プロローグ #3
それからしばらくの間、ポスターは無線で送られてくる位置情報を頼りに目的地の村に向かって足を緩めることもなく走り続けた。
雪は風に乗ってひっきりなしに降り注ぎ、ポスターに襲い掛かる。
彼は走りながら、巨影が見えた場所を念頭に入れ、地滑りの状況と合わせて目的地までのルートを再構築していく。
この時ポスターは、巨影という驚異に対して意識を割きすぎてしまっていた。
それは、近くに潜む存在の認識が遅れてしまうことでもあった。
雪の積もった山道を踏み抜くと、ぐにゃりとした嫌な感触が足を伝う。
「おわっ!」思わずポスターが叫ぶ。
直後、雪の中から大きく開かれた口が勢いよく飛び出す。
鋭く研がれた牙。
低い炸裂音。
牙の主は情けない鳴き声をあげ、あっけなく雪の上に転がった。
犬とも狼ともつかないグロテスクな生き物が、辺りに血と肉をまき散らし、ひくひくと体を小刻みに震わせている。ポスターがとっさに放った銃弾は、生き物の頭部を至近距離から撃ち抜き、顔の半分を吹き飛ばしていた。
「これはどうも、焦りすぎたかな…」ポスターが顔をしかめた。
雪を踏む音がひとつ、またひとつと増えていく。
あたりから聞こえてくる唸り声は、この地をうろつくグール達がポスターを完全に捕捉していることを示していた。
「さて、どこから抜けてやろう……」ポスターはその場に立ち止まって耳を澄ます。
もはや視界は完全に吹雪で遮られていた。
グール達の姿は見えないが、こちらの様子を窺うような唸り声が絶えず聞こえてくる。
――数は四。獲物を包囲したグール犬は…。
ポスターが息を静かに吐いた瞬間、真後ろから、先ほど仕留めた生き物と同じ姿の生き物が弾丸のように飛び出した。
肉体の限界を超えて動くグール犬は、腐った皮膚から露出した筋繊維がちぎれようが構いもせず、低い姿勢のまま一直線に目の前の男の脚めがけて飛び掛かる。
ポスターは身を翻し、襲い掛かってきたグール犬の側頭部に勢いよく蹴りを入れた。鉄板で補強された彼の靴のつま先は、やわらかい肉にめり込み、頭蓋骨を割り、歯を砕き、眼球を頭部から押し出した。
ギャッ、という声をあげてグール犬が吹き飛ばされる。
――死角からの一番槍は囮。その反対側からのアタックが本命っ!
蹴り飛ばした相手の様子を確認することもなく、蹴りの勢いのままポスターは再び体を翻すと、グール犬が襲い掛かってきたのとは反対の方向に銃を撃ち込み、銃弾と追うように駆けだした。
「よっ、と!」途中、雪の上に転がるグール犬の死体を飛び越える。
吹雪の中に向かって放った銃弾はグール犬の頭部をしっかりと撃ち抜いていた。
背後からグール犬の吠える声が迫る。
残りの二匹に関して、ポスターは相手にする必要なしと判断し、そのまま走り続けることにした。
◇
一秒ごとに強さを増していく吹雪の中を、ポスターはただひたすら走り続けた。
足跡はすぐ雪に搔き消されてしまう。これがポスター・アクロイドという男でなければ、自分の進んできた道もわからず、すぐに遭難してしまっていただろう。
彼は目的地に向かってまっすぐ進むどころか、グールたちをかく乱するために雪に埋もれた岩の間を縫うように走っていた。
しかし、どこまでも追いかけてくるグールの様子から期待するほどの効果はないようだった。それならば、とポスターは岩の間を縫うのをやめ、目的地までの最短距離を進むことにした。
走り続けると、突然円形に開けた場所に出た。
そこにはポスターが予想だにしなかった景色が広がっていた。
今までの吹雪が嘘だったかのように、その場所に吹く風は穏やかなもので、上を見上げると、星空が見えた。空からは月明りが差し込み、この場所を妖しく照らしている。
