迷惑電話 ②
セクハラ電話をかけてきた102号室住民清水と、伊藤は通話を試みるが・・・
『ねぇ、どうしたの? 声を聴かせてよ。
それとも、怖くてオシッコ漏らしちゃった?』
受話器の向こうの声は、静かに興奮しているようだった。
伊藤は、恐怖と怒りで、吐き気すら感じてきた。
しかし、この沈黙すら、奴にとって悦びにしかならない。
そう思うと、腹が立ってきた。
(裏野ハイツで音の相談・・・。もしかしてこないだ高橋に頼んだあれかしら?)
「清水様。
音のご相談とは、先日弊社が投函いたしました注意文についてでしょうか?」
先程までのやりとりなど無かったかのように、伊藤は問いかけた。
203号室住民の橋本桃からの騒音クレームで、202号室ピンポイントではなく全世帯に注意喚起として配布した書面。
音と言えば、最近ではこれしか考えられない。
『へぇ、君。
さっきの学生バイトの女と違って、骨があるみたいだね。
ああ、そうだよ。こないだ、ウチのポストに入ってたんだ。
何か、足音とか、物音とか、話し声だとか』
全世帯向けての注意文だったので、色々な騒音内容について明記していたことを伊藤は思い出した。
「清水様も、騒音でお困りになられているのでしょうか?」
『違うよ。逆だよ。
俺は、あんな注意文をハイツ全室に投函されているから迷惑なんだよ。
唯一の楽しみが減るじゃないか』
「楽しみ、ですか?」
『202号室の池田透厘ちゃんと、最近入った203号室の橋本桃ちゃんだよ。
上の階に女の子が二人も住んでいるのに、その音が楽しめなくなるじゃないか』
(ひぃ、気持ち悪い。何なのよ、こいつ)
伊藤は鳥肌が立ったが、一つ気になる点があり、思わず質問をしてしまった。
「やはり、202号室からは音がするのですか?」
『当たり前だろ。
池田透厘ちゃんが来て、もう5年になるかな。
あの子が歩いている音とか、たまに発する独り言とか、聞いているだけで幸せなんだよ。
透厘ちゃんの声を聞いたことがあるかい?
とても可愛いんだ。声優のちゅるたんに似ててさ・・・』
(どうでも良い・・・)
「ですが、恐れ入ります、清水様。
今回、他の部屋の方より、騒音について相談が入りましたので、注意文を投函いたしました。
弊社が出来る対応としては、注意喚起程度になってしまう為、その後は各入居者様の判断になります。
音の感じ方は、人それぞれですので、何卒ご配慮の程をよろしくお願いいたします。
あと、入居者様・弊社社員関わらず、承諾無く他人のプライバシーに踏み込む行為はお止め下さい。
状況次第では、警察に通報します」
『ククククク・・・・・。
やっぱり、美紅ちゃんって良いね。最高だよ。
ねぇ、もっとお話したいな』
「私は、裏野ハイツを管理している者です。
ハイツに関すること以外での連絡はご遠慮願います」
『フフフフフ・・・。
分かったよ。今日は美紅ちゃんの言うこと聞いてあげるよ・・・。
でも、そうだ。ついでに面白いことを特別に教えてあげる』
「何でしょうか?」
『7月に入ったら、気をつけた方が良いよ・・・。
特に、橋本桃ちゃん』
「どういうことですか?」
『7月なんだよ・・・、毎年7月になるとね・・・』
受話器の向こうの男は、不気味な笑い声を続けたまま、一方的に通話を切った。
ツーツーツー
◇◆◇
「・・・・・」
伊藤は、折り返し入電をすることなく、そっと受話器を置いた。
気が付くと、フロアに居る職員ほとんどが、自分を方を見ていた。
「大丈夫でしたか?」木村が顔色を青くして尋ねる。
「すまない。俺が席を外していたから・・・」
Eエリアの男性社員が、わざわざAエリアデスクまで来て、様子を見ていた。
各エリアの電話に切り替わると、他の社員は通話を聞くことができなくなる。
皆、伊藤の対応を心配そうに見ることしかできなかったのだ。
「大丈夫です。
用件は聞けて、それについて返答できましたから・・・」
そう言って、伊藤は席を立った。
「伊藤さん、格好良いです・・・」
木村の声は、伊藤の耳には届かなかった。
通話中ずっと締め付けられていた内臓が、受話器を置いた途端緩まり、胃の中の物が逆流してくる感覚に襲われた。
伊藤は無言のまま、トイレに駆け込んだ。
◇◆◇
23時を過ぎ、伊藤はフロアを出て、エレベーターを降りた。
終電まであまり時間が無い。
オフィスビル街の深夜は、活動休止している分、暗い。
少し歩けば、飲み屋街に入るが、そこもこの時間では落ち着き始めている。
伊藤は携帯電話を取り出し、同棲中の恋人に電話をかけた。
「あ、ごめん。私だけど、今大丈夫?」
『ああ、大丈夫だよ。どうした?』
「私、仕事が終わってこれから帰るところなの。
今日飲み会だったよね? まだ、家に帰ってない?」
『うん、俺も丁度飲み会がお開きになって帰るところ』
「ねぇ。駅って同じだよね。
一緒に帰ってほしいの。改札口で待っているからさ」
『良いけど、どうかしたか?』
