第七十三話 壁ドンの後に待っているのは、だいたい地獄絵図
「我が王、いったい何をなさったのです?」
「何もしてませんよ」
カンテラの明かりの下、テーブルに肘をついたマグダレナさんが、ジトリとした視線を投げかけてきた。
「本当に? じゃあレナ殿は、どうして頭から寝具をかぶって丸まってるのです?」
「知りませんってば……確かにちょっと揶揄いはしましたけれど」
疑わしいものを見るようなマグダレナさんの視線から逃れようと、僕は窓の外へと目を向ける。
外は既に夜の景色。明るい空の色を夜の黒が蝕んで、今はもう、オレンジの線がわずかに地平線の上に横たわっているだけだ。
結局、あれからレナさんは起きてこなかった。
「で、揶揄った……というのは?」
「大したことじゃありません。昨日、酔った勢いで『オレの旦那』って、何度も言ってましたけど、本当に結婚したい訳じゃないんですよね? って、そう聞いただけです」
途端に、マグダレナさんのじとりとした視線が、どこか可哀そうな者を見るようなものになった。
「……サッキ殿、感想をどうぞ」
「なんと申していいのか……野暮ですよね、陛下は」
マグダレナさんの隣で、髪から垂れ下がった青布の端をいじくりながら話を聞いていたサッキが、苦笑しながらそう言った。
「我が王は時々、おそろしく無神経なことを言い出しますから。まったく……これではディートリンデも苦労するはずです」
「まあ、マグダレナさま、陛下はさほど女性とのおつきあいの経験がある訳でもないようですし……女性への接し方のなんたるかが、分かっておられないのですよ」
ちょっと待って! エルフリーデに股間を蹴り上げられてた人に、それを言われるのはすごく抵抗を感じるんだけど?
「それにしても……我が王に煽られた程度で凹むとは、剣聖の弟子も随分お可愛いことですね。童貞の戯言と笑い飛ばせば良いものを」
「どう……!? 言い過ぎじゃありません!?」
思わず声を上げる僕を全く無視して、マグダレナさんはサッキへと語りかける。
「でも……これは良い傾向かもしれませんね、サッキ殿」
「丸く収めるという意味ではですけどね、マグダレナさま」
二人は同時にいやらしく口元を歪めて笑い合った。
……何を考えているのかはよくわからないけれど、きっと禄でもないことに違いない。
まったくもって、嫌な予感しかしない。
「というわけで……」
マグダレナさんは僕の鼻先にビシッ! と、指を突きつけてこう言い放った。
「我が王、レナ殿を口説き落としてください!」
「はぁあぁぁぁぁぁぁっ!?」
「レナ殿は、全く恋愛に興味のない手合い、もしくは同性が恋愛対象の方かと思っていたのですけどね。そうでないと分かればこっちのものです」
どっちのものですかっ!?
「我が王も偽装結婚などという、人を騙すような行為は気が進まないと、そう仰られていたではありませんか」
「いや、たしかに言いましたけど……」
「ならば、いっそのこと事実にしてしまえば良いのです。ガチの嫁取りにしてしまえば、だれも後ろめたさを感じる必要はありません。みんなニコニコです」
またこの人は……無茶苦茶言い始めた。
ただでさえ、姫さまとロジーさんのことでも、いっぱいいっぱいなのに、この上レナさんまで加わったら、それはもう地獄絵図としか言いようがない。
いや、それ以前の問題だ。
あの人を口説き落とすなんて、どう考えても無理!
ボコボコにされる未来しか見えない。
僕が、こめかみに鈍い痛みを感じてうなだれると、サッキがやけに楽しげに口を開いた。
「アタシの経験じゃあ、ああいう気の強いタイプの女ってのは、とにかく攻められなれてないんです。だから、逆に攻められると弱いもんですぜ」
くっそー、完全に他人事だと思って楽しんでるだろ。
僕の恨みがましい視線をものともせずに、サッキはまるでなにかとても大事な事でも語るかのように声を潜めた。
「いいじゃないですか、ああいう手合いは情が深い。たぶん尽くすタイプですぜ、陛下」
「尽くすタイプって……それなら、ロジーさんだってそうでしょうが」
僕の専属メイドになってから、これまでずっと支えてくれたのはロジーさんなのだ。
だが、僕のその一言に、マグダレナさんは、「はあ?」と呆れたような声を漏らした。
「人を見る目がないというのは、少し問題がありますね、我が王」
「ど、どういう意味ですか」
「ロジー、アレは尽くしてる風を装って束縛するタイプです。貞淑な妻と亭主喰う妻ぐらい、似て非なるものだと言ってよいでしょう」
なんですか、亭主喰う妻って……。
だが、そう言われてみれば、なんとなくそういう気もしてくる。
ロジーさんはなにせ頑固なのだ。
こうと決めたら僕が何を言おうと、絶対にいうことを聞いてくれない。
思わずたじろぐ僕。そして、マグダレナさんはそれを見逃さなかった。
彼女はやおらに席を立つと、ここが攻め時とばかりに僕のそばまで歩み寄り、鼻先に顔を突きつけて、こう言ったのだ。
「王として国のことを思うのなら、レナ殿を口説き落とすのです、我が王。それが一番丸く収まるのですよ。ふふっ……心配はいりません。強気にいけば良いのです。こう、壁際においつめて、ドン! そして一言、「逃がさないぜ」って……ね」
◇ ◇ ◇
顔のすぐ横についた手が壁を叩いて、ドンッ! と音を立てました。
「逃がさないのである」
鼻先がこすれるほどに顔を近づけてきたトトスワミが、凶悪な三白眼をぎらつかせて、ワタシの目を覗き込んできます。
