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謝罪

受話器の向こうで、橋本桃の身に起きた出来事に、伊藤は・・・

 夏休みが始まった7月後半の日曜日。

 困る位の快晴。

 プールや海水浴場などのレジャー施設は、楽しい声で溢れかえっている。


 ナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部フロアは、太陽の光をビル壁とブラインドが遮断し、快適な空調を保っていた。


 伊藤は受話器を左手に持ったまま、呆然を座っていた。


 他の事務社員達も心配そうにAエリアの様子を見ていたが、木村が「大丈夫です」と声をかけた。


「伊藤さん、あとは私がやりますから、一旦休んでください。

 警察も高橋さんも裏野ハイツに向かってくれています。

 万が一、何かあっても、ちゃんと対応してもらえますからね」


 色白く細い身体をした、骸骨の様な外見の木村だが、意外にしっかりとした口調で伊藤に話しかけた。


 木村は伊藤を立たせ、フロアを出て休憩室まで一緒に歩いた。


 伊藤は黙っているものの、非常に混乱していた。


 受話器越しに聞いた会話や物音や声が、自分の意思とは関係なく反芻した。


     ◇◆◇


 その後はめまぐるしく、Aエリア担当チームは対応に追われた。


 裏野ハイツから10数m離れた先の曲がり角で、203号室住民とトラックが激突した。


 橋本桃は即死だったようだ。


 その道は、高速入口の抜け道として、度々トラックがスピードを落とさずに通ることで知られていた。


 警察の要請で、業務担当の高橋とAエリア長の佐藤が、裏野ハイツに呼び出された。

 橋本桃の母親から承諾を得た上で、警察とナロ社員が203号室に入室した。


 ベランダの鍵はかかったままで、取り込んだ洗濯物がそのままベッド上に積まれていた。

 冷蔵庫には、酎ハイや発泡酒の缶がぎっしり並んでいたそうだ。


 警察より、橋本は事故の数時間前まで、大量のアルコールを摂取していた可能性があることが報告された。


 それらはニュースでも取り上げられ、不運な事故は一変した。


 馬鹿な学生が未成年飲酒した。

 専門学校の飲酒指導はどうなっているのか。

 親の責任は?


 世間がこの事故を自業自得と判断する前に、伊藤は不法侵入した人物がいるという疑いを訴えた。


 事故直前まで、橋本と通話をしていた彼女も、警察に質問をされる機会があった。



「この耳で確かに聞いたんです。

 橋本様は、ベランダから部屋に誰かが入ってきたのに驚いて部屋を飛び出したんです。

 私達が警察に電話したのも、その為なんです」


「橋本さんが持っていた携帯電話の発信履歴には、確かにナロに電話した記録がありました。

 でも、時間はほんの3分程度。

 この3分間は、ナロさんの記録だと、コールセンターがあなたに繋ぐまでの時間になっています。

 あなたが電話に出た時には、既に通話は終了していたのですよ」


「それじゃあ、私が聞いたのは、何だって言うんですか!?」



 木村がボタンを押したはずの簡易録音にも、伊藤と橋本のやり取りは残っていなかった。

 固定電話にあるスピーカーから声が聴けるハンズフリー機能も全く作動しなかった。


 事故の後は問題なく、録音やハンズフリーが使え、本体の故障ではないようだった。


 伊藤が話したことは何の証拠にも参考にもならなかった。

 以前から暴走気味と称されていた彼女は、二日間の謹慎を命じられた。


     ◇◆◇


 謹慎期間が終わり、中番で伊藤は出社した。


 早番の田中は、あからさまに不機嫌な顔を伊藤に向けた。


 エリア長の佐藤や、事業部部長も同じフロアにいた。


 伊藤はフロアにいる社員達に、謝罪の挨拶をして回り、ようやくデスクに戻った。


 田中が退社した後、同じく中番の木村がこっそり話しかけた。


「事故があった次の日に、103号室の山崎様が部屋を解約すると連絡がありました。

 電話は旦那さんからだったみたいです。

 旦那さんいわく『妻から解約キャンセルの連絡が入っても絶対に受け付けるな』とのことでした。

 実際、今朝までに4回奥様から連絡が入って、その度に旦那さんに確認しました。

 ちなみに、奥様のキャンセル理由は『何でも相談できる紫野さんと離れるのが不安だから』だそうです」


 伊藤は、山崎の息子の独り言がひどいと電話を受けたことを思い出した。


「それから、102号室の清水様も突発解約されました。

 事故発生翌朝には、もう居なくなっていたようです。

 警察が訪問しても居留守するので、合鍵で開けてほしいって要請があった矢先にです。

 入室すると、荷物とか全部放置だったみたいです。

 月曜日には家賃1年分並みの金額がナロに振り込まれていて、火曜日に届いた書面には、解約意思表示と荷物処分依頼が書いてありました」


 清水の行動に、伊藤は少し納得していた。


 事故後数日間、取り調べや裏野ハイツに関する資料提出に追われていた伊藤には、それらの情報が入っていなかった。


 問題児・・・の出社に、フロア全体がやや緊張している中、伊藤は淡々と月末に向けて溜まった業務を片付けていた。


     ◇◆◇


 ピピピピ


 夕方頃、佐藤が内線で、事務サポーターと話を始めた。

 そして、保留にした。


「伊藤さん、裏野ハイツオーナーの林様が君と替わってほしいと言っているんだ。

 本来なら今の君に繋ぐ訳にはいかないんだが、林様がどうしてもと言われるので、電話に出て、丁重に謝りなさい』


(謝るって、何を?)


