プロローグ #2
その後もポスターは雪に覆われた山道を迷うことなく進んでいった。
彼の背中を追うようにイーヴァたちが続く。
「そういえば、たいちょ。ポスターさんはどうしてリンクをやめたんです?」
「……ナイショ」
コルがイーヴァに尋ねると、彼女は少し困った顔をした。
その時、ふいに一瞬、わずかに大地が揺れる。
先頭にいたポスターがその場に立ち止まって右腕を背中にまわした。
後ろについていたイーヴァ隊はそれを見てその場に立ち止まる。
風がまた強くなってる、とイーヴァは思った。
「どうしました?」ポスターのすぐ後ろについていたコルとは別の隊員が、急に立ち止まったポスターに状況を尋ねる。しばらく返事はなく、ポスターは微動だにせずにただ雪の彼方を見つめていた。
ポスターが足を止めてから、イーヴァ隊の面々はそれぞれ感覚を研ぎ澄まし、どんな些細な変化も見落とすまいとした。
「たいちょ」
「うん、わかってる。けっこう近くまでグールが来てる。……雷装用意しとこっと」
「…誤爆だけは勘弁してくださいよー」
都市の外にはいたるところには人間を襲う「グール」と呼ばれる獣が潜んでおり、グールに傷つけられた生き物は自らもグールと成り果ててしまう。自衛の手段を持たない人間が都市の外へ出ることは非常に困難なことであった。
そんな状況において、輸送を担う公的組織としてリンクは存在している。
イーヴァは腕に取り付けた機械のパネルを操作する。
「伏せろ!」突然、ポスターが叫んだ。
その直後、猛烈な突風が隊列を襲う。
一瞬だけ、最後尾にいたイーヴァは風に飲み込まれて呼吸ができなくなった。
実際にはほんの一瞬だったが、彼女はとても長い時間、何か巨大な存在に首を押さえつけられているような感覚を覚えた。
死がそこに潜んでいる――イーヴァの鼓動が思わず早くなった。
隊列が風に飲み込まれて生じた一瞬の隙。
背の低い影が猛烈な勢いで隊の横から飛び掛かる。
イーヴァは、吹雪にまぎれてコルの死角から彼の喉に一直線に飛び出した影を見逃さなかった。考えるよりも早く彼女は拳を振り抜く。
身に着けていたグローブが変形し、内側から彼女特製の雷装が露出した。彼女の拳は拳頭を中心に電気を纏うと、稲光を放ちながら影を殴り抜く。
コルに飛び掛かった影はかろうじてこれをかすりながら回避すると、また吹雪の中へ消えていった。
「あっぶねえー!!」
コルが抗議の視線をイーヴァに向ける。
「ねえたいちょ? 助けてくれたんだとは思いますがね、俺の顔面の真横で雷装使う必要ありましたかねえ」
「しょうがない。痛みを感じないグールにはこれが一番効くんだもの」
「俺も死にますわ!」
痛みを感じないグールには、電気ショックによる痙攣や弛緩による無効化が効果的とされており、雷装はリンクの近接格闘用標準装備として支給されていた。
イーヴァの雷装は支給されたその日から度重なる改造が施されており、彼女の好みの威力が出るようチューンアップされている。
「相変わらずすごい威力だな…」ポスターがイーヴァの拳を見て苦笑いした。
「あ、あはは…、私ってば地力がいま一つなんで。その分は機械で補ってるんです」
イーヴァが照れたようにはにかむと、コルは思いっきり顔をしかめた。
「グールを撫でるだけでステーキにできる人がどの口で…」
「もう、コルってば! 怪我してない?」
「雷装むき出してさすろうとするのやめてくれません!?」
イーヴァ隊が周囲を警戒する間、ポスターは再び最前に戻り、ルートの状況を確認することにした。
依然として雪は強いままだった。
ポスターは、知らず知らずのうちに自分が何かに捉えられているような感覚を覚えていた。
グールはどんな種であれ集団で狩りをする。先ほど襲い掛かってきたものは群れの斥候役であることは間違いなかった。恐らく雪のもやの向こうでは何匹かのグールがこちらを襲う機会をうかがっているのだろう。
ポスターは数歩前に進み、ゴーグルの中で目を凝らした。
彼は、グールとは違うもっと別の何かが近づいているような気がしてならなかった。
グールが襲いかかってくる前にわずかに感じた大地の揺れ。
あんな揺れをたかがグールの一個体が出せるはずはない。
ポスターの脳裏から、一つの予想が離れない。それは彼にとって一番嫌な予想だった。
風が吹く。
雪のもやが動き、一瞬だけ山の姿が見えた。
遠くの山間に大きな影がゆらめいた。
ポスターはそれを見逃さなかった。
「嘘だろ…」ポスターがつぶやく。
脳内の「最悪」が現実となったことを認めると、彼はすぐさま後方を振り返って叫んだ。
