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接近

 203号室の橋本桃が、202号室の池田透厘に狙われているかもしれないと思った伊藤は・・・

 休憩から戻った伊藤は、淡々と静かに仕事をこなした。

 清水からの電話以降、事務サポーターからこちらに振られることはなかった。


 定時15分程前から、伊藤は仕事を片付け始め、トイレで化粧を直すなど、帰宅の準備を始めた。

 そして、隣で作業している木村に気付かれぬように、裏野ハイツの住所をこっそり手帳に書き留めた。


「お疲れ様です」

 デジタル時計の数字が、23時に切り替わったと同時に、伊藤はバッグを肩に掛けてフロアを去った。


 本社ビル近くのコンビニに入り、ATMで金をおろし、無地の封筒を購入した。


 その金を、勤務中に作成した書面と一緒に封筒に入れる。

 バッグからテープ糊とボールペンを取り出し、糊付けし、封筒に宛名を書いた。


 橋本桃様へ


 封筒の中身は、裏野ハイツ203号室の1ヵ月分家賃と、「8月を過ぎるまで裏野ハイツに帰るな」という内容の書面と、7月の自分の出勤予定日だ。


 管理会社の社員として、この行動は認められないものだと分かっている。

 それでも伊藤はこの嫌な予感を信じ、電車に乗った。


     ◇◆◇


 裏野ハイツ最寄り駅に到着し、伊藤は電車を降りた。

 小さな駅だが、急行電車も停まる。


 主にワイシャツ姿の男性達がゾロゾロと、ホームを歩き、出口へ向かう。

 男達が自分を追い越す時、チラリと振り返っているのを、伊藤は慣れた様子で無視した。


 改札を出て、スマホ画面を見ながら周囲を見渡す。

 裏野ハイツまでの道のりをナビゲーションアプリで確認する。


 駅を出てすぐは、タクシー乗り場とバス乗り場になっていた。

 一緒に電車を降りた客が数名、タクシーが来るのを並んで待っていた。

 黄ばんだ色味の蛍光灯が、点々と駅広場に立っている。

 近くにある小さな書店や弁当屋は、既に閉まっていた。


 少し先にあるコンビニチェーン店内が発する青白い光が見えた。

 伊藤はコンビニの方へ向かって歩いた。

 店を横切り歩くと、車が行き交う大通りに出た。


 日中の渋滞から解放されたかのように、トラックも乗用車も悠々と走っている。

 車のヘッドライトと小刻みに並ぶ街灯が、大通りを歩く人々の姿をほんのり分かる程度に照らす。


 伊藤は右に曲がる。

 その時、振り返って反対に曲がった先にあるビルを見る。

 橋本桃が通っている専門学校の看板の形が黒く浮かぶ。


 ナビゲーションによると、裏野ハイツは伊藤が歩く方向の先で小道に入るようだ。


 両側に、深夜営業しているファミレスや居酒屋チェーン店が並んでいる。

 安値が売りの居酒屋の前を通った時、賑やかな声が漏れ聞こえた。

 今は閉店中の中型スーパーマーケットやドラッグストアも並ぶ。

 他にもコインランドリーに郵便局と、生活する上で便利な施設が駅近くの通りに集中している。


 裏野ハイツがあるこの町は、閑静な住宅街として人気が高い。

 古いアパートであっても、若い女の子が家賃の安さと立地の良さで選ぶのもおかしくない。

 隣に誰が住んでいるのか知る術が無い以上、橋本桃がここに引っ越すのも無理はない。


 カツカツカツ


 自分が履いている7cmヒールの音が一番近くに聞こえる。


 だが先程から、背後を誰かが歩いている気配を感じる。

 両足を纏う布同士が擦れ合う音。

 微かに聞こえる荒めの息遣い。


 途中曲がる道もあったが、人の気配は消えない。

 一定の距離を保って、ついて来ているようだ。


 伊藤は肩に掛けていたバッグを身体の前に寄せ、スマホを取り出した。

 思い過ごしであることを祈りながら、歩道側にコンビニなど入り込める店はないか探した。


 ハッハッハッ・・・


 背後の気配が近くなっている。

 首筋がむず痒くなる。

 心臓の鼓動が速まり、逃げたしたい感情に襲われる。

 しかし、走り出せば、追いかけてくるかもしれない。


 徐々に、息遣いや足音がはっきりと自分の耳に届いてくる。


(もしかして、清水?)


