第七十二話 危機が迫る(いろんな意味で)
エルフリーデ・ラッツエルたちが慌ただしく出て行ってしまうと、部屋の中には呆気に取られたような空気が居座りました。
そんな何とも言えない雰囲気の中で、ロジーは石化した手と、私の顔との間で視線を往復させた末に、いつもと変わらぬ調子でこう言いました。
「とりあえず姫様、腕を切り落としましょうか」
「イヤですわよ!」
真顔で言われたら怖すぎるでしょうが。
思わず身を仰け反らせる私に、彼女は詰め寄るように顔を突きつけてきます。
「大丈夫です。何も心配はいりません。天井のシミを数えている内に済ませますので。それに坊ちゃまが戻って来られたら、ちゃんと再生していただきますから……」
「じゃ、じゃあ、あなたが自分のを切り落とせばいいじゃありませんの!」
「痛いのはイヤですから」
「私だってイヤですわよ!」
「どうしてもですか?」
「どうしてもですわ!」
私がそっぽを向くと、今度は耳元へと囁きかけてきます。
「……今切り落とせば、再生する時に、もう一本お付けしますけど」
「そっちの方が怖いですわよ!!」
実際、リンツさまの恩寵なら、もう一本腕を生やすぐらいのことは、普通に出来そうですから、シャレになりません。
「まあ、冗談はそれぐらいにして」
「冗談……なのですよね?」
彼女はあまりにも表情が乏し過ぎて、冗談と本気の区別がつきにくいのです。
「ともかく、ミュリエさまの身柄を確保すべきでしょう」
「まあ、そうですわね。いずれにせよ、夜になれば自分の部屋に戻るでしょうから、それを待てば……」
「とんでもありません。なにを悠長なことを。そんなことですから、坊ちゃまにも見限られるのです」
「見限られてませんわよ!」
「良いですか、姫様。このままでは近いうちに大惨事が起こります。いえ、もう破滅の足音がひたひたと近寄ってきているのです」
「そんな大袈裟な」
確かに着替え一つするにしても困るとは思いますけれど、そこまで慌てることとは到底思えません。
「……今朝、ナツメヤシの果汁を使ったジュースを作ったのですけれど」
「急に話が飛びましたわね」
「まあ、聞いてくださいよ」
「それは、まあ……良いですけれど……」
「そのジュースが、ことのほかおいしくて、これは是非坊ちゃまに飲ませて差し上げねばと思ったのですけれど、肝心の坊ちゃまがいらっしゃらない訳です」
「まあ、昨日出発されていますから」
「で、仕方なく自分で飲み干したのです。日持ちしませんので大量に。いわゆるやけ酒ならぬ、やけナツメヤシです」
「あの……ロ、ロジー? それってつまり……その、お花を摘みに行きたくなってきているということですの?」
「いえいえ、そんな差し迫った話ではありません」
私は思わずホッと胸をなでおろします。
ですが――
「登山で言えば、五合目ぐらいです」
「結構登ってるじゃありませんの!?」
思いもよらない差し迫り方でした。
さすがに二人で個室にインするのは御免です。
「と、とにかく、ここにいても仕方がありません。ミュリエ・ボルツを捕まえに参りましょう」
「どちらに?」
「知りませんわよ、そんなこと!」
私は強引に石化したままの手を引いて、部屋を飛び出します。
「ひ、姫様、その、あまり振動を与えないようにしていただけると……」
ロジーの声音にわずかに滲んだ悲壮感からは、この際、あえて目をそらすことにいたしました。
◇ ◇ ◇
「これで完成だ。どうだ、なかなか立派なものだろう?」
大柄な男の人が、床に掘った四角い穴、その上に渡した焼きレンガの板を、コンコンと叩きました。
時刻はすでに夕暮れ時、床の上には窓から差し込む斜光が、オレンジと黒の模様を描き出しています。
ワタシたち砂猫族の居住区、その中央にある食堂の調理場。
そこで、つい今の今まで、床下に掘られた食糧庫に蓋を取り付ける作業が行われていました。
実際に作業をしていたのは大柄な男性、確かレヴォさまと仰ったと思います。それを部長さまとギュネ、ルーリとワタシ――ムィで眺めていたのです。
「段差ができないように少し回りも掘ってある。これなら、つまづくこともないだろう」
「なるほど、これなら床とほとんど区別がつきませんね」
部長さまが満足げに頷くと、ルーリがそっと足を出して、焼きレンガの蓋をつま先でつつきました。
「あの~。これぇ……上に載っちゃっても大丈夫? なのでしょうかぁ?」
「ああ、もちろんだ。上で大暴れでもしない限り、そう簡単に割れたりはしない」
ルーリはその場にしゃがみ込むと、蓋を持ち上げて、穴の中を覗き込みます。彼女はのんびりしている割に、全く物怖じしません。
「あら~、意外とかる~い」
「そうだろう。シモネ殿が考案されたものなのだが、中に細い鋼の棒を幾本も交差するように焼きこんであって、強度を保ちながらかなり薄くなっている。毎日開け閉めするものだからあまり重いと、ご婦人方には厳しいだろうからな」
