鍵紛失 ①
今回のお話は前後編(①と②)に分かれています。これで第1章終了とします。
6月の終わり。
気温の高さが、雨を蒸発していく。
梅雨前線は「今年はこれで見納め。来年もよろしく」と言わんばかりに、最後の雨を時折降らす。
午前0時。
ナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部のフロアは、人が眠りにつく時間帯であっても、一定の明るさを維持していた。
ガラス張りのフロアは、外の闇のおかげで全面鏡と化していた。
Aフロアの事務担当伊藤美紅は、不満を抱きながら書類とパソコン画面を交互に見ていた。
夜型人間の木村が体調を崩し、急なシフト変更で遅番に入った。
迷惑電話の一件で、学生バイトの井上が辞めた為、電話受付スタッフもシフト調整に苦戦していた。
重要な業務が増える月末月初に、電話が少ない遅番に入って仕事ができるのはありがたいが、体内時計の狂いに慣れていない伊藤は、モチベーションを上げるのに苦労していた。
時折鳴る電話は、どれも事務サポーターが淡々と処理してくれている。
今宵、Aフロアは自分しかおらず、ひたすら定時が来るのを伊藤は待っていた。
◇◆◇
「申し訳ございません、お客様。
そちらは対応いたしかねます・・・。
え、はい、ですが・・・」
キーボードを叩きながら、伊藤はフロア中央の事務サポーターの電話に耳を傾ける。
恐らく5分以上は通話している。
(いくら24時間受け付けでも、こんな深夜に長々と電話してくる奴なんて、ロクな奴じゃないわ。
緊急度の高い修理依頼なら、あんなダラダラ時間かけないもの。
頼むから、裏野ハイツ以外の住民であって)
願いも虚しく、ピピピと鳴ったのは、伊藤の固定電話だった。
最早、隠すこともなく、伊藤は深いため息をついた。
「はい、伊藤です」
『すみません。
裏野ハイツ101号室のアベと名乗る方が「鍵を無くして部屋に入れないから合鍵を持ってきてほしい」と仰られています。
ですが、データを見る限り、アベ様が101号室の入居者という情報がありません。
当社規定と防犯上理由で、合鍵手配は出来ないと伝えると、お怒りになられて「担当者に替われ」と仰せです。
すみませんが、ご対応お願いできますか?』
(出たか、アベババァ)
事務サポーターの口調からも「いつものクレーマーがまた電話してるよ」という内心が伝わってきた。
伊藤は自分に繋ぐよう指示した。
◇◆◇
「お電話替わりました。
裏野ハイツ事務担当の伊藤と申します」
『今すぐ、鍵を持ってこい!
こっちは仕事が終わってクタクタなんだよ!』
相変わらずのキンキン声に、今宵は酒も入っているらしく、更に早口になっていた。
「恐れ入ります。
アベ様が101号室の入居者様とのご関係がはっきりしない為、合鍵手配をすることは致しかねます」
『んなもん、さっきのキモ女から聞いてるわ!
そこを何とかしろっつてんだよ! ウンコが!』
あまりの幼稚で下品な言動に、伊藤は通話する意欲が萎えてきた。
しかし、これをほったらかしていても、更に面倒になるのは目に見えている。
「では、アベ様。
こちらで再度確認いたしますので、一旦切電させていただきます。
そして弊社から、101号室の斉藤様にお電話いたします。
恐れ入りますが、アベ様からも一度斉藤様にご連絡願えますか?」
『はぁぁ?!
何で、斉藤が出て来るんだよ? 関係ねーだろ!
