38 大天使様の御指示ってなにかしら?
しばらくの間、頭をあちこちに傾けながら言葉を探していたトールだったけど、考えがまとまったのか、腰を直角に曲げて頭を下げた。
「ハーモニーに口止めされたのは、精霊祭の前日です」
召喚獣省長官の執務室にトールのかしこまった声がこだまする中、王太子様は目をギュッと閉じて、天を仰いだ。
微動だにせず、じっと王太子様の言葉を待つ、謹厳実直で知られるトール・レンホルム伯爵。
いつもより小さく見えるトールを、ティーカップの向こうにチロッと捉えながら――
――そういえば、トールって、私が召喚獣契約陣から出てきたことを黙っていて、王様と宰相閣下から大目玉くらったんだよね。
などと、他人事のように過去を振り返っていた。
――そのうえ、口止めされたのは召喚獣契約陣から出てきてすぐじゃないし、元ハムスターだったということになったら?
うーん、どうなるんだろうね?
私が思いをめぐらせていると、張りつめていた空気にさざ波を立てるように、王太子様が天井を向いたまま喉元を震わせた。
「……それも、大天使様の御指示なの、かな?」
トールがうつむいたまま頭をギュッと傾けて、助けを求めるような目で、こちらを見た。
大天使の指示――またか、と私は眉をひそめた。
ここのところ、頻繁に聞く言葉だ。
精霊祭の前日、トールに、ニルス王子との関係について問われた私は、虎の威を借る狐作戦を実行した。
その時、トールに、大天使様から何か御指示を受けられて人界に来られたのですか?
と聞かれた私は、大天使様からの指示につきましても詮索は無用に願います、と応えたのだ。
この言葉がなぜか、私のまわりで盛んに使われるのだ。
特に、アンジェリカ王女が天界について私に尋ねてきた時に。
アンジェリカ王女は私のことを気に入っているらしく、お茶会や食事によく誘われるのだけど、必ずと言っていいほど、天界ってどんなところなのかしら? と聞いてくる。
正直言って、天界のことを聞かれても、私には閉塞された空間に大天使がドーンと居座っているイメージしかない。
言い淀んでいると、必ず誰かが、スッと口をはさむのだ。
大天使様の御指示でございますので、それ以上はお聞きになられぬように、と。
他の国の大使と会った時にも、かなりの確率で、大天使や天界についての質問をされるのだけど、こういう時も、誰かがスッと出てくる。
そして、私の代わりに応えるのだ。
大天使様の御指示でございますゆえ、それ以上はお聞きになられぬようお願いいたします、と。
大天使様の御指示――何だって、そんな言葉がひとり歩きしているのだろう?
と思わないでもないけど、答えようのない質問に答えなくてもすむので、いつも、その言葉を聞くと、ニコッと笑ってうなずくことにしている。
たけど、今まで、王太子様が大天使の指示という言葉を発したことはなかった。
トールが拝むような目で見ているのもあるし、王太子様に正面切ってウソをつくのも気が引ける。
私は、手にしていたティーカップをソーサーに戻し、心もち姿勢をただした。
「大天使様に指示を受けたことなんて、今まで一度もありませんけどね」
ハンコ押されて、いってらっしゃい、というのは指示とは言わないよね。
そう思いながら、私がそう言った瞬間、王太子様の喉仏がゴクンと上下し、トールの頭がバネ仕掛けのおもちゃのように起き上がった。
「はあああー!?」
トールが大口を開き、執務室いっぱいに響き渡る叫び声を発して一歩踏み出した。
そして、その拍子に、みごとにテーブルに向こうずねを当てて、もんどりうって倒れた。
「いやいやいやいや、言った! 言っただろう!? 大天使様の御指示については詮索無用って、たしかに聞いたぞ!」
トールは器用にも、転がったまま向こうずねを擦りながら、私を見上げて喉から絞り出すような声を出した。
「あー、たしかに言ったね。でも、大天使様から指示を受けたなんて言ってないよ。受けてもいない指示について聞かれてもね? 答えようがないでしょう?」
「ええええええー!」
奇声を発し、ゴロゴロ転がりながら向こうずねを擦り続けるトールを見ながら、私が、いったいどこが沈着冷静なのよ、と首を捻っていると、王太子様がふらっと揺らめくようにソファから立ち上がった。
「指示を受けていない!? ……の?」
空色の瞳をパタパタと瞬かせながら、王太子様が信じられないと言いたげに、両手を大きく掲げる。
うん?
