15 もうちょっと早く知りたかったかしら?
うん? とまった? あれ? 何かまずいこと言ったっけ?
私はテーブルの上に置かれたままになっていた紅茶に手を伸ばした。もちろん冷え切っている。かまわず一気に喉の奥に流し込んだ。トールは何故か固まったまま動かなくなった。クレアはもちろん活動を停止したままだ。気まずい空気のまま、またしても我慢比べに突入した。
そして、沈黙のまま三十分が経過。なんと、クレアが動いた。
「トール様。ハーモニー様は召喚獣契約陣より現れ、神の加護をお持ちです。さらには、精霊に乗り、魔族四天王を倒されました。よろしければ私が代わって話させていただきます」
トールは鈍い動きながら、クレアに視線を向けた。眉間に深いしわを寄せた顔が、わずかに頷いたように沈んだ
「一年と少し前のことです。救国のハムスター様が王宮の寝室において冷たくなっておりました。呼びかけにもお応えにならず、神の御許にお帰りになられたと考えられました」
うんうん、やっぱり亡くなってたんだよね。寿命だよね。
「神の使いがティトラン王国より去られたという事実は、王国の最高機密として、ごく限られた者にしか知らされませんでした」
うんうん、私がハーミアだということも最高機密だからね。王国としても同じことをしたわけだね。
「すぐさま秘密裡に会議が開かれ、その結果、代役をたてることとなりました。今、王宮にいらっしゃる救国のハムスター様は、代役として選ばれたハムスター様なのです」
ふーん、代役をね。そんなことになってたんだ。
「本物のハムスターです」
うん? 本物のハムスター? 救国じゃなくて? 本物の? ハムスター?
「えーっとー……その辺にいる普通のハムスターってこと?」
「はい」
さすがはクレア。即答だ。さすがの私の白色陶器顔も色を変えているような気がするのだけど、クレアは眉ひとつ動かさなかった。
まさか本当にハムスターだったとは。そのせいで、私がどれだけ頭を悩ませたことか。もっと早くそれを知っていれば、今頃、私は王宮でぬくぬくと暮らせて――うん? いただろうか? いや、どうだろう?
私は溜めていた息を吐き出した。トールはいまだに固まったままだ。
「なんで、そんなことをしたの?」
「王国を守るためです。魔王との戦いにプルッキア帝国との戦い。このふたつの戦いで受けた未曾有の被害は、十年やそこらで癒えるようなものではございません。この機会にティトラン王国に手を出そうとする国はプルッキア帝国だけではないのです。救国のハムスター様がいらっしゃらなければ、王国は他国からありとあらゆる介入を受けるでしょう。しかも、ハーミア様がティトラン王国を見捨てたとなれば、なおさらです」
「見捨てたって何なの? 寿命が来て死んだだけだよ」
淡々と言葉を紡ぐクレアに、ふと怒りに似た感情がこみあげた。見捨ててなんていないし、私のせいじゃない。そう思った。
「神の使いに寿命があるなどと考えるものは、唯のひとりもいなかったそうです。それに、たとえティトラン王国の者がハーミア様がお亡くなりになったと言っても同じことです。ハーミア様がいなくなったことを知られれば、王国を虎視眈々と狙っている周辺の諸国は、ティトラン王国は神の使いに見捨てられたと見做すでしょう」
「それは、まわりの国が悪いんであって……」
思わず、私が悪いんじゃない、と言いそうになった。私は口をパクパクさせながら、必死で出かかった言葉を飲み込んだ。ちがう。私はもうハーミアじゃない。ハーモニーだ。ハーミアは私じゃない。目をギュッと閉じて、自分に言い聞かせた。そして、思い当たった。
……ハーミアじゃない?
そうだった。私はもうこの国を守る力を持っていない。今、この国を守っているのは代役のハムスター。ティトラン王国の人々が必要としているのは、みんなを守ってくれる神の使いなのだ。私じゃない。
昂ぶっていた感情がスーッと冷めていくのがわかった。そうだね、私のせいだった。ハムスターに生まれ変わらなかった私のせいだね。でもね、たとえ私がハムスターに生まれ変わったとしても、三年たったらどうするの? また死んじゃうよ。
私は閉じていた目を見開いた。
「君はやさしい大天使様のご命令で人界に送り出されたといったな。神の使いだと思っていいのかな?」
クレアが秘密を打ち明けたことで、余裕ができたのだろうか? トールがようやく口を開いた。
「私は神の使いなどというたいそうな存在ではありません。体だけは絶対結界によって守られていますが、それ以外の力を持っていません」
「絶対結界……なのか。それこそ神の使いということでは……」
「そうですか? そう思われるのはトール様のご自由ですが、私はそうは思っておりません。ところで、ニルス殿下の件ですが、私は以前にも人界にいたことがございまして、その時に殿下と知り合ったのです。ただ、そのことは殿下にも口止めしておりますので、詮索は御無用に願います。特に、シーラ様は私と殿下を幼馴染みだと思っておられますので、トール様にも話を合わせていただきたいのです」
冷え切った心のおかげで、すらすらと言葉を紡ぐことができた。これで、虎の威を借る狐作戦は完了だ。この世界での大天使の威光は絶大だ。断ることはできないだろう。ただ、王宮のハムスターが普通のハムスターであるとわかった今、この作戦っていったい何だったんだろう? そう思わずにはいられない。
「そうですか。そういうことであれば、話を合わせましょう。ところで、ハーモニー様は大天使様から何か御指示を受けられて人界に来られたのですか?」
