1 あれっ? 体がすごく重いんですけど?
重力ってすごいよね。
その瞬間、私の脳裏をよぎったのは、そんな思いだった。大天使に向けて伸ばしたはずの手が、へなっと地面に落ちる。のしかかる空気の重さに、体が地面に押しつけられる。ぼやけた私の視界に飛び込んできたのは、大きな丸い円に沿って描かれた奇怪な文字。でも、どこかで見た覚えのある、懐かしい模様。
ああ、召喚獣契約陣だ。ということは、前にトールに呼び出されたように、誰かが私を召喚したってことかな? 私は目だけをきょろきょろと動かして、辺りの様子をうかがった。
召喚されてすぐだからだろうか。すべてがぼやけて見える。なんだろう? 黒い影が慌ただしく動いている。誰かの叫び声のような、かつて感じたことのない空気の振動が、私の鼓膜を震わせた。
うん? どうなってるんだろう? 前にハムスターとして召喚された時は、目もはっきりと見えたし、耳も聞こえた。言葉だってわかった。ということは、前とは違う世界にきたんだろうか? 不安を覚えながらも、いやいや、とりあえず状況確認が第一だよねと、私はひとまず立ち上がろうとした。
そして、ありえないほど重く感じる体を持ち上げようと、右腕にぐっと力を込めた、はずだった。しかし、私の右腕はへにゃっと曲がっただけで、うつ伏せになっている自分の体を、ぴくりとも持ち上げることができなかった。
えっ? と心の中で呟いた私は、体の下敷きになっていた左腕を何とか引っ張りだし、両腕を使って肘を支えに体を持ち上げようと、うーんと力を込めた。
ダメだ。持ち上がらない。ひょっとして、新しく転生した世界は重力が違うのだろうか? どうにか全身を使って寝返りを打とうとした私に、誰かがバタバタと駆けよってくる振動が伝わってきた。
一瞬、視界が真っ白になった。どうやら、走ってきた何者かに、布か何かを掛けられたみたいだ。いつもよりきつく感じる重力が、ぐるんと一周半するのを感じた。最後に上半身を起こされて布からスポンと頭を出された私は、ようやく視界が色を取り戻してきていることに気がついた。
思わずほっと息を吐いた私に、見慣れたおっさんの顔が近づいてくる。金髪に青い瞳。彫りの深いいかつい顔。トールだ。よしっ! いつもながらトールは頼りになるね。三回も私を呼び出すとは、さすがは大陸一の召喚獣術師だよと、お褒めの言葉をかけようとした私に、トールが鬼気迫る顔で声を発した。
「○▼※△☆▲※◎★●○▼※△☆▲※◎★●………………」
だけど、その声は私にはまったく聞き覚えがなく、言葉は理解不能だった。
トールってそもそもこんな声だったっけ? 私は布にくるまれたまま少しだけ首を傾けた。
そして、なんて言ったの、トール? と言おうとした私の口から漏れたのは、あー、とも、おーとも聞こえる空気を震わせるだけの息だった。
驚いた私は何度も何度も声を出そうと喉を震わせた。高い音に低い音、大声に囁き声と色々と試してみたにもかかわらず、どうやってもまともな声が出なかった私は、のどの調子が悪いのかと手を首に当てた。しかし、首に当てた手はすぐに力を失くしてだらんと垂れ下がった。
ここで、ようやく私は自分の体がおかしいのでは、ということに気がついた。この世界の重力が元いた世界の重力と違うなどと考える前に、自分の体を確認するべきだ。私は白い布のすき間から見える自分の体を、じっと観察した。
うーん、そうだね。ハムスターに転生する前の人間だった頃に比べて、色が病的なまでに白いうえに、びっくりするほど華奢だし、腕も極端に細いような気がする。そもそもこの体って、どうやって作られたの? まさか遺伝子操作で培養されたとかじゃないよね? 大きな試験官の中でタプタプの培養液に浸かってたとかじゃないよね? というファンタジーな世界に似つかわしくない妄想が頭の中で渦巻く。
いやいや、神様のよくわからない力のおかげですよねーと、私は大慌てで頭をぶんぶんと振って妄想を打ち消そうとしたが、それほどの力はなく首をかくんと傾けただけに終わった。
トールはずっと何かを話しているが、何ひとつ聞き取れないし、私の声は出ない。自分の体を支える力もない。お手上げだ。私は大きく息を吐き出して、力なく目を泳がせた。
もっと大天使に聞いておけばよかった。人間に転生するっていっても、赤ちゃんとして生まれる可能性もあったんじゃないだろうか。今の私の姿は大人ではなく、おそらくは十代だろうと思われるが、ひょっとして生まれたばかりの赤ん坊のように、ほとんど何もできない状態なのだろうか。
生まれ変わる場所、年齢、容姿、時間など、思えば聞かなければいけないことは山ほどあった。トールが慌てて私を大きな布でくるんだのだって、私がはだかで召喚されたせいだ。大天使め。服くらい着せて転生させろよ。ハムスターには毛皮があるから服が必要なかったけど、今回は人間に転生だよ。女の子をはだかで放り出すってどうかと思うよ。トールが召喚主だったからよかったものの、ちょっと間違えたら大事件だぞ。
なにやら心配そうに話しかけてくるトールの顔を見ながら、私は心の中でそんなことをずっと考えていた。だって、声はでないし、立ち上がる力すらないのだ。何もできないじゃない。ここは、もう、トールに全部任せてぐったりしておくしかない。そう開き直った私は、トールの顔をボーッと見つめたまま、時が過ぎるのを待った。
とうとう、私との意思疎通をあきらめたのだろう。トールは悲しそうに首を横に何度か振り、私を召喚獣契約陣の上にゆっくりと横たえた。そして、いつの間にか周りに集まっていた人たちに、何かを指示して去っていった。
うーん、どうなるんだろうね? と思っていると、体が重くて転がったままの私を、誰かが担ぎ上げた。揺れる視界に大きなお屋敷が映り込む。どこからか現われた女の人たちが、私をわいわいと取り囲んだ。あれよあれよという間に、お風呂場のようなところに運ばれた私は、寄ってたかって体を洗われ、それからさらにどこかに運ばれて、ふかふかのベットの上に横たえられた。
あー、なんだかハムスターだった頃のことを思い出すねーと、私はその間ずっとニコニコしていた。そういえば、王宮では専属の女官さんにお風呂に入れてもらって洗ってもらってたし、寝床はいつもふかふかだったね。
ふふっ、これからのことはまた明日考えたらいいか。私は次第に重くなってきたまぶたをピッタリと閉じた。