「別に、何でもない・・・」
『まぁ、分かった。
俺の方が着くのが早いかな? 着いたら連絡するよ』
「ありがとう。じゃあ、また後でね」
伊藤は切電した。
携帯電話を胸の前で抱きしめる。
こんなにも、電話の向こうの声を暖かく感じたのは久しぶりだ。
早く会って、彼の胸に飛び込みたい。
珍しくそんなことを考えながら、伊藤はカツカツとハイヒールを鳴らしながら、駅へ向かった。
◇◆◇
翌出社日。
伊藤は、佐藤と高橋に、102号室住民清水とのやり取りを報告した。
セクハラ電話と分かっていて、女性の伊藤が対応したことについては、佐藤から軽い注意を受けた。
「7月に入ったら、203号室の橋本桃に気をつけろって、どういう意味だ?」
高橋が首を傾げながら言った。
「橋本桃が危ないから気をつけろ、なのか。
それとも、橋本桃に危ないことが起きるから気をつけろ、なのか・・・」
「どちらにせよ、聞いてしまった以上、何もしないわけにはいかないと思うのですが」
伊藤は、佐藤に意見を仰いだ。
「まぁでも、深夜にあからさまなセクハラ迷惑電話をかけてくる入居者だよ。
結局用件も、設備不具合とか、騒音で困っているとかではないし。
203号室住民に気をつけろっていうのも、ただのオフザケだと思うけどな
それよりも・・・」
佐藤はデスクで作業をしている鈴木に声をかけた。
「おい、鈴木。
裏野ハイツ102号室住民が、5月入居の203号室橋本様の名前を知っていたんだ。
心当たりあるか?」
「そんなのないっすよ。
橋本桃についても、審査や契約時の書類上の情報でしか知らないですし。
あるとすれば、入居前に橋本桃がハイツを見学しに来た時じゃないですか?
でも、俺その見学には立ち会ってないですし」
「そうか・・・」
佐藤はデスクに肘を立てて、口元に手を添えた。
「あの、佐藤エリア長。
この件については、橋本様に何かしらご連絡差し上げた方が良いと思うのですが・・・」
伊藤が言った。
「そんなこと、できる訳ないだろ。
個人情報の問題もあるし、根拠もないことを管理会社から伝えて、入居者を不安にさせてどうする」
佐藤は即答で反対した。
「出来ることは、俺が巡回でハイツに行くときに、102号室と203号室を注意してみること位かな」
高橋がフォローするかのように言った。
「202号室もお願いね」伊藤はすかさず追加した。
「何で? 清水様との会話で、202号室にはちゃんと人が住んでるって分かったのに・・・」
高橋も佐藤も不思議そうな顔をしていた。
◇◆◇
伊藤の報告が完了し、佐藤と鈴木は速やかに事務所を出た。
その後少しして、高橋も事務所を出ようとした。
「高橋」
フロアを出たところで、伊藤が高橋を呼び止めた。
「何、どうしたんだよ?」
高橋は少々戸惑いながら尋ねた。
一緒のフロアで働くのは初めてだが、二人は同期入社である。
他の社員よりも、砕けた態度はとりやすい。
「裏野ハイツの件だけど、今度ハイツに行った時、202号室に本当に人が居るか確認してほしいの」
「はぁ? 何度も訪問して、不在だったんだぜ。今さら何を・・・」
「水道メーターよ。それが動いているか確認してきてほしいの」
「それもこないだ検針したばかりじゃないか」
「返事が無いだけで、居留守かもしれないでしょ?
でも、生活していて水を使っていれば、その場で水道メーターが動く。
その瞬間を確認してきてほしいの。
ね、お願い」
伊藤は、高橋の両手を包み込むようにして掴んだ。
やや見下ろす形で、幼い顔立ちの高橋を見つめる。
自分がするこの行為が、非常に効果的なのを、伊藤は良く分かっている。
「仕方ないなぁ・・・。今すぐできるかは分からないよ」
高橋は、少し顔を赤らめながら言った。
「ありがとう。
今後ね、裏野ハイツから連絡が来たら、優先的に私に回すようお願いしようと思っているの。
あと、本当はこんな面倒なことしたくないけど、近々ハイツに行ってみようと思うの。
どんなハイツなのか、実際に見て知っておきたいの」
「裏野ハイツに行くのは止めておけ!」高橋の表情が変わった。
「な、何で?」
「あのハイツはヤバい気がするんだ。
俺だけじゃない。鈴木さんも同じことを言っていたよ」
高橋は、ズボンのポケットから数珠を取り出した。
「仕事上、色んな物件を回るから、お守りや清めの塩は常に持ち歩いているんだ。
でも、裏野ハイツに初めて行った時、すげーゾクゾクして、それだけじゃあ足りない気がしてさ。
わざわざ神社とお寺を両方参ったんだぜ。
で、今は裏野ハイツに行く前は、数珠持って何事も起きない様にお願いしてから行くんだ。
だから、絶対あのハイツには近づくな、良いな」
伊藤は信じられないといった顔で高橋を見た。
「おかしなことを言っていると思っているだろ?
別に幽霊とかそこまで信じてないけど、ヤバいものは本当にヤバいって、最近思うようになったよ」
高橋は苦笑いを浮かべながら、エレベーターの方へ向かって歩いて行った。