41 まさかの婚約破棄かしら?
「戻る?」
反射的に声が出た。人として生まれ変わってから、発したことがないほどの冷たい声だった。
「――戻るとは、肩の上にですか? それとも、手のひらの上に? ああ、ひょっとして、頭の上ですか?」
自分が口にしたにもかかわらず、何を言ってるんだと、私は頭を抱えそうになった。
おそらくは、ハムスターではなくなった私では、王太子様のもとには帰れないということを、遠回しに言おうとしたのだろう。
それに、戻らなかったわけじゃない。
戻れなかったのだ。
私が戻りたかった場所には、代役のハムスターと正真正銘の王女様が、すでに座っていたのだ。
言わなくても、王太子様ならばわかってくれると、心のどこかで思っていたのだろう。
甘えにも似た感情が、私の声を凍らせたのかもしれない。
王太子様の瞳が深い色に変わるのが、視界の片隅でもはっきりとわかった。
こんなことを言うつもりではなかったのに、と自分で自分にあきれながらも、それまで宙をとらえていた視線が、自然に王太子様に向かうのを私は感じた。
しばらくの間、王太子様は、私の言ったことの意味をおしはかろうとするかのように、じーっと私の目ををのぞきこんでいた。
王太子様とまっすぐに向き合ったのは、人になってからは初めてだ。
ただ、私の心は、これまででいちばん斜めを向いていた。
意を決したように、王太子様がグッと瞳に力を込めて、口を開く。
「今でも肩車ぐらいならできるとは思うんだけど、できれば、僕の隣りにいて欲しいんだ」
「隣り?」
またしても、私は王太子様の言葉を、疑問符をつけて繰り返した。
あたたかな王太子様の声音の、百倍も冷え冷えした声で。
「――隣りとおっしゃいますと、右ですか? 左ですか?」
「えっ?」
王太子様の瞳に困惑の色が混じる。
私の言葉の真意を探りかねたのだろう。
王太子様は照れたような笑みを浮かべてみせた。
「……その……どちらがいいかな?」
王太子様の声が、召喚獣省長官の執務室に響き、そして――
――静寂が訪れた。
とはいえ、トールがガサゴソと本を出したりしまったりする音は、ずっと続いているけど。
ながらく私が返事をするのをじっと待っていた王太子様だったけど、ひょっとして右か左か答えなければならないでは、と思い当たったようだ。
「じゃあ……右はどうかな?」
どちらか決めかねる、といった表情ながらも、王太子様はそう声に出した。
でも、正解なんてないのだ。
あるのは不正解だけ。
ひねくれている。
そう思いながら、私はニコッと笑った。
「では、私が右で、アンジェリカ王女様が左ですか?」
王太子様の端正な顔が引きつるのが、はっきりとわかった。
同時に、何かを言おうとした王太子様の声にかぶせるように、私の唇がすばやく動いた。
「そういえば――」
行き場を失くした王太子様の声が、空気を震わせることができずに、かき消された。
「――お祝いの言葉を、まだ言っていませんでしたね」
王太子様のせいではないのは、わかっている。
わたしのせいなのだ。
でも、人になった私は、ハムスターの頃のようには、素直になれなかった。
「どこぞの国の王女様とご婚約なされたそうで――」
王太子様を守るためでもなく、ティトラン王国を守るためでもなかった。
人になってから、王太子様と初めてまっすぐに向き合ったというのに、私の口から発せられたのは、強烈な嫌みだった。
「――つつしんで、お喜び申し上げます」
そのとたん、王太子様の表情が凍りついた。
沈黙が流れる。
その時、またしても、ドサッという大きな音がした。
またか、トール。
目つきを細めて、キッと視線を送った先で、トールがあたふたと手を振って、口をパクパクさせた。
「そのー、なんだ。ティトラン王国では、慣例上、国王は第一王妃と第二王妃を迎えることになっていてな。まあ、しかたないというか、それに、アンジェリカ王女様はあくまで第二王妃候補――」
「第二!? 第二って何!? 王妃に第一も第二もあるわけないでしょう!?」
嫌みどころではなかった。
本音がもれた。
つき合いが長いトールと王太子様相手だと、オブラートに包むことなく、内心で思っていることを言ってしまうのかもしれない。
言わなくてもいいことを言っていると思いながらも、なぜか、私はトールを言い負かそうと、さらに言葉を続けた。
「私が一度でも、トールを第一王妃親衛隊長にしてあげるって言った!? 言ってないでしょう!?」
「いやいやいやいや、そもそも王妃親衛隊長なんてものが存在しな――」
シーラとの口論では全敗のトールだが、私相手では勝機があると見たのか、手をぶんぶん振って力説し始めた。
だけど、王太子様のおだやかな声が待ったをかけた。
「いいんだ、トール。ハムちゃんの言うとおりだ」
さっきまでとちがって、落ち着きを取り戻したかのような王太子様の声に、私は思わず、トールに向けていた視線を戻した。
「ハムちゃんがいない間に、勝手に他の人と婚約した僕が悪いんだ。しかも、そのことをハムちゃんが怒っていると気がつかずに、あやまりもしなかったんだから、なおさら悪い」
うん?
さっきまで青白かった王太子様の顔色が、なんだか赤みを帯びて見える。
不思議に思いながら、じーっと王太子様の顔をうかがっていると、顔色とは裏腹の申し訳なさそうな声が、その口から発せられた。
「ごめんね、ハムちゃん。そうだよね。うっかりしているにもほどがある。ハムちゃんなら、きっとそう思うはずだって、気付くべきだったんだ。本当に、ごめんね」
そう言って、王太子様はキリッと姿勢をただして、頭を下げた。
「……いえ、まあ、王太子様のせいというわけでは……」
ムニャムニャと言葉を返しながら、思わず頭を下げ返した私に向かって、王太子様は晴れわたった空のように、瞳を輝かせた。
「じゃあ、アンジェリカ王女との婚約は、早急に解消するように父上にお願いしてみるから」




