挨拶
裏野ハイツ102号室住民清水からの迷惑電話から数日後、特に変化もないまま、伊藤は業務をこなしていた・・・
6月下旬。
夜から早朝にかけて降り続いた雨も、今は止んでいる。
強く射す日光が、灰色の雲を辺りへ撒き散らし、暑い夏の訪れを予感させていた。
午前9時過ぎ。
眠ることのないナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部のフロア。
しかし、この時間帯だけは爽やかな空気を帯びている気がする。
外へ繰り出す社員達へ、冴えた頭の早番事務担当達が「行ってらっしゃい」と気持ち良い声を飛ばす。
早朝の電車に乗らないといけないが、この早番シフト勤務を伊藤はかなり気に入るようになった。
朝の時間が長いというのは、自分に合っているらしく、今日も順調にキーボードを叩き、取引先に速やかに電話をかける。
※各フロア事務担当のメイン業務は、物件ごとの収支状況をまとめ、各オーナーに報告することである。
収支(賃料回収、修理代金支払い)の確認・調整の為に、各専門部署や取引業者に連絡をとる。
電話クレームは、基本的に電話受付専門が処理し、各フロア担当者達がその報告を元に、対策を図る。
外勤社員達が出払ったフロアで、伊藤はデスク引き出しから小さな大福を取り出した。
今朝、出社すると机上に置かれていたのだ。
その後出社した高橋に、裏野ハイツ201号室住民からもらったと教えられた。
「オーナーも住民も、面倒くさいハイツだけど、紫野さんだけは、良い人なんだよな。
俺や鈴木さんが、ハイツに行くと必ず顔を出して挨拶してくれるんだ。
『いつもご苦労様です』って。
本当は駄目だけど、お菓子とか冷たい缶コーヒーなんかも時々くれるんだ。
で、昨日は『友人からもらった土産だけど食べきれないから』って箱ごとくれたんだ」
そう話す高橋の表情は実に穏やかだった。
彼が入居者に会う時は、クレーム処理がほとんどだ。
謝りに行くことが多い中、優しく接してくれる入居者の存在が貴重なのだろう。
昼食前の空腹感を和らげる為、伊藤は包み紙を剥がし、一口で大福を食べた。
こし餡の甘さに、目元が緩んだ。
口を動かしながら、カタカタと裏野ハイツ201号室入居者情報ページを開く。
直接礼は言えないが、誰から頂いたかは、確認しておきたかった。
「契約者:森 紫野
契約開始日:1996年4月1日
入居者:契約者と同じ
入居人員:1人
職業:無職・年金受給
顔写真:契約当時のスナップ写真のモノクロコピー」
(この人、20年も裏野ハイツに住んでいるのか・・・)
モノクロでもはっきり分かる、明るく優しそうな笑顔に、伊藤はホッとした気持ちになった。
◇◆◇
午前10時過ぎ
田中が内線呼出音に反応し、受話器を取った。
二言三言交わし、保留にした。
「田中さん、どうしたんですか?」
「裏野ハイツの入居者が、一階受付に来ているらしいのよ」
「え!?」
伊藤はゾクッとした。
まさか、102号室の清水が、ストーカーのごとく、職場に押しかけてきたのだろうか?
「・・・何号室の方ですか?」
「201号室の森様。
よく、高橋にお菓子くれる人よ。
困ったなぁ。高橋、すぐ戻って来れるかなぁ・・・」
「森様・・・」そう聞いて、伊藤は席を立った。
「田中さん、私が行ってきますよ。
私も裏野ハイツ担当ですし」
「でも、伊藤さん、私達事務担当は基本的に客には会わないのよ」
「だからって、高橋が戻るまで待たせるの失礼じゃないですか。
それに奴の仕事を後回しにさせて呼び戻したら、またエリア長から、残業小僧って言われちゃいますよ」
田中が苦い顔をしているのを横目に、伊藤は保留にしていた電話を取り「自分が行く」と告げた。
ロッカールームに行き、会議参加の時などに着用する黒い襟付きジャケットを羽織った。
(相手は70代のお婆様だし、もう少し地味な方が良いかな)
パパッと茶髪の髪の毛を一つに束ね、唇のグロスをティッシュでぬぐい、エレベーターに向かった。
◇◆◇
一応本社ビルを構えるナロ建物管理㈱の一階に降りた伊藤は、正面受付の女性に森の居場所を尋ねる。
丸テーブルとイスの組み合わせがいくつか置かれている小休憩スペースに向かうと、細身で白髪の女性が静かに座っていた。
「あの、森様でございますか?」
伊藤が声をかけると、小柄な女性の表情がたちまち明るくなった。
「まぁ、女優さんかと思ったわ!」
(女優・・・)
予想外な相手の第一声に、照れ笑いを浮かべつつ、伊藤は挨拶した。
森は椅子から立ち上がり、それよりも何倍も深々と頭を下げて挨拶した。
「どうぞ、どうぞ」と言い合い、二人は丸テーブルを囲むように着席した。
「本日は、どういったご用件で、弊社までお越しくださったのですか?」
「いえ、ね。
昨日、高橋さんが裏野ハイツにゴミボックスを設置してくれたでしょう。
今朝早速ゴミを入れたんですけど、全然散らからずに回収されたんですよ。
もう、本当嬉しくてね~。
ほら、あの辺は猫もカラスも多いでしょう?
