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携帯電話

 裏野ハイツ203号室の橋本桃のことが気になる伊藤だが、特別何も起きないまま7月は過ぎていく・・・

 7月が大分身体に馴染んできた頃。


 シフト制勤務の彼女は、日曜日も当たり前のように出勤する。

 早番の為、ほとんど乗客のいない始発電車に乗るのだが、今日はいつもよりも若干人が多い。

 家族連れがいる。

 麦わら帽子やクーラーボックス、カラフルなリュックサックやビーチサンダルが目に入る。


(ああ、そうだ)


 夏休みが始まったのだ。

 そんなものとは、全く関係ない伊藤は、襟がパリッとしたブラウス姿で、背筋を伸ばして座っていた。


 ナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部も、変わらぬ様子で動き続けていた。


 出社後、伊藤は引き継ぎ事項を確認する。

 裏野ハイツ203号室橋本桃からの連絡は、今日もなかった。


 7月頭のクレームメール以降、彼女とは連絡が繋がっていない。

 ナロからメールを返信し、書面投函もしている。

 数日間連続して電話もかけた。

 しかし、全く反応がなかった。


 伊藤は、自分が勝手に準備した封筒を読んだか、それとも別の理由の為、橋本が裏野ハイツにいないのではないかと思った。

 そうであれば、むしろありがたいと思っていた。


「おはようございます、伊藤さん」

 木村が朝6時ギリギリに出社した。

 瞼が半分しか開いていない。


「おはようございます。

 木村さん、早番なんですか?」


「はい・・・。

 業務とシフト調整の結果、どうしても今日は早番じゃないと駄目だったので」


 彼女の声は暗かった。

 本当に朝が苦手なんだな、と伊藤は思った。


     ◇◆◇


 午前中は静かに過ぎていった。


 ここ最近、裏野ハイツ含め、他物件からもこちらにクレーム電話がこない。

 フロア中央の事務サポーター達が淡々と処理をしている。

 顧客管理用掲示板のクレーム報告書もほとんどが修理依頼で、大半はエアコンに関わるものだった。


 101号室の阿倍緑瑚からも設備不具合の電話が入っていた。

 通話時間を見ると、5分以内で終わっている。

 事務サポーター達も阿倍の扱いに随分慣れたのだろう。


 午前10時を過ぎ、伊藤は木村に休憩に入るように促した。


「ありがとうございます。

 それじゃあ、お言葉に甘えて・・・」


 木村はフラフラしながら、フロアを出て行った。


 眠気に襲われてたらしく、木村は椅子に座っている間、上半身で大きく円を描いていた。

 慣れない時間に仕事をするのは、非常に大変なようだ。

 

 午前10時から昼にかけて、取引先との連絡の取り合いが続く。

 伊藤は電話のやりとりを、テキパキこなした。

 取引関係の電話は、どうしてこうもやり易いんだろうと思った。


 ※取引先の会社等には、各フロア直通の電話番号を伝えている。

 直通電話は、9~18時以外は繋がらないようになっている。


 ピピピピ


 十本の指が軽快にキーボードを叩いていると、内線呼び出し音が鳴った。

 伊藤はビクッと手を止めた。


「はい、伊藤です」


『伊藤さん、裏野ハイツ203号室の橋本様よりお電話です。

 用件はお伺いできませんでした』


(来た!)

 伊藤は背筋をビシッと伸ばした。

 橋本桃の情報ページを開く。


「分かりました。繋いでください」


 数秒保留音が流れ、パチッと切り替わった。


     ◇◆◇


『・・・・・・あ』

 若い女の子のあどけない声が聞こえた。


「お電話替わりました。

 裏野ハイツ事務担当の伊藤と申します」


『あ、あの、もぉほんとどうしたらいいか分かんないですけど』


「橋本様、どうかされましたか?」


 伊藤は内心ドキドキしながら尋ねた。

 彼女は封筒を見たのだろうか?


『ヤバイんです。

 隣からドンドンって音がしたり、地震みたいに揺れたり。

 でも地震速報とか出てないし。

 今朝、部屋に帰ったんですけど、ベランダのカーテンちゃんと閉めれてなくて、隙間からめっちゃ部屋覗かれてて。

 マジ怖くて今、襖閉めてキッチンにいます。

(※裏野ハイツ各部屋には、LDKと部屋の間を区切れるようにふすまがある)

 親とか友達とか全然電話もメールも繋がらないし、ほんとあり得ない。

 何なんですか?

 こんなの、聞いてないんですけど?

 隣、ほんとキモいんですけど。どういうことなんですか?

 普通、こんな変な奴隣に住んでたら、紹介しないですよね?』


 橋本はようやく話せる状況になったからか、ひどく早口でまくしたてた。

 朝帰りで酒が入っているのか(10代なのでもちろん駄目なことだが)、興奮した様子になっている。


 伊藤はそんな橋本の話を親身になって聞き、今自分が言えることを伝えようとした。


「かしこまりました。

 業務担当スタッフにこれから現地に向かえるか確認いたします。

 しかし、すぐに伺えない可能性がございます。

 恐れ入りますが、橋本様より警察に連絡をとって、ハイツに来てもらうようにしてください。

 誰かがベランダに入って室内を覗いていたことは、警察に相談した方が良いと思います」


『その警察にも繋がらないんじゃん!