てか、こんな時間に電話するって、どんだけ非常識なんだよ!?』
(お前が言うな)
反射的に出そうになった言葉を、伊藤は懸命に飲み込んだ。
「アベ様が101号室の入居者様である確証が無い為、唯一の方法は斉藤様の了承を得ることだけです。
ご理解くださいますよう、よろしくお願いいたします。
斉藤様と連絡を取るにあたり、アベ様のご情報を頂ければと思います。
恐れ入りますが、お名前をフルネームで漢字も教えていただけますか?」
アベは躊躇っているような素振りをしていることを、受話器越しに感じたが、「阿部 緑瑚」という名をこちらに伝えた。
伊藤は電話を終了させた。
すぐに、101号室の斉藤に電話をかける。
留守番電話に繋がった為、こちらに折り返すようメッセージを残した。
伊藤はデスクを離れ、Cエリア長のところに向かった。
中番・遅番では、各エリア長がその時間帯の責任者として、交代で入る。
合鍵手配が決まった場合、誰を現地に行かせるのかの判断を仰いだ。
「高橋を呼ぶしかないね」Cフロア長は即答した。
「あいつの家は、このビルからも近いし、一番適当だ。
この時間帯の責任者かつ唯一の男性社員の俺が離れるよりも、高橋に行かせた方が良い。
なぁに、業務担当にとってはよくあることだから気にするな。
高橋には俺から連絡するから、伊藤さんは引き続き入居者さんと連絡を取って」
今日も残業で22時過ぎに帰宅した彼を呼び戻すのは、非常に心苦しいものだったが、伊藤はそれを聞き入れた。
デスクに戻り、再び斉藤に電話をかけたが、留守電になった。
「伊藤さん、高橋はあと30分位で到着するよ。
入居者と連絡とれたら、約1時間後に現地到着できるって伝えてあげて」
Cエリア長が自分のデスクから大きな声で言った。
その後、斉藤とは三度目の正直で電話が繋がった。
「夜分遅くに大変申し訳ございません。
私、裏野ハイツを管理しております、ナロ建物管理賃貸マンション管理事業部の伊藤と申します。
緊急の為、お電話いたしました。
斉藤様でございますか?」
『は・・・はい・・・』
電話の向こうの男の声は、非常に小声で聞き取るのが大変だった。
「現在、裏野ハイツ101号室の鍵を無くしたと、阿部緑瑚様が弊社に問い合わせています。
弊社に保管している合鍵を使って、玄関ドアの開錠することは可能ですが、阿部様についての情報が無いため、対応ができない状況です。
失礼ですが、斉藤様と阿部様は、ご親族の関係でございますか?」
『あ、いや・・・。
はい、そうです。身内です。
あの、鍵を開けてあげてください。大丈夫です』
「かしこまりました。
現地到着しましたら、阿部様の身分証を確認の上、開錠いたします。
ですが、万が一の場合があった際、弊社では責任を負いかねますのでご了承ください。
また、開錠の為の深夜緊急出張料を、阿部様から現金で受領いたします。
弊社からもお伝えしますが、斉藤様からもご一報してくださいますよう、お願い申し上げます」
『分かりました。
それでよろしくお願いします』
伊藤は斉藤との通話を終え、阿部に連絡を取った。
出張料について文句を言われたが、何とか高橋を現地に向かわせることで話が落ち着いた。
一通りの電話が済んだ頃、高橋が魂が抜けたような顔で現れた。
彼が伊藤のデスクを横切った時、男性用シャンプーの香りがスッと鼻を通った。
残業を終えて帰る頃のような、皮脂でテカっている様子もなく、さっぱりしている。
恐らく、一日の疲れをシャワーで洗い流した直後に呼び出されたのだろう。
高橋は無言のまま、裏野ハイツの合鍵を金庫から取り出してきた。
伊藤は高橋のデスクへ行き、裏野ハイツ101号室と阿部の情報、現金受領の為の準備物を渡した。
「ごめんね、呼び出すことになって」
「これも仕事だし大丈夫だよ。書類、ありがとう」
仕方ないとはいえ、申し訳なさを感じる彼に対し、伊藤は労いの意を込めた笑みを浮かべた。
それを見た高橋は、ほんのり頬を紅潮させながら、フロアを出て行った。
◇◆◇
午前3時を迎える頃。
熱気を帯びた高橋がフロアに戻ってきた。
深夜に現場に向かったからか、疲れ切った表情にも関わらず、目だけは妙にギラギラしていた。
「おかえり。お疲れ様」
伊藤が席を立ち、高橋の方へ歩み寄る。
出張料として回収した現金や書類を受け取った。
「出張料も払ってもらえたのね」
伊藤はホッとした表情で言った。
「それと、あと・・・」高橋は小声で話しかけてきた。
「202号室も見てきたよ・・・」
伊藤はピンッと反応する。
周囲の様子を見る。
「ちょっと待って、その話は外でしましょう。
私、まだ休憩取ってなかったから」
伊藤も小声で返答し、素早く現金を金庫に片付ける。
「Aフロア、伊藤、休憩いただきまーす。
ほら、行くよ!」
伊藤は高橋の肩を叩きながらフロアを出て行った。
その様子を見ていたCエリア長がポツリと「良いなぁ・・・」と呟いた。