第五十八話 布信号
「赤ちゃん、とーっても可愛かったですね」
「うん、本当に」
砂猫族の居住区からの帰り道。
興奮気味にはしゃぐ姫さまの姿に、僕も思わず笑顔になる。
「温かくて、小さくて、抱いているとじわっと幸せな気分になって……」
赤ちゃんを抱いている姫さまは、確かに本当に幸せそうだった。
「私も赤ちゃん、欲しくなっちゃいました」
「……えっ」
姫さまのその一言に僕が思わず硬直すると、姫さまが一瞬不思議そうな顔をした。
そして、自分が何を言ったのか気付いたのだろう。ボンっ! と音が聞こえそうなほどに姫さまの顔が一瞬で真っ赤に染まった。
「あ、ち、違うんです、そ、そういう意味じゃなくて、ちがっ、い、イヤという訳ではなくて……」
「う、うん、そ、そうですよね」
あわあわと指で宙を掻く姫さま。僕がうんうんと頷くと、彼女はわざとらしくも話題を変える。無論、僕もツッコんだりしない。流石にそのぐらいの分別はある。
「そ、そういえば、私がリンちゃんを抱きたいと申し上げた時に、砂猫族のお二人がすごく驚かれていたように思えたのですけれど、どうしてなのでしょう?」
「それは……まあ、種族が違う訳ですし」
人間と砂猫族の間には、互いに偏見もあれば、未知の部分もある。
差別することは禁じているので表立っては口にしなくとも、内心、見下したり嫌ったりする者もいることだろう。
それだけに砂猫族たちにとって、姫さまの行動は意外だったのだと思う。
実際、ボタはあの後、こっそり僕に尋ねたものだ。
「もしかして、あの女はあほうなのか?」と。
酷い物言いではあるけれど、それも戸惑いゆえのことだと思えば分からなくもない。
「誰もが、姫さまみたいに偏見なくいられる訳ではありませんから」
「そう……なのですね」
わずかに姫さまの表情に翳が落ちる。
「で、でも、時間は掛かるかもしれませんけど、人間と砂猫族で分け隔てなく一緒に働いて貰っていますから、そのうちきっと、仕事を通じて互いのことを理解し合えると思います」
実際、狩猟部のように砂猫族だけで構成されている部門もあるにはあるのだけれど、建築部や農営部、衣料部や財務部にも、男女数名の砂猫族が配属されている。
『仕事は仲間を作る』というのは、今は亡き実父の言葉だけれど、僕はそれを信じているのだ。
「そうです……よね、きっと」
そこで僕らの会話は途切れ、しばらく無言のままに城砦へと歩いていく。
そして、
「あの……リンツさまは欲しいですか? 赤ちゃん」
上目遣いに意味ありげな視線を向けてくる姫さま、僕はそれを――
「あ、あはは……」
――とりあえず笑ってごまかした。
◇ ◇ ◇
「……ということがあったんだ」
「えー、惚気は他所でお願いします」
「……冷たいじゃないか」
「他にどう言えと仰るんですの? 姫さまにしろ、メイド長さまにしろ、ワタクシはどちらの肩を持つつもりもございませんので」
僕の隣で髪をほどいた、白いビキニ姿のエルフリーデが肩を竦める。
あの後、資材部に少し顔を出してから城砦に戻ったのだけれど、夕食までには時間があったので、エルフリーデにお願いして風呂を用意して貰ったのだ。
ちなみに風呂までついて来ようとした姫さまは、強引にマグダレナさんに押し付けてきた。
「あざとい……という訳ではないと思いますわ」
「それは、僕にだって分かるよ」
狙って僕を誘惑しようとした訳ではないのだろう。政治方面を除けば、姫さまはどちらかと言えば世間知らず。意外と幼いところもある。
もしかしたら、姫さまとロジーさんの諍いの原因もその辺りにあるのかもしれない。
「ねぇ、エルフリーデ。姫さまとロジーさんの間に、どんなやり取りがあったか知ってるの?」
「詳しくは存じませんわ。でも大体の想像はつきますし、姫さまのお人よしっぷりに呆れもしますけれど……。とにかく、ワタクシの口からは申し上げられません」
「……けちんぼ」
「ふふっ、拗ねたフリをされても、ワタクシがきゅん❤とするだけですわよ? もう一つ諍いの種を増やすおつもりですか?」
「それは……勘弁してよ」
僕が溜息を吐くと、エルフリーデがクスクスと笑う。
出会った頃の姫さまは随分、大人っぽくみえたものだけれど、最近ではエルフリーデの方がそれ以上に、大人っぽく見えることがある。
何と言うか……女の子っていうのは、ホントに良く分からない生き物だ。
それはともかく、二人には早く仲直りをしてもらいたい。姫さまとロジーさんのことばかりに気をとられている訳にもいかないし、今日一日のことを思い起こしてみても、課題は山積みなのだ。
――今のところ、困っていることは特にない。
ボタたちはそう言っていたが、砂猫族は元々が荒野で、盛った土の家に住んでいたような一族だ。生活の質ということについての要求度は限りなく低い。
彼らの習俗を尊重しつつ、他の人間と同じくらいには生活の質を上げてやる必要があるだろう。
資材部のシモネさんは、相変わらず焼き煉瓦をつくるために思考錯誤していたけれど、やはり麻のオガラでは火力を維持できないらしい。高温にも耐えられる釜を作れれば、陶磁器だって造れると言っていたし、手に入れるべきはやはり炭だろう。
僕がぼんやり考え込んでいると、エルフリーデがパン! と手を打った。
「そうです、お義兄さま、幾つかお耳に入れたいことが」
「ん? なんだい?」
「衣料部なのですけれど……少し人が余ってしまっているようですの」
エルフリーデ曰く、流入してきた人々の内、女性の多くは衣料部で従業して貰っているのだけれど、そのうち何人もが手持無沙汰になってしまっているのだとか。