 伊藤はごくりと息をのんだ。

 散々相手を挑発した日に、わざわざ裏野ハイツに向かおうとしている。

 清水もそれを読んで、待ち構えていたのか?


 背後の気配が、受話器越しの不快感と同じような気がしてきた。


(助けて・・・)


 伊藤はあらかじめアドレス登録していた警察署へ電話をかけようとした。


 ダッ!


 相手の動きが一気に加速する音が聞こえた。


(来る・・・!)


 伊藤は走り始めようとした。

 だが、肩を掴まれた。


「美~紅ちゃんっ」

 低い男の声が、夜の闇を通し、重く耳に入る。


 伊藤は振り向き様に、スマホを持った右手を振りかざした。


     ◇◆◇


 バキッ!


「いってぇ!」


 男は横っ面にスマホの角を思いっきりぶつけられ、長身の体躯を折り曲げた。


 腕まくりをしたワイシャツ、紺のストライプ地スーツのズボン。

 左手首のシルバーのゴツい腕時計は見覚えがある。


「す、鈴木さん?!」

 伊藤は、平静を取り戻し、普段の職場と変わらぬ声で言った。

「どうしたんですか? 何でここにいるんですか?」


「それはこっちが言いたいよ。

 美紅ちゃんの家、この辺じゃないだろ?」


 頬を擦りながら、鈴木は上半身を起こした。

 昼間よりも、胸元のボタンを多く外していて、細いチェーンネックレスが見え隠れしている。


「俺はそこの居酒屋で友達と呑んでたんだよ。

 大通りが見える席なんだけど、美紅ちゃんみたいな女の子が通り過ぎたから、まさかと思ってね。


 美紅ちゃん、裏野ハイツに行くつもりだったのか?」


 伊藤はじっと黙った。

 自分が何をしにここに来たのかを、言うわけにはいかない。


「とにかく、駅に行こう」


 仕方なく伊藤は鈴木と並んで来た道を戻ることにした。


 歩きながら、鈴木は煙草を取り出し、カチャッとライターで火をつけた。

 街灯に照らされ、夜の町に白い煙がくっきり浮かぶ。


「終電、間に合わないかもなー。

 一緒にタクシー乗って、俺の家に来る?」


 鈴木は酔っているのか、昼間よりも馴れ馴れしくなっている。

 事あるごとに、伊藤の肩に手を回そうとするので、その度にパシッと振り払った。


「冷たいな~、美紅ちゃん。

 ところでさ、何で裏野ハイツに行こうとしたのさ?」


「・・・」伊藤は沈黙を続けた。


「黙っているってことは、本気で行こうとしてた訳?

 美紅ちゃん、ほんとアツイよね~」


 そう言いながら、鈴木はズボンのポケットからさっと携帯灰皿を取り出し、煙草の火を消した。

 高級ブランドそうな灰皿ケースをチラリと見て、伊藤はこの男の隙の無さにムカついた。


「マジメな話。

 美紅ちゃん、ちょっと裏野ハイツに首を突っ込み過ぎるというか、暴走気味になっているよ。

 佐藤さんや田中さんに要注意ってことで、目をつけられているぜ。

 もっと上の方にも、話が行っているみたいだし、おとなしくした方が良いぜ。

 最近、高橋を利用して、勝手になんか色々しているだろ?

