情報
裏野ハイツ203号室橋本桃について調べる為に、伊藤は、ある住民からの電話がかかってくるのを、密かに待っていた・・・
7月
夏の空はあまり夕焼け色に染まっていない。
それでも、働く者達は一日の終わりに向けてせっせと手足を動かしている。
あるいは、これからが本番だと、気合を入れている。
ナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部も、事務以外の社員達は、二通りの動きを見せていた。
18時を過ぎ、鈴木は速やかに退社した。
高橋は、時計を一瞥もせず、ボリボリ頭を掻きながらパソコンとにらみ合っていた。
各々自分の仕事を片付けている為、中央の事務サポーター達の電話対応に、注目する者はいなかった。
ピピピピピ
伊藤は素早く内線電話に出る。
「はい、伊藤です」
『すみません・・・。
裏野ハイツ102号室の清水様からお電話です。
用件は聞けていません。
「伊藤さんと話したい」と一点張りで・・・』
(来た!)伊藤はニヤリと微笑む。
先日の件が、その場にいなかったサポーター達にも知られており、受話器の向こうの声は、いつもと違ってオドオドしていた。
「了解しました。繋げてください」
カタカタと伊藤は裏野ハイツ102号室の住民情報を開く。
「契約者:清水 茶俊
生年月日:1971年4月12日生まれ 現在45歳
契約開始日:2000年5月1日
入居者:契約者と同じ
入居人員:1人
職業:無職
※顔写真は、当時の運転免許証のコピーだが、モノクロでほとんど造作が分からない」
◇◆◇
「お電話替わりました。
裏野ハイツ事務担当の伊藤と申します」
『ペチャリ・・・、ペチャリ・・・』
何かを舐めまわす様な音が耳に入り、伊藤は反射的に鳥肌が立った。
(先制攻撃かしら? ナメてんじゃないわよ!)
伊藤は歯を喰いしばり、静かに呼吸し、話し始めた。
「清水様、今回はどういったご用件でしょうか?」
『美紅ちゃぁ~ん、元気ぃ?
俺は今もビンビンだよぉ~』
「清水様、ご用件をお話しください」
『別にぃ。
ただ、君の声がまた聴きたくなったんだよ。
今日は、夜遅くまでお仕事なんだろう?
俺が暇つぶしにキモチイイ遊びを教えてあげるよ。
だいじょーぶ、仕事中でもバレにくい方法があるからさぁ・・・』
(やっぱり、こいつ・・・!)
伊藤は確信した。
清水は、自分の限定公開情報を見ている。
以前のやり取りの後、伊藤は利用しているすべてのSNSの友人関係を洗い直した。
投稿内容も見直し、友人からのチェックが多くとも、削除すべきと判断した画像やコメントは消した。
その上で、伊藤は昨日、コメントを1件、SNSに掲載した。
《明日はまた、14~23時出勤~。
体内時計おかしくなるから、本当にカンベンしてほしー。
夜勤とか、シフト制で働いている人って尊敬する。
どーしたら、上手く調整できるんだろ?》
瞬く間に、直接連絡がとれる友人からチェックされ、励ましやアドバイスのコメントを受け取った。
だが、伊藤の目的はそんなことではなかった。
周囲を見渡す。
皆、自分の電話に反応していない。
「清水様、恐れ入ります。
それについては、ご対応いたしかねます。
・・・だけど、少し質問しても良いかしら?」
『なぁ~に~?
俺のサイズに興味があるの~?』
「・・・あなたはハッキングができるんじゃないの?
それで、私の個人情報見て悦んでいるんでしょ?」
『・・・・・・』
受話器の向こうの沈黙に、伊藤は緊張した。
『フフ。
やっぱり、美紅ちゃんは、最高だね。
泣き寝入りするどころか、思いっきり立ち向かうつもりなのかい?』
「別に。こんな電話だけじゃあ、どうせ証拠不十分だし。
あなたが私の画像拡散してたら、ソッコーで警察に連れ出すけど。
こっちはあなたの個人情報を分かってんだからね」
『安心しなよ。
俺は気に入ったものは、とことん自分だけのものにしたいんだよ。
ションベンみたく撒き散らす馬鹿共と一緒にしないでくれ』
「流石ね。相当優秀なハッカーさんなのかしら?
あるいは、プログラマー?
毎月きちんと家賃をお振込をしてくださる、管理会社として、とても助かっている方。
ネットバンキングから振り込んでいらっしゃるのかしら?