その原因は織り機の数。この城砦が修道院だった時代の物を倉庫の奥から引っ張り出して使っているのだけれど、それが四台しかないのだ。
その為、糸を紡ぐ方に多くの人をあてているのだが、布の生産量は著しく低く、糸ばかりが山積みになっているのだという。
「モルドバ様が仰るには、織り機一台につき、一日に作れるのは四シュリット(約三メートル)程度なのだそうです」
四台で十六シュリット(約十二メートル)。それでは、数着の服を作るのが精一杯だろう。その生産量では、とてもではないけれど、寝具を作って砂猫族まで行き渡らせることなんて夢のまた夢だ。
これは中々頭が痛い問題だ。
どこかから織り機を買い付けられさえすれば、解決する問題なのだろうけれど、取り急ぎは商人のサッキが、西クロイデルから戻ってくるのを待つしかなさそうだ。
「とりあえず、明日にでもモルドバさんと話をしてみるよ」
「ええ、お願いします。あ、お義兄さま。人余りとは申しましたけれど、決してサボっているという訳ではありませんわよ。皆さまとても頑張っておられますわ」
僕は思わず苦笑する。
「大丈夫、分かってる」
僕がなんとなく頭を撫でると、彼女は「えへへ……」と照れたようにはにかんだ。
だが、その後すぐに、彼女は湯船に浮かぶ泡沫へと視線を落して、声のトーンを下げる。
「あと……衣料部に、お母さまらしき人物を見かけたという方がいらっしゃいました」
「えっ! マルティナさまを!?」
マルティナさまは、僕らが夜会へと出発した直後に、百合の紋章を描いた馬車が迎えにきて、どこかへ出かけてしまった。庭師のハンスさんはそう言っていた。
無事でいて欲しいとは思っていたけれど、中央のあの状況ではそれは難しいだろうと、半ばあきらめてもいたのだ。
「衣料部に配属された女性の中に、東辺に領地を持つジズモンド公爵家でメイドとして仕えていたという方がいらっしゃったのですけれど、その方がラッツエル男爵夫人を出迎えたと、そう仰られてましたの。考えてみれば、確かに公爵家の紋章は百合です」
「それで、マルティナさまは無事なの?」
「公爵家の方々は東クロイデルに亡命されたそうですので、おそらく行動を共にされておられるのではないかと……」
「東……か」
すぐにでも迎えに行きたいところだけれど、居場所が敵対関係にある東クロイデルでは、流石にそうもいかない。
「お母さまはきっと無事ですわ。ジズモンド公爵さまは東クロイデルの外交窓口を務めてこられた方ですし、東の女王陛下とも懇意でらっしゃると聞いたことがございますもの」
そう言って、エルフリーデはニコリと微笑む。
彼女のその態度は意外な気がした。マルティナさまの屋敷で膝を抱えて泣いていたのがウソのようだ。むしろ僕の方が慌ててしまっている。
「その……エルフリーデは平気なの?」
「……平気ではありませんけれど、お母さまのことは、もう少し情報を集めてから慌てることにいたしますわ。それよりも、もっと気になっていることがありますの。どちらかと言えば、そちらの方が危急の出来事かもしれません」
「なんだい?」
「布ですわ」
「布って……衣料部のことなら、モルドバさんと話をして……」
僕がそう言いかけると、エルフリーデがふるふると首を振る。
「そうじゃありませんの。実は、城砦の左側の棟ですけれど、そこの三階の窓に時々白い布が掛けてあることがありますの」
「白い布?」
「ええ、それほど大きなものではありませんけれど、決まって同じ窓に」
僕は思わず首を傾げる。
「濡れた布巾を干しているだけなんじゃないの?」
「そうかもしれませんけれど……ワタクシには、誰かが誰かに合図を送っているように思えて仕方がありませんの」
「合図? 何のために?」
「それはわかりませんけれど……例えば子爵の私兵たちが反乱をもくろんでいるとか」
思わず僕の表情が硬くなる。それは確かに無いとは言えない。
元々マグダレナさんの部下であった兵士達や、自らここを目指してきた者たちと、成り行きでこの国の民となってしまった子爵の私兵たちを同列に考えるのは難しい。
だが、子爵夫人を追放するにあたって、彼らに「夫人についていきたいものがいればついて言っても良い」と告げたのだが、手を挙げたものは一人としていなかったのだ。もし子爵に忠義立てをするというのであれば、夫人の安全を確保するだろうと思うのだけれど……。
「あとは……可能性ですけれど、砂猫族に裏切り者がいるとか」
「は? 砂猫族?」
砂猫族は僕のことを神様だと、あれだけ持ち上げてくれているのだ。流石にそれは考えにくい。
だが、エルフリーデは真剣な顔をして、僕の顔をじっと見つめた。
「砂猫族の無法者を、お義兄さまは生き埋めにされたとお聞きしておりますけれど、本当に死んだのかどうかはわからないのでしょう? その無法者たちの家族はどうなったのです? 万一、その無法者たちが生きているのなら、それを手引きするものがいても、なにもおかしなことではないと思うのですけれど?」
考えたくはない。考えたくはないことだけれど、僕にはエルフリーデのその言葉を否定することが出来なかった。
僕が思わず言葉を失うのとほぼ同時に、天井から雫が一滴、湯船に滴り落ちて小さな波紋を描き出した。
お読みいただいてありがとうございます!
布と言えば、エルフリーデの着ている水着は麻製ですから、これだけお湯につければ、マイクロビキニサイズに縮んでるんじゃないかと思う今日この頃。……描写はしませんけど。
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