水道代
4月から管理することになった『裏野ハイツ』では、管理方法の違いから、様々なクレームが発生し、伊藤の頭を悩ませていた・・・
6月
梅雨の始まりの告げるにふさわしい雨が、今日は朝から降り続いている。
青白い明るさに包まれた、ナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部フロアは、今日も事務サポーター達の滑らかな話し声で包まれていた。
4月に広報部から配属された伊藤 美紅も、この雰囲気には大分慣れた。
裏野ハイツの事務対応については、配属されてすぐ担当になったので、今も手探りの状態だった。
「裏野ハイツの水道代回収だけど、103号室だけが、まだ未払いだわ。
おまけに、6月分賃料も払っていないわ。
精算管理事業部からの通知も届いているだろうし、一度こちらから電話した方が良いかもね」
事務担当の先輩、田中が気まずそうに言った。
「そうですね。
ナロ管理になって、一回目の水道代請求ですもんね」
裏野ハイツは、築の古い物件によくある、水道代請求がアパート一括になっているタイプだった。
各部屋に、使用水量を確認するメーターはあるが、水道局からはオーナーに全戸分請求が来るので、オーナー側が入居者より水道代を徴収しないといけない。
裏野ハイツでは、入居者に請求するのは使用水量分だけで、水道局と同じ金額設定である。
物件によっては、メーター設置費などを上乗せする場合もあるが、このハイツは良心的な方で、一括請求の際の料金割引もないので、オーナー側が得をする水道料金支払いシステムになっていない。
管理先が変わっても、このシステムは変わらず、ナロが上乗せ請求することもない。
だが、5月に高橋が水道メーター検針し、それを元に事務担当の3人が金額を算出した際、重大な問題に気付いた。
※水道代は2ヶ月に1回検針し、請求している。
前回は管理前の3月に検針していたので、ナロが水道代請求するのは5月分が初めてである。
ピピピピ
伊藤のデスク固定電話の内線ボタンが光る。
「まさか」と思いながら、受話器を取る。
「はい、伊藤です」
『裏野ハイツの103号室の山崎様が水道代の件で聞きたいことがある、と仰っています』
「電話は誰? 奥さん?」
『いえ、ご主人様です』
(うるさい方だ・・・)
伊藤はパソコン画面に入居者情報を出しながら、電話を自分に繋ぐよう指示した。
保留音が数秒流れた。
◇◆◇
「お電話変わりました。
賃貸マンション管理事業部Aエリア事務担当の伊藤と申します」
『あの、水道代高いんですけど。
何、ぼったくろうとしているんですか?』
少し高めの男性の声が、明らかな怒りを含めて、伊藤の耳に流れ込んできた。
「水道代については、ご案内をお送りしておりますが、ご確認されましたでしょうか?」
『見ましたよ。
おかしいでしょ、有り得ないでしょ?
何で使用量は変わってないのに、こんなに金額上がっているんですか?
大手の会社って、こんなところで金をふんだくるんですね』
「恐れ入ります、山崎様。
水道代については、市町村の水道局と同じ金額設定基準です。
ですが、弊社で管理する以前の基準が、現在の基準と異なっていた為、今回から金額が変わっているのです」
『だーかーら!
その基準って何ですか?
俺、ここに2年位住んでますけど、何でこんな一気に上がるんですか?
あり得ないでしょ? 証拠あるんですか?』
山崎の口調が徐々に激しさを帯びていく。
裏野ハイツのオーナー兼管理人だった松本は、新築当初から使っていた金額基準表を元に水道代を入居者に請求していた。
30年も前の金額目安で計算されていた為、当時よりも金額が上がっている現在の基準に照らし合わせると、金額差が出来てしまうのだ。
松本はこれまで、水道局が請求する金額と、一つ一つ回収していた入居者水道料金に差額があることに気付いていなかった。
ナロでも、メーターの数字が書かれた一覧は事前に受け取っており、その際「水道局と同じ設定」だと聞かされていた。
だが、松本が入居者請求額の一覧を作成していなかったので、管理開始前に差額について知ることはできなかった。
事務担当の田中が、前回と請求額に誤差が無いか確認したいと要望し、そこで初めて林を通して、松本に手書きの帳簿を確認してもらい、入居者から徴収していた金額を知ることができた。
佐藤と鈴木が、この件を新オーナーの林に報告すると、林は現在基準で請求するよう要求した。
急な金額上昇で、入居者からの反感を買うことは目に見えている為、初回だけ差額半額をオーナー負担するという折衷案を出したが、聞き入れられなかった。
ナロが負担する訳にもいかず、急きょ掲示板や投げ込み書面、請求書同封で入居者に案内した。
電話問い合わせ(アベは苦情)が何件か入ったが、無事に水道代を回収することができた。
しかし、103号室だけがこれに応じなかった。
「お送りしたご案内文に、これまでの設定基準と現在の設定基準の表を記載させていただいております。
また、現在の金額設定基準につきましては、水道局のホームページでもご確認いただけます」
『そういうことを聞いているんじゃない!
何で、あんたらは、そうやっていきなり訳の分からない金を請求するんだ?!
この間の、賃料振込みだってそうだ。
今までいらなかったのに、お前らが管理することになってから手数料払うことになったんだぞ!
あんたら大手からすれば、ちゃっちい金でも、俺らからすれば、貴重な金なんだよ。
こっちは小さい子どももいるんだ!