「おい、『巨影』が出るぞ!」
しかし、その声は後方のイーヴァ隊には届かなかった。
ポスターが叫ぶよりも一瞬早く山が大きく揺れると、轟音とともに雪の積もった大地が崩壊していく。
今まで彼らが立っていた場所は本来深い谷のように割れた部分だった。そこに雪が積もり、氷となって谷を埋めていたが、山の揺れで氷が砕け、道を形成していた雪は滑り落ちていった。ポスターの眼前で大地が割れ、その裂け目はみるみるうちに大きくなり、彼を飲み込もうとした。
彼が崩壊の及ばない位置まで後退した時には、目の前には巨大な谷が出来上がっていた。
辺りには雪が舞い、白いもやで景色は全く見えなくなった。谷の向こう岸も見えず、イーヴァ隊の姿を確認することはできない。
ポスターは、自分がイーヴァ隊と完全に分断されてしまったことを理解した。
少し間をおいてから、ポスターの所持していた通信端末が振動した。
「センパイ!聞こえてますか!」
イーヴァの声が響く。ポスターは彼女の声に安心し、息を吐いた。
「ああ、聞こえてる。僕の方からそちらは君たちを視認することはできないけど、そっちは無事かい?」
ポスターがそう言うと、端末の向こう側からも安堵の声が聞こえた。
「わたしの隊は全員無事です。ただ、こっちからもセンパイの姿は見えませんね…」
「そうか…」
ポスターとイーヴァは端末越しにお互いの状況や荷の確認を行った。
どちらにも大きな負傷はなく荷も全て無事であった。
ただ、両者を分断する谷をすぐに越えることは難しく、すぐ合流することはできなさそうだった。
「イーヴァ、こうなった以上荷を同時に届けるのは難しい。二手に分かれて町を目指そう」
「わかりました。私もそれがいいと思います。短い迂回ルートを設定すれば、センパイの到着からそう待たせずに到着できるかもしれません」
「あー…、いや、それはやめた方がいい。きみたちは、いったん雪もやの薄い地点まで引き返すんだ」
「? どうしてですか?」
イーヴァが不思議そうな声を出す。
谷の向こうで、彼女が首をかしげている様子が目に浮かんだ。
「実はさっきの地割れの直前に、遠くの山間に『巨影』の姿がちらつくのを確認した。このまま進むと町へ着くまでのどこかで遭遇する可能性が高い」
「そ、そんな…」
巨影とは、人間の背を大きく超える対処不可能な怪物だった。
小さいものでも大きさは十メートルほどはあり、吹雪や霧などが立ち込めた場所にその「影」現れることがわかっていた。影の中の実体を確認できた者はおらず、巨影自体も直接物理的な干渉を行うことはないが、それが現れた場所では必ず地図が書き換わるほど大規模な雪崩や土砂災害が発生する。
若手のイーヴァ隊はその状況に対処できるほどの経験や装備を用意できてはいない。
荷の保護が困難であるということもあったが、ポスターとしては、彼女らを今の状態で巨影に遭遇させたくはなかった。
端末越しのイーヴァ自身も、巨影の引き起こす大災害を前にして輸送任務を遂行できるかわからないことを理解しているようだった。
「…センパイはこのまま先へ進むんですか」
「進む。最低限でも荷を届けられれば向こうでも間が持つだろうからね。…僕ひとりであれば巨影に遭遇してもまあ、生きて帰ってこれる」
ポスターにとってこの言葉は嘘ではなかった
彼はこれまでに多くの任務をこなし、その中で巨影と遭遇したのも一度や二度ではなかった。とはいえ危険なことに変わりはなかった。イーヴァもそれを知っているためか、「でも…」とだけ何度か口にした。
それからしばらく間をおいて、彼女は自分を納得させるように返事をした。
「わかりました。…本来であれば、リンクである私たちが負うべき責任を押し付けるような形になってしまい、申し訳ありません」
「馬鹿。一緒の任務を受けてるんだから責任だとかそういうの、いいんだよ」
「あう…、すみません…」イーヴァが申し訳なさそうな声を上げた。
「周囲の景色がある程度見える場所なら、巨影の災害に巻き込まれることもないだろう。時間が経てば雪も晴れるだろうから、それに合わせてなるべく早く町へ向かってきてくれ」
「わかりました、必ず届けます。センパイも気を付けてください」
「もちろん。先に行ってるよ。…それじゃ」
そう言ってポスターは端末の通信を切った。
辺りには雪を乗せた風の音が響くだけとなった。
「さって…、行きますかね」
軽く伸びをしてから荷の詰まったザックを背負い直し、ポスターは吹雪の中に向かって走り出した。
プロローグ#2です。
明日も日付が変わったころに投稿します。