頬にあたる生臭い息が気持ち悪くて、どこにも逃げ場なんてないのに、ワタシは必死に後ずさり、ただただ背中を壁へと押し付けるばかりです。
こいつらの目的はコフィお嬢に違いありません。
「お、お嬢がど、どこにいるかなんて、し、知らないから!」
ワタシが声を震わせながらそういうと、それをトトスワミは鼻先で笑いました。
「それはもう、そっちの連中が生きている内に聞いたので、必要ないのである」
トトスワミが背後でゆらゆらと揺れている人影を親指で指し示しました。
それは、人間の衛兵たちです。中にはどことなく見覚えのある人もいます。それが首筋を切り裂かれたり、胸を貫かれたりした血まみれの姿で立ち尽くしているのです。
それがどういう状況なのかは、ワタシにも分かります。
ケケモットの呪言、『歩く死体』です。
死後一日以内の死体なら自由に操る事のできる穢れた呪言。この呪言の不気味さゆえに、ケケモットは誰からも忌み嫌われてきたのです。
「こんなにたくさん殺さなくたって……」
「たくさんだと?」
無意識に呟いたその言葉に応えたのはケケモットです。彼はトトスワミの肩越しにワタシを睨みつけてきます。
「なに言ってやがる。これからもっともっと死ぬんだぜ? 呪言も使えねぇような耳なしどもじゃ、俺たちの相手にもならねぇ。抵抗するヤツは、全員歩く死体にして、最後はそいつら自身の手で、ココを無茶苦茶にぶっ壊させるのさ。どうだ、楽しいだろ?」
「そんな……酷い」
「お嬢は、今頃ジャミロさまたちに殺されているのである。小生とケケモットは、部族を制圧するのである。ボタは不在ということであるからして、その娘を見せしめに惨たらしく屠るのである。さぁ、ムィ! 居場所を教えるのである!」
ワタシは思わず息を呑みました。だって、そのボタの娘、ギュネは壁を隔てた向こう側にいるのです。
ワタシが黙ったままでいると、トトスワミの背後でケケモットが苛立った声を上げました。
「てめぇ! とっととしゃべりやがれ!」
そして、手にしたこん棒で、ワタシの頭上の壁を殴りつけたのです。
「ひぃい……」
ワタシが思わず悲鳴を漏らしたのとほぼ同時に、あろうことか、背後の壁その換気用の穴からルーリののんびりした声が聞こえてきました。
「ちょっとぉ、ムィ、何さわいでんのよぉ~。ギュネたち今、結構いい雰囲気なんだからぁ静かにしなきゃぁダメだってばぁ~」
途端にトトスワミとケケモットが顔を見合わせました。
……最悪です。
もちろんルーリに悪気がある訳ではありません。
けれど、生き残ることが出来たらぶん殴ってやろうと、そう心に決めました。
「まさか、こんなに近くにいたとは……好都合であるな」
「へへっ、日頃の行いってやつさ、いくぞ、お前ら!」
ケケモットが食堂の入り口の方へと歩き始めると、彼の後に付き従って、衛兵の死体たちが歩き始めます。
どうしよう。どうしよう。
もちろん、ワタシにできることなんて限られています。
でもそんなことをしたら……。
怖い、怖い、怖い、怖い……けれど、なんとかしないと。
部長さまは、いつも民衆のために尽くすのが役人の務めだと仰られていました。雑用係でしかないけれど、ムィは役人なのです。怖がっていてはいけないのです。
ワタシは、大きく息を吐いて……そして、
「ルーリ! ギュネ! 逃げて! トトスワミとケケモットがいる! ジャミロたちが復讐しにきてるよおおおおお!」
声を限りに叫びました。
一瞬、目を見開いたトトスワミは怒りの形相をあらわにして、ケケモットへと大声を上げました。
「このっ! ……ケケモット! 急ぐのである、逃がしちゃならんのである!」
「おうよ!」
ケケモットと歩く死体たちは慌ただしく走り出し、トトスワミは怒りに満ちた三白眼でワタシを見下ろします。
「……聞き分けのない子には、お仕置きが必要であるな」
「ひっ!?」
トトスワミがワタシの腕をつかんだその瞬間、ゴキッ! と鈍い音が響いて、激しい痛みが腕を駆け上がってきました。
「に゛ゃああああああああああっ!!」
見れば、左腕の肘から下があらぬ方向に折れ曲がっています。
「あ゛ぁ゛ァ……」
涙が止まりません。声を出していないと、恐怖と痛みでおかしくなってしまいそうです。
何が起こったのかは分かります。触れるだけで骨を砕く、トトスワミの呪言、『粉骨砕身』です。
「血のつながってるおまえに、こんなことをするのは心が痛むのである。大人しく言うことを聞けば、それなりにやさしくしてやるのであるのに」
あまりの痛みにその場に蹲って動けなくなったワタシの頭上に、トトスワミのどこか神妙な声が降ってきます。恐る恐る顔を上げたワタシに、トトスワミが言い放ちました。
「ともかく、これから逆らう度に一本ずつ骨を砕いていくのである」
「ひっ!?」
自分の顔から血の気が引いていくのを感じたその瞬間、背後から乱暴に扉を蹴破る音が響き渡りました。続いてドタドタという幾人もの足音が通気用の小穴から響いてきます。
流石に逃げ出せるほどの時間は無かったと思います。ギュネ! なんとか、なんとか、逃げて! 胸の内でそう唱えるも、この状況ではどうしようもありません。
ルーリはともかく、ギュネはクワミと一緒に、剣術を習っていたはずなのです。多少は戦えるはずです。でも、食堂に剣はないし、多勢に無勢なのです。
ですが――
「ちっ! 誰も居ねぇじゃねぇか! 逃げられちまったってのか!」
換気用の小穴から響いたのは、ケケモットのいら立ちに満ちた声でした。
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