辺りを見渡してみると、この場所はとても高い場所までそびえる白い壁に囲まれていることがわかる。
ポスターはそれが雪の壁だろうかとも思ったが、目を凝らして観察するとそれが静かにゆらめいていることがわかった。
「壁じゃない…、あれ全部が吹雪か!?」
吹雪は意志を持ったように流れを歪ませ、山の中に台風の目のように開けた空間を作りだしていた。
目的地の位置を示す無線の信号はだんだんと弱くなり、消えてしまった。
「やられた、か?」ポスターがつぶやく。
グール犬から逃げるために雪の中を駆け、吹雪の作る空間に出る、誘導されたと考えるべきだった。
ポスターが慎重に辺りを窺っていると、吹雪の壁の中から、一匹のグール犬が姿を現した。
獲物を追い詰めた余裕か、ゆったりとした動きでポスターの眼前へと歩み出る。生気をまったく感じさせない、灰色に染まったその瞳はポスターをしっかりと捉えていた。
恐らく、雪の中でもう一匹のグール犬がこちらを見ているのだろうとポスターは察した。
彼は銃を構えながら空間の中心に近づいていく。
グール犬との距離が近くなる。
低く唸る声がはっきりと耳に届いた。
もはや目の前のグール犬から目を離すことができない。
目を離せば、すぐにでもこちらに飛び掛かってくるだろう。
もしそこで倒しても、死角からもう一匹が仕留めに来るはずだ。
「お前たちのその、仲間を増やそうっていう執念には頭が下がるよ、まったく…」
ポスターが困ったように笑う。
グール犬に傷つけられた者は例外なく死亡し、しばらくしてからグールとして動き出すということがわかっていた。
グールとして動き出した者は、仲間を増やすためだけに動き、他者を傷つける。
いつ生まれたのか、何かに操られでもしているのか、何もわからない。
不意に、ポスターのいる空間を囲む激しい吹雪の中で、グール犬の悲鳴がした。
想定外のできごとなのか、目の前のグール犬の注意がポスターからわずかに逸れる。
――様子がおかしい。
この隙をみて行動すべきか迷ったが、迷った時点で機を逃していると彼は判断した。
吹雪の中から聞こえるグール犬の悲鳴が大きくなる。
悲鳴に交じって、肉のつぶれるような音がした。次第に悲鳴は途切れ、吹雪が強くなった。
今度は目の前のグール犬が錯乱したように吠え始める。
もはやポスターに注意は向けられていない。
グール犬の背後の吹雪の壁に何かの「影」が浮き出ると、吹雪の壁が形を変え、グール犬を取り込む。
吹雪に包まれながらもグール犬は必死にもがくが、そこから抜け出すことはできない。
発狂したように吠え続けるが、次第に四肢がちぎれ、胴がねじれていく。体液が噴き出し、叫び声はゴボゴボという音に変わっていく。
ポスターの目の前で、グール犬は細かな肉片となり、吹雪と一体化してしまった。
はたしてグール犬を取り込んだのか、吹雪の中の影がだんだんと大きくなっていく。
その不定のシルエットは縦横に拡大し、人間大の大きさはすでに超え、三十メートルはあろうかという大きさになった。何かが吹雪の中に潜んでいることをポスターに感じさせた。
「…できれば会わないようにと思って走ったつもりだったんだがね」影を眺めながらポスターがつぶやく。ゴーグルの中に冷や汗がにじむ。
どこか意志を感じさせる動きで吹雪の中の巨影がゆらぎ、ポスターに向かって咆哮した。
轟音とともにポスターの周りの気温がさらに下がっていく。
◇
ポスターは自分の意識がだんだんと薄れていくのを感じた。
吹雪の中の巨影は、ただポスターを観察するように静かにゆらめいている。
