第十話 まずはお湯を用意します。
僕らを乗せた馬車は、夜通し走り続けた。
そして、昇り始めた太陽が、遠い山並みの稜線を赤くなぞる頃には、既にラッツエル領へと到達していた。
ラッツエル領は王都ブライエンバッハより、南東へ六十マイレン(約九十二キロメートル)。
王都を含む王家直轄領に隣接する、小領地である。
ラッツエル男爵が本邸を構えるステラブルクを中心に、街道の中継地として都会とはいえないまでも、ほどほどに栄えている。
僕らが目指しているマルティナ様の屋敷は、そのステラブルクから、小一時間程外れたところにある。
複数の妻を持つ貴族は、本邸にて共に暮らす正妻を除き、それぞれの妻に屋敷を与えることになっている。
そして、その屋敷の位置は、領主の本邸を中心に、円を描くように一定の距離を取って建てられるのだ。
車窓から見えるのは、既に見慣れた風景。あと十数分もすれば、屋敷へと辿り着く筈だ。
向かいの席では、外した胸甲を足下に放り出したレナさんが、お腹をボリボリと掻きながら、豪快にいびきをかいている。
見た目はそれなりに綺麗なだけに、なんというか……残念な人だ。
一方、姫様は僕の肩にもたれ掛かって、すうすうと寝息を立てていた。
身体がくっつかないようにとか、折角、気を使って座っていたのに、姫様は御構い無しである。
しかし……。
うわ……顔ちっちゃ! 口ちっちゃ! まつ毛長っ!
僕は、一人で興奮していた。
仕方ないじゃないか。
僕だってそれ相応に、女の子の事が気になるお年頃なのだ。
それが今、女の子が僕の肩を枕に眠っているのだ。
しかも、その女の子が、あの妖精姫だと思えば、興奮するなというのが無理な話。
見れば見る程、同じ生き物とは思えない可憐さ。
口を開けば、凛々しく賢いというのに、眠っている時の、このあどけない表情は、もう反則としか言いようが無い。
ほっぺた柔らかそうだなぁ……。
などと、思いながら顔を上げたら、御者席側の小窓から、ロジーさんが表情の無い顔で、じっとこっちを見ていた。
「坊ちゃま、到着いたします。……私としては複雑な想いはございますが、もし、坊ちゃまがお望みでしたら、もうしばらく屋敷の周りを周回いたしますが?」
うん……死にたい。
◇ ◇ ◇
「うっわー、ひでぇな、こりゃ!」
馬車から降りた途端、レナさんが声を上げた。
屋敷にはありありと略奪の後が見える。
窓は悉く割られ、玄関に至っては、扉が黒く焼け落ちていた。
マルティナ様は、大丈夫だろうか……。
僕がそう思った途端、
「お母さまぁああ!!」
エルフリーデがスカートの裾をたくし上げて、屋敷の中へと走っていくのが見えた。
屋敷の中には、まだ略奪に加わった連中がいるかもしれないのだ。心配なのは分かるが、考え無しにも程がある。
「あのバカ! レナさん! ちょっとの間、姫様をお願いします!」
「あいよー」
僕はレナさんに姫様を託すと、ロジーさんと一緒にエルフリーデの後を追った。
◇ ◇ ◇
結局、屋敷にはマルティナ様の姿は無かった。
いや、マルティナ様どころか、猫の子一匹見当たらなかった。
屋敷の中は、略奪の限りを尽くされた後。
金目の物は、壁の装飾に至るまで引っぺがされて、持ち去られているような有様だった。
僕らがエルフリーデを見つけた時には、彼女はボロボロになったマルティナ様の部屋で、膝を抱えて泣きじゃくっていた。
最初は、可哀そうな気がした。
慰めなきゃならない。そんな気がした。
でも、それをすれば、彼女を許すことになってしまいそうで、それはそれで腹立たしい。
しまいには、どうして僕が悩まなきゃいけないんだと、理不尽な腹立ちがこみあげてきて、僕は、
「泣くな! おい! 行くぞ!」
と、エルフリーデを怒鳴りつけ、びくりと身体を跳ねさせる彼女を睨みつけた。
ロジーさんが、それをどう思ったのかは分からない。
彼女は、いつも通りの表情の無い顔で、じっと僕を見ていた。
それから、僕らは姫様とレナさんと合流して、比較的損傷の少なかった使用人の居住棟、その食堂でテーブルを囲んで、これからの事を話すことにした。
四人掛けのテーブルに、僕、ロジーさん、姫様、レナさんが腰を降ろし、エルフリーデは少し離れた隅で、膝を抱えて座り込んでいる。
「しばらく休んで、夜になったら、ここを出発しようと思うんだけど……」
僕がロジーさんにそう問いかけると、
「どちらへ、ですか?」
と、彼女は首を傾げる。
僕は彼女に、南のノイシュバイン城砦まで、姫様を送り届けることを説明した。
彼女は少し何か言いたげな顔をしたが、他に当てもないことは分かっているのだろう。僕の話が途切れると、
「坊ちゃまがお決めになったことならば……」
と、静かに頷いた。
おそらく反乱軍は、王家の生き残りである姫様のことを、血眼になって探す筈だ。
マルティナ様のことは心配だが、無事かどうかも分からなければ、どこを探せばよいのかの手掛かりもない。
実際、ここがこんな状況であれば、ステルブルクの男爵家本邸など絶望的だろう。
そんな状況で、いつまでもここに留まっているのは危険すぎる。
「では、出発まで休息と身支度の時間に充てるということでしたら、皆さま随分、汚れておられますので、取り急ぎ、お湯を用意いたします」
そう言って、ロジーさんが席を立つと、エルフリーデがそっと膝の間から顔を上げた。
お湯という言葉に反応したのだろう。
彼女も血まみれで、酷い恰好をしている。
「……何を見ているのです」
「え、うぁ……ご、ごめんなさい。な、なんでもありません」
ロジーさんの冷たい視線に射すくめられて、エルフリーデが慌てて顔を伏せる。
すると、ロジーさんはつかつかとエルフリーデの傍へと歩み寄った。
そして、
彼女は、怯えて背を壁に押し付ける様に後ずさるエルフリーデを見据えて、口を開いた。
「坊ちゃまに、許していただきたいですか?」
ロジーさんの予想外の言葉に、僕は思わず目を丸くした。
許す筈なんて……。
だが、そんな僕の胸の内を他所に、エルフリーデが、戸惑いながらコクコクと頷く。
「ならば、坊ちゃまのお役に立つことです」
「役に……た……つ?」
「ええ、アナタがいないと困る。坊ちゃまがそう思われるぐらいに」
すると、エルフリーデが、大きく目を見開くのが見えた。
そして、
ロジーさんは、こう言った。
「ですから……まずはお湯を用意するのを手伝いなさい」
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