「分かりました。替わります」

 疑問を抱きながらも、伊藤は受話器を取った。


「お電話替わりました。

 裏野ハイツ事務担当の伊藤と申します」


『裏野ハイツ貸主の林と言う者だが、あなたが伊藤さんですね』

 

 事務的で威圧的な話し方をする男だった。


『あなたのおかげで、私のところは非常に迷惑しています』


(私のせい?)


「それは、大変申し訳ございませんでした。

 恐れ入りますが、何かございましたでしょうか?」


『警察から言われましたよ。

 裏野ハイツで不法侵入があったと訴えている社員がいるとね。

 ただの事務員には分からないんでしょうが、あの街もハイツも、治安の良さが売りなんですよ。

 それを、あなたが何の根拠もない噂を広めるから、私も恥をかきましたよ。

 私にナロを紹介してくださった、ウチの上司にも迷惑をかけた。

 あなたが余計なことを言わなければ、あれはただの事故で終わったはずなんですよ。

 まぁ、あんな低能な小娘を入室させる辺り、ナロも程度が知れますね』


 伊藤は段々苛々してきた。


 今回の件について口外しないという誓約書を、警察の指示で書かされている。

 当然、不法侵入の疑いのことも、事故以降は一切社内でも触れていない。


 にも関わらず、林は一方的な決めつけで非難してきている。


 伊藤の性格の、最も駄目な部分が出てしまった。


「恐れ入ります、林様。

 私は事故直後、警察の指示もあり、一切を口外しておりません。

 恥ずかしながら、謹慎処分で自宅待機し、同居人以外とは連絡も取っておりませんでした。


 ベランダから覗かれているかもしれないという相談は入っておりましたので、それについては適切な対応をとるべく、メンバーと共有しております。


 治安の良さと仰られましたが、相談が入っていたのも事実です。

 これらは定期レポートで、林様にも報告させていただいているはずですが、お読みにならましたか?」


『な、何なんだ、君は!?

 どうせ派遣の事務だろ?

 誰に対して、口を聞いているのか分かっているのか?!』


 林の声は、当然ながら怒りを帯びていた。


『こっちはな。

 馬鹿な住民がいる上に、死人が出たハイツの持ち主という肩書をつけられたんだぞ。

 取り壊したところで、土地が売れるのも難しい。

 私はこのゴミを一生抱えていかなくてはならないんだぞ。

 損害賠償を請求すべき案件だぞ。

 どうせ、あんたには理解できないだろうけどな』

 

「裏野ハイツについては、林様が弊社と管理契約を継続される限り、可能な範囲でサポートいたします。

 ですが、物件を良い状況で維持していく為には、オーナーである林様のご協力が必要です。

 業務担当者がお電話や訪問にて、何度か防犯カメラ、外灯設置等のご提案をしましたが、林様は全てお断りになられました。

 それは、治安が良いから、不要だったということでしょうか?」


『あんたは、何を考えているんだ。

 今回の一件を全て、私の責任にするつもりかね?

 一体、ナロはどういう神経をしているんだ?

 知り合いの弁護士に相談すれば、すぐに名誉棄損、契約違反、損害賠償で訴えられるぞ』


 林は荒立った口調で、かつ、相手を見下した心情をたっぷり含めて言った。

 残念ながら、それは伊藤に通用しない。


「左様でございますか。

 誠に残念ではございますが、その際は弊社は誠意を持って対応させていただきます。

 この度は、林様に大変ご迷惑をおかけして申し訳ございません」


『たかが派遣事務一人の為に、そんな無駄なことを会社がする訳ないだろう。

 女なんて、はなからその程度のもんだ。

 切られても、次を探せば良いとどうせ思っているだろう。

 あなたのことは、後でしっかり佐藤さんから聞いておきますよ。

 私は様々な企業の人事担当とも、話をする機会が多いのでね』


「だから?」


『へ?』

 伊藤の切り替えしに、林は思わぬ声を上げた。


「林様が、色々なお方と話ができるから、その方々と同じお力をお持ちだと言うのですか?

 関係ないと私は思いますが。

 そして、問題は裏野ハイツを今後どうしていくかということです。

 それについて、弊社と林様が協力して取り組む必要がございます。


 ところで林様は随分と偏ったお考えのもとで、私とお話されていらっしゃるようですね・・・」


 スイッチが入った伊藤はもう止めることができなかった。

 

「こっちは毎日必死で入居者対応しています!

 事務? 派遣? 女?

 そんなもの関係ありません!

 上から目線でものを言われる筋合いもありません!!

 馬鹿にするな!!!」


「伊藤ーーー!!!!?」


 佐藤が強引に受話器を取り上げた。

 電話機が引っ張られるのも気にせず、ベコベコ頭を下げて、電話の向こうの相手に謝った。


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