と私は首を捻った。
王太子様には、ハムスター時代に天界のことも大天使のことも話したはずだ。
当時は覚えていた前世の人だった頃のことも、話したことがあるはずだ。
大天使の指示を受けたことがないのが、それほど驚くようなことだろうか?
そう言おうとして、私は、まてよ、と一呼吸おいた。
私が元ハムスターだと告白した相手は、トールとクレアだけだ。
王太子様とニルス王子には、はっきりと認めたことがない。
バレているとはいえ、元ハムスターであることを匂わす発言は避けた方がいい。
ニルス王子の婚約者であるハーモニー・モランデル子爵という存在と、テディ王太子の婚約者であるハーミア・レンホルム伯爵家令嬢という存在は、決して相容れるものではないのだ。
いったいどうして、こんなことになってしまったのか、と私自身思わないでもないけれど、気がついたらこうなっていたのだ。
この世界で生きていくために、これが最善だと思った道を進んでいたら、ここに出てきたのだ。
そして、引き返す道なんてないのだ。
じゃあ、王太子様には余計なことを言わないほうがいい?
でも、私が召喚獣契約陣から現われた神の使いであるというのは、ティトラン王国のいわゆる公式見解だ。
ハムスター時代はともかく、今の私が神の使いを名乗っていいかどうかは微妙だとは思うけど、王国を守るためには、そうしたほうがいい。
私は、神の使い。
それは問題ない。
じゃあ、えーっと……元ハムスターであることは認めてはダメだけど、召喚獣契約陣から出てきたことは認めてもいい?
そう、それはトールが王様に報告しているから、認めるべきだ。
じゃあ、大天使の指示は?
ひょっとして、受けていたほうがよかったのかな?
うん?
あれ?
ついさっき、受けていないって言っちゃったね。
まずかったかな。
えーっと、複雑すぎる。
頭がくらくらしてきた。
うーん、と頭を悩ましている私に向かって、王太子様は大きく身を乗り出してきた。
じゃあ、じゃあ、と勢い込んで尋ねてくる。
「召喚獣契約陣から出てきた後、動けなかったのも、しゃべれなかったのも、念話ができなかったのも、大天使様の遠謀深慮というか、御指示に必要なこととかじゃなく、なのかな?」
普段、相手の発言をじっくりと聞いてから、ゆったりと自分の意見を述べる王太子様が、めずらしくグイグイと押し迫ってきた。
その勢いに押されて、思わず、私は考えがまとまらないまま、応えを返した。
「……ええ、ちがうと思いますよ」
「そう……なんだ。それは……大変だったね。えーっと、トールの話だと、動けるようになるだけでもずいぶん時間がかかっているよね。しゃべれるようになったのはもっと後だよね?」
「……まあ、そうですね」
「そうなんだ。じゃあ、その間、トールがずっと面倒と言うか、世話をしてくれていたのかい?」
「……まあ、そうですね。トールと言うか、厳密にはターニャが、ですけどね」
「そうなんだ。そうだったんだ。トールがね、ああ、それと、ターニャ?」
何と言うか、こんなにテンションが高い王太子様を見るのは初めてだ。
トールも不思議そうに王太子様を見つめている。
とはいえ、向こうずねを擦る手はいまだに動き続けているけど。
「私の専属侍女です」
「そう、そうなんだ。それは、よかった。うんうん、それはよかった、本当に」
最後に、しみじみともう一度、本当に、と言って、ホッと息を吐き出した王太子様は、転がっているトールに向き直って笑いかけた。
「ありがとう、トール。ハムちゃんを守ってくれて」