「これなら、食堂のおばさま方もよろこんでくださると思います」
ギュネが微笑みかけると、レヴォさまは小さく頷いて、部長さまの方へと向き直りました。
「では、パーシュ殿。この案件はこれで完了ということでよいだろうか?」
「はい、レヴォ殿、お疲れ様でした」
「これで、全部終わりですか?」
「はい、ギュネさんも、立ち合いお疲れ様でした。農営部には明日から作物の一部をこちらへ運ぶように指示しておきますので……」
作業は終わり。
……ということは、これからがワタシたちの本番です。
ギュネとワタシは目くばせして、頷きあいました。
「ありがとうございます。ところで……パーシュさま、この後、その……少しお時間をいただくことはできませんか?」
「はい? 一応、今日中に片付けないといけない仕事は、その農営部への指示ぐらいのものですけれど……どういったご用件でしょう?」
「こちらのルーリが、飲食店経営の審査に応募していたのはご存知でしょうか?」
「そうなのですか?」
「はい。ですが……審査に落ちてしまって。ロジーさまが再審査の機会をくださったので、明後日までに改善する必要があるのですけれど、やはり人間の皆さまと私たちでは味覚が違うようですので……。できればパーシュさまに召し上がっていただいて、ご意見をいただきたいのです」
「いや……そうは言われても、私も料理は門外漢なのですが」
「ほかにこういうことをお願いできるほど親しくさせていただいている方もおりませんし、感じたことをそのままお教えいただければ、それでよいのですけれど……ね、ルーリ」
「は~い……メイドさまからは~、味が薄いと言われたのでぇ、濃くしてみたのですけれどぉ、これでぇ大丈夫なのかどうかわからなくてぇ……」
ルーリとギュネが揃って上目遣いに訴えかけると、レヴォさまが微笑みながら、部長さまの肩を叩きました。
「良いではないか、パーシュ殿。市民からの求めに応じるのは役人の務めだ。農営部へは私から伝えておこう。キップリング殿に伝えれば良いのだな?」
「え、ええ、それで大丈夫です」
「じゃ、じゃあ、ワタシは、レヴォさまをお見送りしてきます」
私はそう言って、レヴォさまと一緒に表へと出ます。
ここまでは順調。バッチリ、打ち合わせ通りです。
私はこのまま外へ出て、料理が終わったらルーリもこっそり食堂から抜け出す予定です。そして、ギュネと部長さまを二人きりにする。そういう計画なのです。
レヴォさまは去り際に、「上手くいくと良いな」と笑って仰いました。
まあ、ギュネの態度を見ていれば、大体分かると思います。
気づかない方がおかしいのです。
とはいえ、部長さまは仕事一辺倒の唐変木ですから、仕方がないのかもしれません。
レヴォさまが帰って行かれるのを見届けて、私は調理場の裏手へと回りました。
調理場に窓はありませんが、換気のための小穴がいくつか空いています。
中を覗いてみても、調理中のルーリの姿ぐらいしか見えませんが、ギュネと部長さまが楽しげに談笑している声は聞こえてきました。
うん、良い雰囲気です。
ギュネの声は本当に楽しげで、少し舞い上がっているようにも思えますが、彼女は砂猫族の中でも一番のしっかりものですから、きっと大丈夫なはずです。
ワタシがホッと息を吐いたその時――
誰かが、トントンと指先で肩をつつきました。
「こんな時に……誰……に゛ゃ゛っ!?」
ワタシは思わず大声を上げそうになって、手で口を塞ぎました。
そこに立っていたのは、土にまみれた砂猫族の男でした。
虎のような濃い黄色と黒の斑模様の毛皮に、不吉な三白眼。この凶相を忘れるはずがありません。
あまりの恐ろしさに、膝がガクガクと震えます。ワタシはその場に、へなへなと座り込んでしまいました。
「ト、ト、トトスワミ、な、なんで……」
それは、神様に生き埋めにされて死んだはずのジャミロの一味の一人。ワタシからみれば遠い親戚にあたる人物です。
「なんでとは、ご挨拶であるな、ムィ。お前がちっちゃな時には、よく遊んでやったものであるのに。血のつながった親戚が生きて帰って来たのであるからして、もっと喜ぶべきであるな」
「ひっ……」
思わず、土を足で蹴って後ずさると、食堂の壁が背中に触れました。
トトスワミがニヤニヤと笑うと、彼の背後から誰かが顔をのぞかせます。
「おい、クソガキ。大人しく協力すれば生かしておいてやる。ジャミロさまに逆らった雄どもは皆殺し、逆らう雌も皆殺し。とはいえ、俺たちにも雌は必要だからな」
小柄な体躯に片目の潰れた黒い毛皮の男。ケケモットです。
そして、その背後には十人あまりの人間らしき人影が、夕闇の中にふらふらと揺れていました。
お読みいただいてありがとうございます。
トトスワミって、誰? と思った方は39話をご参照下さい。
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