「ハーモニーとお呼びください、トール様。話し方も今までどおりでお願いします。大天使様からの指示につきましても詮索は無用に願います。ただ、ティトラン王国に害をなすつもりはございません」
トールにハーモニー様などと呼ばれては背筋に悪寒が走る。そもそも、ハムスター時代の私にだって、呼び捨てでため口だっただろうに。それに、伯爵様に敬語を使われる居候お嬢様っておかしいよね。
「いや、君が王国に害をなすなどとは考えていない。ただ、国王陛下にだけは奏上させてもらっても――」
「黙っておいてください」
「しかし、それでは私があとでお叱りを受けるかも知れんし――」
「叱られてください」
トールはぽかーんと口を開けたまま動きをとめた。あっけにとられた様子でクレアに視線を送る。
「叱られてください」
なぜだかわからないけど、クレアは一瞬の躊躇もなく、私に同意した。
「では、私はこれで部屋に戻らせていただきます。ああ、トール様。これからも、お屋敷に住まわせてもらってよろしいですか?」
「あ、ああ。もちろんだ。ずっと居てもらってもかまわない。君はハーモニー・オスカリウスでもあるからな。私の身内だ。遠慮はいらない」
私は椅子から立ち上がり、口角をギュッと吊り上げて精一杯の笑みを浮かべた。そして、深々と頭を下げた。
くるっと踵を返し、そのままお屋敷へと向かう。ふと庭園の向こうにある召喚獣契約陣に目が引き寄せられた。私が人として生まれ変わって、もうすぐ一年になる。
身動きもできず、声すら発することができなかった私が、お世辞とはいえ、トールに英雄と呼んでもらえる身分にまでなった。
充分じゃないか。よくやったと思う。でも、どうしてだろう。心が冷えたままだ。
ターニャのおかげで、歩けるようになり、しゃべれるようになった。救国のハムスターが生きているとわかってからは、なんとか自立しようとロッテンホイヤー女史のスパルタ教育にも耐えた。
シーラのおかげと言っていいかわからないけども、子爵家の養女にもなった。シルフィーのおかげで魔族四天王も倒した。勲章だっていっぱいもらった。
仮想敵だった救国のハムスターは、本当のハムスターだった。私がハーミアだと名乗っても、攻撃されることはなくなった。跳び上がって喜んでもいいところだ。
でも、私がハーミアだとは言えなかった。だって私はどう頑張っても救国のハムスターには戻れないんだもの。いや、たとえ今から戻れるとしてもお断りだ。寿命が三年ということは、つまるところ余命三年だ。絶対にお断りだ。
人として生まれ変わったのが失敗だったのかな? ハムスターだった時は、難しいことなんてこれっぽちも考えずにすんだ。ひたすら王太子様を見つめて、かまってもらって、ヒマワリの種を食べて、大満足だった。毎日が薔薇色だった。
人に生まれ変わってからはすべてを難しく考えてしまう。王様に私のことを黙っててもらうことにしたのだって、余計な期待をされたくないからだ。王太子様にも、王様にも、ティトラン王国のみんなにも、がっかりされたくない。私は王国を守れない。神の使いなんて称号はいらない。
ふーっ、とまた大きな溜め息が出た。ダメだダメだ。明日は精霊祭だ。楽しいことを考えよう。私は大きく頭を振って、雑念を追い払おうとした。
「ハーモニー様」
すぐ傍で声がした。びっくりして横を見るとクレアがいた。すっかり考えこんでいて、気が付かなかった。たぶん、ずっと傍にいたのだろう。お屋敷まで送ってくれていたのかもしれない。
「あなた様は私の家族や友人を助けてくださいました。ありがとうございました。私にできることがあれば、何なりとお申し付けください」
何のことだろう? 思わず立ち止った私に、クレアが深々と頭を下げた。
「魔王が倒されるのがあと三日遅ければ、私の生まれ故郷は灰になっていたでしょう。どれほど感謝しても、感謝しきれるものではございません」
ようやく頭を上げたクレアの頬は真っ赤に染まっていた。まっすぐに私の目を覗き込んだ赤い瞳にも熱がこもっている。めったに感情を表に出さないクレアの照れたような表情に、私も顔に熱を感じながら応えた。
「えーっと、何のこと?」
「申し訳ございません。どうしても、直接お礼を伝えたかったのです」
普段の省エネクレアからは考えられないほど、熱い感情を体中から放出している。その瞳はウルウルと潤み、私の視線をとらえて離そうとはしなかった。
魔王か。そんなこともあったね。そうだね。まだ四年とちょっとしか経ってなかったね。どこでわかったんだろう? トールはわかってなかったみたいなのにね。クレアの熱い視線から逃げるように、私は庭園に咲き乱れるアベリアの白い花に目をやった。
「悪いけど、クレア。もう、私にはそんな力はないからね。期待しないでね」
「はい。これからは何なりとお申し付けください。力の及ぶ限り、お助けいたします」
そっぽを向いたままの私に、クレアは心のこもった言葉を返してきた。
「助けて……くれるの?」
「はい。及ばずながら全力でもってお助けします。ティトラン王国の者は皆、受けた恩は必ず返します」
じわっと視界がゆがんだ。ダメだ。涙がこぼれる。私は大急ぎで空を見上げた。鼻がつーんとする。ダメかもしれない。体だけは絶対結界に守られているけど、中身はずっと昔の私のままだった。弱虫で泣き虫で、人の好意が素直に受けいれられないダメダメな私だった。私は鼻水をゴクンと飲み込んでから、なんとか声を絞り出した。
「ありがとう、クレア。頼りにしてるね」
「はい。おまかせ下さい」
クレアの頼もしい声に、私の頬を涙が伝った。