっていく。
それこそ海が割れるかのように、道が開けて行くのが見えた。
僕達は、獅子が切り拓いた道を駆け始めた。
僕は衛兵が手落とした剣を拾い上げる。もちろん、そんなものは気休めでしかない。
そもそも僕には、まともな剣術の心得など無いのだ。
ラッツエル家に養子に入ってからの半年、貴族の嗜みとして一応、剣術の指南を受けはしたが、そんな儀礼的な剣術がこの荒々しい戦いの中で、役に立つとは思えなかった。
ちらりと背後へと目を向ければ、僕のすぐ後ろをロジーさん。少し遅れて、エルフリーデの手を曳くディートリンデ姫。その二人を追い立てるように、レナさんが最後尾を走っている。
獅子たちは、僕達の周囲を駆けまわりながら、襲い掛かってくる兵士達を次々に打ち倒していく。
――これは……意外とあっさり脱出できるんじゃないか?
そんな思いが脳裏をかすめたその時、
「リィィィンツ!!」
僕の名前を叫びながら、ゴトフリートさんが獅子の間をすり抜けて、こちらへと斬りかかってきた。
「くっ!!」
僕は咄嗟に手にした剣を掲げる。
甲高い金属音が響き渡って、肩が悲鳴を上げる。恐ろしいほどの衝撃に弾き飛ばされて、僕はフロアの上に転がった。
「坊ちゃま!!」
「ッ……来ちゃダメです!」
慌てて駆け寄ろうとするロジーさんを制して、僕は身を起こす。剣は真っ二つに折れ、手はじんじんと痺れている。
「なんて、馬鹿力ですか……」
「ははッ、伊達に守備隊長を名乗っている訳ではないぞ。どうした、もう終わりか?」
まともにやり合って、僕がどうこうできる相手じゃない。
自分一人なら、脇をすり抜けて逃げることも出来るかもしれないが、女の子四人が一緒なのだ。そういう訳にはいかない。
剣士には剣士の戦い方がある。ならば恩寵所持者には、恩寵所持者の戦い方がある。
同じ舞台に立つ必要などないのだ。
僕は、再び剣を振り上げるゴトフリードさんを見据えて、フロアに指を這わせる。
『生命の樹!』
途端に、
グルォオオオオオオ----!!
下から上へと振り上げる僕の手の動きに合わせて、大理石の床から、三匹目の獅子が咆哮を上げながら飛び出す。そして、獅子は凄まじい勢いで、ゴトフリートさんへと飛び掛かった。
だが、ゴドフリートさんに怯む様子はない。
彼は大上段に剣を掲げると、飛び掛かってくる獅子の頭部に正面から剣を叩きつける。
硬い物がぶつかり合う鈍い音が響き渡り、獅子の頭部に大きなひび割れが走るのが見えた。
実際、大理石は見た目に反して、脆く割れやすいのだ。
真っ二つに割れた獅子は、勢いのままにゴドフリートさんの左右で粉々になって飛び散った。
「ひっ!?」
背後でエルフリーデが悲鳴を喉に詰めるのが聞こえた。なぜかそれが神経に障る。
――大人しくしてろ!
僕は胸の内でそう毒づきながら、一気に駆け出す。
獅子は砕け散った。だが、それは囮。この間に、僕は剣を振り下ろした直後のゴドフリートさんのすぐ傍まで迫っていた。
僕は必死に指先を伸ばして、ゴトフリードさんの甲冑に触れる。
そして、
『生命の樹!』
再び、『恩寵』を発動させた。
途端に、命を吹き込まれた鉄の甲冑が暴れ出す。
「なにっ!?」
それは、柔らかい粘土のように形を変え、大きく捩じれて、最後にはゴドフリードさんの身体を、鎖の様に拘束した。
「バ、バカな! くっ! リンツ! この卑怯者ぉおおおお!」
「正々堂々と戦って勝てるなら、そうするんですけどね」
僕が苦笑すると、背後から姫様が歩み寄ってくるのが見えた。
姫様は横倒しに倒れこんだゴドフリードさんを見下ろしながら佇み、そして、静かに口を開いた。
「ゴドフリート。……私は必ずここへ戻ってきます」
「王の仇を取りたいのならば、今をおいて他にありませんぞ」
「勘違いなさらないでください。お父様のことで、あなたを恨んでいないと言えば嘘になります。ですが……次に私がここへ戻ってくる時には、あなた達を救う為に戻ってくることになるでしょう」
「戯言を……」
--どういう意味だろう?
僕は、姫様のその不可解な言葉が気になった。
だが、姫様に問いかけようとするより先に、ロジーさんが僕の傍へと歩み寄ってきた。
「坊ちゃま。お見事です。もう恩寵を完璧に使いこなしていらっしゃいます。流石は私の坊ちゃまです!」
「そんなことありませんよ。おっかなびっくり使ってる感じですって。どこで限界がくるか、まだわかりませんし……」
実際、『恩寵』は無限に使える訳では無い。使えば使うほどに疲労し、そして限度を超えて使えば昏倒。悪くすれば頓死することだって有り得るのだ。
だが、今のところ、わずかな疲労を感じる程度。まだ問題はない。
とはいえ、いつまでもこうしている訳にはいかない。
二頭の獅子は僕らの周囲を回りながら、衛兵達を威嚇し、遠ざけてくれている。
その二頭にしても、既にあちこち砕けてしまっているのだ。そう長くはもたないだろう。
「急ぎましょう!」
僕が背後を振り返って声をかけると、レナさんが後ろに回り込んだ衛兵達を、鼻歌混じりにあしらっているのが見えた。
衛兵達は必死の形相、一方のレナさんは、どこかのテーブルの上に残っていたのだろう。七面鳥の足を齧りながらである。
考えてみれば、結構な数の衛兵が背後に回り込んで居たはずなのだが、ここまで全く気にならなかった。
「…………うん」
出口まではもう目と鼻の先、僕はとりあえずレナさんのことは気にしない事にして、再び走り始めた。
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