どちらにせよ、表向きには『無職』と名乗らざるを得ない人」
ネットバンキングについては、予め精算管理事業部に聞いていた。
どこから振り込んでいるかは個人情報の為、同じ会社であっても基本的に教えてもらえない。
しかし、賃料収納状況を管理しているチームに、伊藤と親しい後輩がいた。
「調べなくていいわ。あなたの感覚で答えて。
この住民が使用している振込先は、ネットバンクも扱っている銀行じゃないかしら?」
『・・・絶対に口外しないでくださいよ。
ええ、確かにこの方は、ネットバンキングから振り込まれています。
実は、以前の振り込みで見かけない金融機関名だったので、調べました。
名前は言えませんが、あれは店舗を構えない、ネット専用の銀行でしたよ。
素人が簡単に扱えるようなタイプではなさそうです』
伊藤の心臓はバクバク鳴っていた。
文系大学の出身の伊藤は、決してコンピュータやインターネットに精通している訳ではない。
学生時代に学んだ付け焼刃の知識だけで、ハッタリをかましている。
丁度それは、新聞部の取材のインタビューを思い出すものだった。
『美紅ちゃん。立場が逆転したね。
一体君は、何の用で俺に電話をかけさせたの?』
「音についての相談が、再び別の部屋の方から入っています。
清水様も、音について何か気になることがあって、お電話されたのではないですか?」
伊藤はワザと元の調子に戻して話した。
あからさまに情報を聞き出すのは、まずい。
清水の方から、勝手に話してもらう必要があった。
『7月になったもんね。
上の階の透厘ちゃんも桃ちゃんも、元気そうだ。
特に、桃ちゃんは最近、感情が高ぶっているみたいだ。
昨日は可愛い悲鳴が聞けたよ』
(やっぱり、昨日の悲鳴は空耳じゃなかったんだ!)
「さようでございますか。
改めて、音についての注意文を全部屋に投函しようと予定しています。
清水様は何かご質問はございますか?」
『おいおいおい。
俺の話、ちゃんと聞いてんの?
前にも言ったよね?
俺は女の子二人が静かにされちゃあ困るんだよ。
ドンドンする音も、水の音も、笑い声も、叫び声も、全部俺の大事なオモチャなんだよ』
「ですが、管理会社の立場としては、このまま放置する訳にはいきません。
203号室や清水様のお部屋付近で、何か変わったことなどございましたでしょうか?」
伊藤は相手の反応を待った。
もしかしたら、203号室のベランダを覗いていたのは清水なのではないかと疑っていた。
『さぁな。
俺は先週あたりから、荷物受け取りにも応じていない。
玄関のドアすら開けていないんだ。
紫野さんに聞いてみろよ。
紫野さんは、常にハイツを監視しているみたいなもんだ。
前に、俺が深夜にベランダ窓を少し開けてただけで、翌朝そのことを指摘されたことがあるよ。
美紅ちゃんは、俺が橋本桃ちゃんにイタズラしていると思っているだろう。
答えは不正解さ。
俺はあの子に何もしちゃいない。
生身の姿も見たことない。
ただ、あの子のユルユル管理なSNSのおかげで、俺はあの子の全部を知っているがな・・・。
桃ちゃん、今の彼氏にそそのかされて、かなりヤバいポーズとった裸の写真掲載してんの。
限定公開にしてるけど、彼氏はあっさりそれを流してたよ。
ま、俺が拡散防止の為に、削除したりウィルス送ったりしてるんだけどな』
清水の話に、伊藤は不快な気持ちになった。
『ねぇ、俺のことを信じてくれるなら、もっと良い情報を教えてあげるよ。
多分、美紅ちゃんが知りたいのは、それなんじゃないかな?』
(まだ、何かあるの?!)
「信じてほしいなら、今後もその紳士的な対応を取り続けることね」
『ハハハ!
美紅ちゃんって本当に面白い子だね。
初めてだよ。
実際に会ってみたいって思えた女の子は。
ねぇ、今度会いに行っても良い?』
「お好きにどうぞ。
もし、私の目の前に現れたら、ぶん殴ってやるから」
一瞬視線を感じた。
エリア長の佐藤が、自分の通話に違和感を感じているようだ。
これ以上、話を続けることは難しい。
『君に殴られるなら、光栄だよ・・・。
そう・・・。
君は気付いていた?
透厘ちゃんと、桃ちゃんが同級生で、地元も同じだって』
「え!?」
伊藤は慌てて、二人の契約書を調べる。
※ナロでは、契約書等の書面データも全てスキャンされ、パソコンから見られる状態になっている。
清水の言っていることは本当だった。
契約書に書かれる借主の住所は、その時に住んでいる住所。
つまり、ハイツに引っ越す前の住所だ。
それが、町名と番地が異なるだけで、あとは同じだった。
(気付かなかった・・・)
『君なら、二人の地元住所から、どこの中学に通っていたかが分かるだろう。
そうしたら、ここ数年でこの地域で起きた事件や事故を調べてみると良いよ。
なぁーに、やる気さえあれば出来ることさ。
俺が君に「橋本桃」に気を付けろって言っただろ?
そう言ったのには、ちゃんとした推理がある。
美紅ちゃんも、見つけてごらんよ・・・』
「恐れ入ります、清水様。
住環境改善の為にも、騒音注意についてはご理解の程よろしくお願い申し上げます」
『フフフフフ・・・。
池田透厘は最高の女の子だよね・・・。
顔も見たことないけど、あの声だけで十分なんだよ・・・』
◇◆◇
妙な終わり方をした。
通話時間もかなり長くなった。
ふと見ると、佐藤が険しい顔してこちらを見ている。
「伊藤さん、入居者様と何話していたんだ?
『ぶん殴る』って聞こえたのは、俺の空耳だよね」
伊藤はガタンを椅子から立ち上がった。
「クレーム電話ですから、客の言葉をオウム返ししていたら、そんなフレーズも出てきたのでしょう。
すみませんが、休憩いただきます」
そう言って、伊藤はフロアを離れた。
すぐに自分のスマートフォンの検索ページを開いた。