 美紅ちゃんがいない時に、田中さんが『ウチの社員に色目使って、振り回している』って言ってるぜ。

 ま、それは、田中さんの嫉妬フィルターが大分厚めに覆われている感じだけどな」


 伊藤は鈴木の方を見る。

 彼の顔に、先程のヘラヘラした様子は見られない。


 自分がいない所で、そのように言われるのは不愉快極まりないが、全く否定できない部分もある。


 確かに、根拠も無いまま、勝手に行動しているのは認める。

 清水が言っていたことをどこまで信じて良いのか微妙な点がいくつもある。

 自分で調べた掲示板の噂だって、情報としての価値を見出すべきかは迷うところだ。


 それでも、ただ、事務所で電話を待っているだけでは、自分が納得できないのだ。

 橋本桃は、二度も不安を訴えてきた。

 受話器の向こうで悲鳴も聞こえた。

 彼氏がいるとか関係ない。

 女性の一人暮らしが、どれだけの不安と共に過ごさないといけないのかを、伊藤は知っている。

 余計なお世話になっても良いから、何らかの手助けがしたかった。


「・・・鈴木さん、お願いがあります」

 大通りを曲がり、コンビニがある道を歩きながら伊藤は言った。


「今晩泊めてほしいのかい?」鈴木は冗談ぽく言った。


「これを、203号室のドアポストに投函してほしいんです。

 今日はその為に来ました。

 中身は見ないでください。もちろん、誰にも言わないでください」


 伊藤はバッグから封筒を取り出し、鈴木に渡した。


「何が入っているんだ?」


「お願いです。聞かないでください。

 もう今後、このような勝手なことはしませんから。

 ただ、その封筒だけは橋本桃に渡したいんです」


 鈴木は黙ったまま、封筒と伊藤を見る。

 伊藤の目は、媚びた様子もなく、ただ純粋に彼を見据えていた。


「分かったよ・・・。

 近いうちに、俺が行くか、高橋に行かせるよ。

 だから、美紅ちゃん、今日はもう帰るんだ。

 もう終電過ぎているだろうから、そこのタクシー乗り場の方に行こう」


 鈴木は封筒をパンツの尻ポケットに入れた。


     ◇◆◇


 鈴木は電話でタクシーを呼んだ。


「怖いなら、一緒に帰ってあげるけど」


「大丈夫です。ご心配なく。

 鈴木さんこそ、こんな時間まで飲んでるってことは、近くに泊まるアテがあるんですか?

 鈴木さんの家も、ここじゃないですよね?」


「ん、まぁ、俺のことはいいから」


彼女と彼女のどちらの家に泊まる予定だったんですか?

 鈴木さんの彼女さん、国内線のCAって聞きましたけど。

 ここから空港って凄く遠いですよね」


「え、何でそんなこと知って・・・」鈴木の口元がやや引きつる。

 伊藤はその表情を見て、ニンマリと微笑む。


「鈴木さん、公私混ぜすぎなんですよ。

 こないだ、異業種飲み会をやったでしょ。

 私の大学時代の友達もそこにいたんですよ。

 あと、国内線CA彼女の件は、あなたが今狙っているウチの本社受付のも知っていますからね」


「マジか。道理で、誘っても断られる訳だ・・・。

 折角フリーって言ってたのに」

 鈴木は本気で落ち込んでいるようだった。


 その時、ケータイが鳴り、鈴木は伊藤に背を向け話し始めた。


「え? ああ、もうお開き?

 うん、悪いけど、立て替えといて。

 ん? カバン? あと10分位で戻るから、もう少し店で待ってろって・・・」


 鈴木が話している間に、タクシーが一台やって来た。

 伊藤は通話中の鈴木の背中に、ペコリと頭を下げ、タクシーに乗った。


 それに鈴木は気付いたが、タクシーは伊藤だけを乗せて去って行った。

 通話を終え、鈴木は尻ポケットにケータイをしまう。

 その時、先程伊藤から預かった封筒に手が当たった。


 改めて封筒をよく見る。

 厚みや封筒越しの感触から、どうやらお札が入っているようだ。


(自腹で家賃を立て替えてまで、橋本桃を説得したかったのか・・・)


 鈴木は封筒を再びポケットに入れる。


「ごめんね、美紅ちゃん。

 ああは言ったけど、この封筒は、ほとぼりが冷めるまで俺が預かっておくよ」


 鈴木は居酒屋の方へ駆け足で戻った。


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