 そっちが投函した紙に書いてあった番号に電話しても全然繋がらないし。

 本当、ムカつくんだけど!』


「左様でございますか。

 誠に申し訳ございませんでした。

 では、私の方から警察に電話をし、橋本様に電話をするかハイツに向かうよう依頼します」


『いやっ!

 お願い、切らないで!

 色んなところにかけて、やっとこれが繋がったの!』


 橋本の声は、震えていた。

 事態は思っている以上に深刻なようだ。


「では、このままの状態で、交番に向かってください。

 場所をご存じでなければ私が地図を見ながらご案内いたします」


 そう言って、伊藤はカタカタとパソコン画面に地図を出した。

 素早く裏野ハイツから最も近い交番を探す。


『え・・・外に出るんですか?』


「はい、一度部屋を出られた方がよろしいかと思います」

 伊藤は努めて冷静に話しかけた。


『でも、そうしたら、202号室の前を通らなきゃいけない・・・』

 橋本の声に涙が入り混じっている。


 ※裏野ハイツの外階段は、1号室側にしかない。


「貴重品はお持ちですよね。

 ご不安かと思いますが、一旦そこから離れて避難してください。

 そっと出れば、ベランダに人が居ても、相手に気付かれないかもしれません」


 伊藤はフロアを見渡す。

 日曜日の昼前。

 外回りの社員は全員不在で、残った事務も少ない。

 不運なことに、皆電話中である。

 これでは、誰かに高橋か警察に連絡をとるよう依頼もできない。


『でも・・・でも・・・

 ひっ・・・!』


 受話器の向こうで、橋本は何かに反応したようだ。


「橋本様、どうかされましたか?」


 伊藤は、左手で受話器を持ったまま、右手で自分の引き出しに手を伸ばす。

 バッグから自分のスマホを取り出そうとした。


『あああ・・・・』


 橋本の様子が先程と、明らかに違うものになっていった。


「橋本様? 大丈夫ですか?

 お願いですから、電話は切らないで、私の声を聞いてください」


 伊藤は通話と同時にスマホの画面を叩き、高橋にメッセージを送ろうとした。


『どうして・・・・?

 ベランダの鍵かけてたのに・・・何で・・・?』


(誰かが侵入したの!?)


「橋本様! 早く部屋から出てください!」


 伊藤の声が大きくなる。

 焦ってスマホを撫でる操作を間違える。


『あんた・・・あんたなの・・・?

 嘘でしょ?』


「橋本様!?」


 伊藤の固定電話に、骨の様に細い手が伸びた。

 その指は、「録音」と「ハンズフリー」のボタンを押していた。


「あれ、反応しない?」

 その手の主は木村だった。

 休憩から戻った彼女は、伊藤のパソコン画面を見ていた。


『ち、違う・・・。

 私は、言われたからやっただけ。

 本当は、あんなことしたくなかったの・・・』


 橋本の声が小さくなる。

 顔から携帯電話を離してしまったのか。


 通話中の伊藤の手元にメモが置かれる。


《何をすればいいですか?》


 伊藤は素早く書き込む。


《けいさつTEL。

 ふほうしんにゅう》


 ひらがなだけの雑な字だが、木村はコクリと頷き、自分のデスクの受話器をとった。


 あれは、私じゃない!

 私は何もしていない!

 練炭を用意したのは、☆☆と△△よ!

 私は関係ないし、知らない・・・・!

            』


(何を話しているの?)


 受話器に耳をぴったりつけ、遠くなった声を伊藤は必死で聞いた。


 キャー!


〈ガタンッ! バタンッ!

 ドタドタドタ!〉


 来ないでぇ・・・!

            』


 橋本は完全に何かに怯え、そして取り乱し、物音を立てている。

 唯一の救いは、彼女が携帯電話を持ったままでいてくれていることだ。


『〈カンカンカンカン〉』


(階段を降りているのかしら?)


 ハァハァハァ・・・

 お願い、もぉ、来ないで・・・


 ああっ!?


〈キキーッ! ドカンッ!!!

 ガシャンッ!

 ガガガガガガガ・・・〉』


「橋本様!?

 橋本様、聞こえますか!?」


 橋本桃の大きな声が最後に聞こえ、その後激しい衝突音が続いた。

 その中に、車の急ブレーキのような音も聞こえた。


 かろうじて、通話状態のままのようだ。

 伊藤は必死で語りかけた。


「橋本様! 返事をしてください!」


 周囲のメンバー達もAフロアの異様な雰囲気に気付き、手を止めてそちらを見ている。

 木村は警察との連絡を終え、高橋と佐藤に連絡を取っていた。


『ズ・・・ズズズ・・・ズ・・・・』


 何かを引きずるような音が、受話器の向こうから聞こえてきた。

 その音は、徐々に大きくなってきた。


「橋本様?」


『キャハハッ☆★☆』


 妙に甲高い笑い声が聞こえ、その後プツッと通話は切れた。


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