第二話 スープはしょっぱい味がした。
深夜、厩舎の隅。
カンテラの薄明りの下で、僕は水の溜まった桶を覗き込む。
濁った水に映る左右色の違う目が、つまらないものを見る様な目で、僕を見ていた。
――希少ではあります。ですが、等級は最低等級にすら届かぬかもしれません。
あの日、『恩寵』を発現した僕を、鑑定の『恩寵』を持つ貴族が眺めて、そう言った。
言われるまでもない。
『恩寵』を発現すれば、その能力の全貌は脳裏に刻まれる。僕に発現した『恩寵』の名は『生命の小枝』。
――そんな等級はありませんが……。『F』という等級を新たに作った方が良いかもしれませんね。
鑑定の『恩寵』を持つ貴族が、ニヤニヤしながら、嘲笑するような調子で言った言葉が、今でも耳の奥に残っている。
等級F……確かにそうかもしれない。
出来る事と言えば――
僕は水の中に指を突っ込んで『恩寵』を発動する。すると、僕の指先の辺りに、茶色い糸くずのようなものが現れた。
――ボウフラを一日一匹生み出せる。
いや、まったく生み出したいと思わないんだけど……。
役に立たないと言えば、これほど役に立たない『恩寵』も珍しいと思う。
だが、この心底くだらない『恩寵』と引き換えに、再び僕の生活は激変した。
当然のことながら、男爵様は激怒。
婚約どころか、養子縁組も即座に解消され、屋敷を叩き出されかけたところを、マルティナ様が男爵様に頼み込んでくださって、なんとか下男として屋敷に残らせてもらえることになった。
生きていく術も無く、頼る相手も、先立つものもない身としては、マルティナ様の温情には、感謝の言葉も無い。
与えられた仕事は馬の世話と御者。寝床は馬の厩舎の隅。
マルティナ様は、なんとかもう少し良い待遇をと、訴えてくださったらしいけれど、男爵様の顔に泥を塗った僕が、追い出されなかっただけでも、最大限の温情ではないかと思う。
だが、やはり日々の生活は苦しい。
奴隷ではないが、給金は日々の食事代で棒引きされ、一日の休みも無い。そして、それ以上に厳しいのは、他の使用人たちがここぞとばかりに嫌がらせをしてくることだ。
一時のこととはいえ、只の庶民が貴族面して、自分達の上に居たのだ。妬み嫉みは当然あるだろう。
僕の分の食事が無くなっていることもあれば、通りすがりに水をぶっかけられることもある。難癖をつけて殴られることも少なくない。お陰で、いつも体のどこかに痣が出来ている。
「大丈夫……リンツ・ラッツエルから、只のリンツに戻っただけさ」
カンテラの灯りの下、水に映る自分自身にそう話しかける。
両親を事故で失って、どん底に落ちたかと思ったら、幸せの絶頂。そして再びどん底。僅か半年の間に目まぐるしく変わった環境に、もしかしたら麻痺しているのかもしれないが、それほど落ち込んではいない……と思う。
その時、
「坊ちゃま」
背後から声を掛けられて振り向くと、建付けの悪い厩舎の扉、それを音を立てないようにそっと押し開けて、ロジーさんが中へと入って来た。
「どうしたんです? こんな夜更けに」
「坊ちゃま……今夜も夕食を食べ損ねたのでしょう? パンと冷めてしまっていますけど、スープをお持ちしました」
「ロジーさん、僕はもう坊ちゃまじゃありませんってば」
「坊ちゃまは坊ちゃまです」
「でも今はエルフリ……お嬢様の専属なんでしょう? こんなところに来ているのを見つかったら咎められます」
エルフリーデの名前が出た途端、ロジーさんの表情に翳が落ちた。
「使用人たちが坊ちゃまに冷たく当たるのは、お嬢様が指示しておられるからです。もちろん私にも……」
それは、全く意外でも何でもない。
『恩寵』の等級こそが彼女にとっての人間の価値だ。ましてや、初めての口づけを捧げた相手が、最低等級の人間だというのは、エルフリーデにとっては、消し去りたい記憶なのだろう。
「それなら、ますますこんなところに来ちゃダメじゃないですか」
「でも、坊ちゃまは何も悪くありません。こんなのおかしいです!」
「……ありがとう。でも僕のことは気にしないで。関わるとロジーさんにとっても良くないことになると思う。なにせ、僕はエルフリーデの嫌う、最低等級の恩寵所持者だしね」
そう言って僕が精一杯の笑顔を作ると、ロジーさんはいつもどおり表情の乏しい顔を、僕の鼻先にまで近づける。
「な、なに?」
「坊ちゃま、手をお出しください」
表情は変わらないが、ロジーさんの声音は少し怒っているように思えた。
恐る恐る手を差し出すと、彼女がさっと僕の手を取った。
その途端、
「痛っ!」
ピリッと電気のようなものが走って、僕は慌てて手を引っ込める。
「な、なんなの?」
「隠しておりましたが、これが私の『恩寵――微電』です。等級はE。坊ちゃまと同じです」
「『恩寵』!? ……なんで? だって『恩寵』は貴族にしか……」
「だから、同じだと申しております。私はさる貴族の妾腹の子として生まれました。成人を前に、もしかしたら高等級の『恩寵』を発現させるかもしれないと、父親の元に引き取られたのですが、『恩寵』を発現した途端、出て行かねばならなくなりました。当然です。妾腹の子で、等級Eなのですから」
ロジーさんは、自嘲気味に口元を歪める。
「ですが、幸いにも、たまたま父の元を訪れておられたマルティナ様が、私を引き取って、メイドとしてここに置いてくださったのです」
「そう……なんだ」
「ええ。いかがですか? 同じ境遇のものがいると思えば、慰められなくとも、多少気は楽になるものです。ですから……どれだけ辛くとも、坊ちゃまには私がついていることを、お忘れにならないでください」
そう言ってロジーさんは僕を抱き寄せ、そして、帰って行った。
ロジーさんが帰った後、僕は貰ったパンに噛り付いた。
スープは確かに冷めていて、少ししょっぱい味がした。
◇ ◇ ◇
あれから、時は廻って、冬が来た。
僕を巡る状況は、大きくは変わっていない。
周囲の扱いは相変わらず冷たいけれど、嫌がらせを受ける頻度は減って来たような気がする。
もしかしたら、皆もだんだん飽きてきたのかもしれない。
今も時々、ロジーさんが深夜に食べ物を持ってきてくれる。
どうして彼女が、僕にそこまで良くしてくれるのかは分からないけれど、彼女が居なければ、僕の心はとうの昔に折れていたかもしれない。
彼女の話によると、先日、エルフリーデが、等級Aの『恩寵』を発現させたそうだ。
僅かな間であったにしろ、彼女の兄だった身としては、祝福すべきなのだろう。……けれど、胸の内がどうしようもなくもやもやした。たぶん嫉妬しているってことだろう。どうやら僕はどうしようもなく、心が狭いらしい。
だが、僕の胸の内などとは何の関係も無く、ラッツエル男爵家の子女で初めての等級A。これで次期当主は、彼女にほぼ決まりだろう。
エルフリーデと顔を合わせることなど滅多にないが、たまたま出くわしてしまった時には、彼女は必ずと言っていいほど親の仇を見る様な顔をして、『私が当主になった暁には、お母様がなんと仰ろうと、必ず追い出してさしあげますわ』。そう宣言する。
僕がここを追い出されるのも、それほど遠い日のことではないのかもしれない。
まあ、追い出されるのと今と、どっちが辛いかは分からないけど。
そして年が明け、運命の日がやってきた。
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