倦怠感に耐え切れず、ポスターは雪の上に膝をつく。
上を見上げると、巨影の姿と、その上に吹き抜けた夜空が目に入る。
井戸の底に落ちたみたいだな、と朦朧とする頭で思った。
夜空よりもずっと高い、宇宙と呼ばれる場所には、「人工衛星」と呼ばれるものが漂っているのだと聞いたことがある。
いつか子供の頃に聞いた話をポスターはぼんやりと思い出していた。
かつて人間には、テクノロジーによって個の知恵を別の個と接続し、共有していた時代があった。個の限界を破り、宇宙へと飛び出した知恵は、惑星を包み、さらなる繋がりを形成し、何もかもを支配していた。
それがある時、大地が隆起し、それまでの人類の発展をリセットするかのように惑星は姿を変えた。海底から火が噴き出し、プレートは変形し、島々を繋ぐ海底ケーブルは壊滅した。地上文明の土台は一夜にして崩れさり、多くの命と知識が失われた。
当時の一連の災害は「再起動」と呼ばれ、地上にあった都市と都市の間は、地面の隆起によって形成された山脈に分断され、人々の繋がりも断たれてしまった。
辛うじて残ったインフラと人工衛星を使い、人々は生きるほかなかった。それから長い時間が経ち、先人の技術も次第に壊れ、薄れ、人々の繋がりは完全に途絶えようとしている。
体の力が抜け、吹雪の中で意識が薄れていくなか、背負った荷物が体から離れそうになっていることに気づく。ポスターはあわてて荷を掴みなおした。
これだけは失くしてはいけない!
かろうじてポスターは意識を取り戻すことができた。
ここで屈すれば、人々の繋がりは断たれてしまうのだ、ポスターは自分に言い聞かせた。
繋がりを失った人間は、とても脆い生き物だ。
孤立すれば、たちまちの内に理不尽な自然と跋扈するグールたちの餌食となる。
それはポスターの両親も、彼が親しくしていた友も変わらなかった。
ポスターは、何もかもを不当に奪われてきた。
己を害する者に抗い、命をつなぐことは当然の権利である。
リンクに所属していた頃から今に至るまで、ポスターは一貫して輸送任務を請け負っている。繋がりを断たれ、不当に命を奪われようとしている人間たちを、全て自分が繋いでいく。そんな現実的ではない傲慢な考えが、これまで不当に害され続けてきたポスター・アクロイドが全身全霊をかけて世界に挑む闘争であった。
動かず、ただ吹雪の中からこちらを観測し続ける巨影を、もはやポスターは気にしていなかった。
たとえ吹雪だろうが、巨影がグール犬と同じように自分を取り込もうとしようが、もはや彼の行動には何も関係はなかった。
奪えるものなら奪ってみろ、と言わんばかりに巨影を睨みつけ、それからただ目的地を目指すことだけを考えて彼は足を動かした。
結局、巨影はポスターを見送るように、ただ吹雪の壁の中に佇んでいた。
得体のしれない視線をどこかから感じながら、ポスターは駆けていった。
どこか後ろの方で咆哮がした。
大地は揺れ、轟音とともに山頂から雪崩が起きる。
巨影について判明している事実は少ない。唯一わかっているのは、それが現れた場所では必ず大災害が起きるということであり、巨影の気まぐれで起こされる出来事に人間は何ら対抗することができないということだった。
幸いにも雪崩の音は遠かった。足を緩めなければ逃げられるだろう。
ポスターは背後を振り返ることなく、ただ進む。
しばらく吹雪の中を進むと、地面に突き刺さる鉄の板が目に入った。
都市間を移動する者たちのために建てられた目印だった。
ポスターの目指す町、『シンジュク』までは、あと二キロメートルを切っていた。
やっとサイバーなSFっぽくなってきたでしょうか?
明日も投稿します。