特に燃えるゴミの日は、大変だったのよ~。
あんな古いハイツをこんな大きな会社さんが管理してくれるなんて、私も嬉しくて。
近くまで来る用事がありましたから、思い切ってご挨拶しちゃおうと思ったのよ。
フフフ、年寄りの気まぐれでごめんなさいね」
一度話し始めると、中々止まらないという点に目をつぶれば、明るく品良く質素な女性だった。
薄紫の長袖ブラウスとベージュ色のコットンパンツが、派手過ぎず地味すぎず、好印象だった。
「こちらこそ、いつも高橋に差し入れをしてくださっているようでありがとうございます。
本日高橋が外出している為、代理の私で本当に申し訳ないです」
「いえいえ、そんなことないわー!
まさか、本当に社員さんがここまで来てくれるなんて思っていなかったもの。
それもこんな綺麗な方が!
驚いたわー。
初めて見た時、女優の如月琥美子の若い頃に似てると思ったわ。
ふふ、ごめんなさい。如月琥美子なんて、若い方は知らないわよね・・・」
(知らないよ・・・)
と思いつつも、「女優」という普段言われることのない褒め言葉に、伊藤は少々喜んだ。
「いえ、ありがとうございます・・・。
私も、森様のことは高橋から聞いていましたが、評判以上の素敵な方で・・・」
「あらやだ、やめてよ。
森様なんて、くすぐったい。紫野さんで良いわよ。
他の部屋の人や、松本さんや高橋さんにもそう呼んでもらっているのよ。
あなたもそう呼んでちょうだい」
「左様でございますか、紫野さん・・・」
伊藤は慣れない感じで言った。
「そうよ、ありがとう。
あなたも大変よね。お外に出ないってことは、電話が多いのかしら?
裏野ハイツの皆は、今までの松本さんのやり方に慣れちゃっているから、色々戸惑っているみたい。
不満の電話とか多いんじゃないかしら?」
伊藤は愛想笑いで返答をごまかした。
「ごめんなさい、あなたも正直なことは言えないわよね。
他の部屋の人も、もっと管理会社さんに協力すれば良いのに。
貸してくれる人と管理してくれる人がいるから、私達は住むことができるのにね。
昔は今と違って、大家さんと住民がお互い様で協力し合っているところもあったわ。
なのに最近は、家賃を払っているから、何でもしてくれて当たり前って思い込んでいる人が多いわ。
私は、松本さんと松本さんの奥さんとは友人の様な付き合いをしていてね。
長く住んでいる分、ここ最近のお二人の苦労も良く見ていたわ。
ちょっと照明が点かないからって、すぐ壊れたすぐ直せって、大家さんは便利屋さんじゃないのにね。
奥さんに先立たれて、松本さんもお一人で大変だったでしょう。
管理会社さんに任せたのは、本当良い決断だったと思うわ・・・」
森の、管理側に対するあまりにも親身な言葉に、伊藤は思わず聞き入ってしまっていた。
「あなた方も大変でしょうけど、頑張ってね。
私、裏野ハイツの皆さんとは、全員顔見知りなのよ。
何か困ったことがあれば、私も協力するわ。
あら、いけない。
すっかり話し込んじゃったわ。
すみません、この後用事がありますのよ。
あ、これ皆さんで召し上がってください」
森は席を立ち、百貨店地下一階で購入したと思われる菓子折りの入った紙袋を差し出した。
伊藤は、遠慮しつつも、相手の好意を受け取った。
「それでは、今後とも裏野ハイツをよろしくお願いしますわね」
森は深々と頭を下げ、本社ビルを後にした。
◇◆◇
「おかえり、伊藤さん」
田中が、デスクに戻った伊藤の方を見ずに言った。
「森様、何しに来たの?」
「昨日、裏野ハイツにゴミボックスを設置したじゃないですか。
あれのお礼でした」
「フフッ。
高橋が何回も林様に相談しても駄目で、鈴木君が一回会って話したら、すぐOKしてもらったやつね」
田中が嘲笑気味に言った。
それに対し、伊藤は少々不快に感じた。
「ところで伊藤さん。
今回は急だったから仕方ないとは言え、事務担当は接客しないのが普通よ。
接客は、受付の仕事。電話は事務サポーターの仕事。
伊藤さんはまだ来たばかりで、やること少ないから良いけど、いちいち対応してたら時間の無駄よ」
伊藤はムッと腹が立ったが、相手は仕事を教えてくれる先輩、理性で口を閉ざした。
「すみませんでした。次からは気をつけます」
そう言って伊藤は、菓子折り(ゼリーだった)を給湯室の冷蔵庫に入れようと席を離れた。
チラリと振り向き、田中の背中を見る。
七分丈のポロシャツ一枚姿。
運動不足と代謝低下でぜい肉がつき、下着との段差ができている背中を丸めてジッと画面を見ている。
(独身三十路越え。
そうなっても、ああはなりたくないわ)
伊藤は膝丈のフレアスカートを揺らしながら、颯爽と給湯室に向かった。
※「事務担当は接客しない」というのは、あくまでナロ管理の業務システムだからです。