ナメた真似すんじゃねーぞ!
こっちは家賃払ってんだぞ!』
(何が家賃払っているだ。
先月・先々月分は月末ギリギリ。今月分は未払いのくせに)
伊藤は喉元から飛び出しそうになった言葉を必死でこらえながら頷いた。
「水道代につきましては、突然の変更でご迷惑をおかけし、深くお詫び申し上げます。
ですが、水道料金は山崎様がお使いになられた分だけを請求しておりますので、何卒お支払いご協力くださいますよう・・・」
『協力しろだって?
そっちは、ミスして何の誠意も見せないくせに?』
(しまった・・・)
『基準が違うのは、そちらのミスでしょ?
管理会社が変わったからって、何で今までのやりかたを変えなきゃいけないんだよ?
振込み手数料だってそうだ。
嫁を言いくるめて、振り込ませたみたいだが、あんなのも詐欺だぜ。
数ヶ月前に紙切れ何枚か送ったくらいで、誰が知らないところに振り込むかよ。
松本さんは、きちんと家まで来てくれて、現金で受け取ってくれたぞ』
管理を始める前に、管理人やオーナーが変更するという案内書類を各世帯にナロは送っている。
高橋が数回に渡り訪問し、可能な範囲で対面説明も施した。
103号室についても、山崎の妻と話をしているが、夫の方とは話せていない。
「山崎様の奥様に説明した。
管理人が会社になるので、これまでと同じ方法では対応できない」
と、言ってみても、この男には意味が無いだろう。
このままへりくだれば、向こうは調子に乗り、金を踏み倒す理由を無理やり作ろうとするだろう。
伊藤は意を決して、背筋をピンと伸ばした。
「恐れ入ります。
裏野ハイツを管理させていただくにあたりまして、弊社は、オーナー様、ご入居者様のご負担を最小限にするべく対応しております。
管理人変更や、諸手続き変更につきましても、弊社は適切なスケジュールの元、実施しております。
ですが、山崎様の仰る通り、今までの管理方法とは大きく異なる点がいくつかございます。
その点については、ご入居者様・オーナー様双方のお声を聞き、随時対策していく次第でございます。
しかし、弊社で管理させていただく以上、ご了承いただきたい部分もございます。
今回の水道代については、あくまでも現在の基準でご請求しているだけです。
山崎様が当時オーナー様と取り交わされた契約書条文にも、『借主が使用する電気・ガス・水道・電話等の使用料金は、借主が負担する』と記載されております。
このままお支払いいただけぬようでしたら、山崎様の契約違反でございます」
※借主とは、貸主と契約を取り交わした、部屋を借りる者、つまりは入居者・住民である。
(借主=入居者ではない場合もある)
『はっ!? お前、俺を脅してんのか!?』
「いいえ。事実をお伝えしております。
現に、山崎様は4月分・5月分賃料支払い遅れ、6月分賃料未払いの状況です。
弊社の賃料回収を担当しております、精算管理事業部からも通知が届いているかと思います。
適切なお支払いを実施していただかないと、契約書条文記載内容と、弊社のガイドラインに基づき、訴訟も視野に、しかるべき対処をせざるを得ないことになります」
『ふ、ふざけるなよ・・・』
受話器の向こうの男は、先程とは異なり、急に声が小さくなった。
淡々とした反撃が効いてきたようだ。
思わず口元が緩むのをこらえ、伊藤は最後の畳み掛けを始めた。
「極端なお話をして申し訳ございません。
山崎様もお忙しい中、いつもご対応ありがとうございます。
オーナー変更は、ご入居者様にとって、非常に混乱するものかと思います。
ご不明な点がございましたら、24時間いつでも電話対応いたしますので、お気軽にご連絡ください。
ですが、お支払いに関しましては、なるべくお早めにお手続きしてくださいますよう、何卒よろしくお願い申し上げます」
『うう・・・。分かりましたよ・・・。
給料が入らないと払うのが難しいだろうから、もう少し待ってくれないかな?』
「申し訳ございません。
私は賃料回収担当ではございませんので、お支払い期日については、精算管理事業部にお問い合わせください。
電話番号は・・・」
これで終わると思っていた矢先、すっかりおとなしくなった山崎から別件の苦情が入った。
『すみません、この間入居してきた上の階の人。
テレビの音はマシになったんですけど、友達が来るのか、深夜まで話し声が聞こえるんですよ。
俺や子どもは聞こえてても寝ちゃうんですが、嫁が眠れないらしくて・・・。
また、103号室が困っているって、注意してもらえますか?』
「かしこまりました。
前回同様に、弊社から203号室ご入居者様に電話連絡するという方法でよろしいでしょうか?」
『それでお願いします』
一言二言挨拶を交わし、伊藤は受話器を置いた。
通話時間約15分
最後に意地の噛みつきをされたのもあり、時間がかかった。
「お疲れ」田中がサラリと声をかけた。
「でも伊藤さん、あれは脅しよ」
「そうですか?」
伊藤は髪を掻き上げながら言った。
「君のやりとり聞いているこっちも怖かった」
エリア長の佐藤も苦笑いした。
「まぁ、でも、頼もしい限りだ。203号室にも電話するのかい?」
「はい。これからすぐにやります。
今日こそは、残業したくないんで!」
そう言って、伊藤はパソコン画面を裏野ハイツ203号室入居者情報ページに変えた。