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ターゲット

7月。裏野ハイツ103号室の住民山崎からの電話に対応している時、受話器の向こうから女の悲鳴のようなものが聞こえた・・・・

 伊藤は小刻みに震える手で受話器を置いた。


「伊藤さん、どうしたの?」

 隣に座っている田中が尋ねた。


「いえ、何でも・・・」


(受話器の向こうで悲鳴が聞こえたなんて、言ってどうする。

 きっと聞き間違いか、103号室のテレビの音かもしれないわ)

 伊藤は自分に言い聞かせた。


 少しして、佐藤・鈴木・高橋が、打合せから戻ってきた。

 伊藤は3人に声をかけ、橋本からのメールクレームと先程の電話について報告した。


「下の階じゃなかったら、やっぱり隣の部屋なのかなぁ。

 203号室は注意してほしいって書いてあるなら、今度は誰が言っているかは伏せて、202号室だけに注意したらどうだい?

 幸い202号室は真ん中の部屋だ。

 両隣からも下からも、音について言われてもおかしくない位置にいる。」


 Aエリア長の佐藤が言った。


「ですが、202号室は現在使用している電話番号が分からないので、連絡がとれません」

 伊藤は言った。


「だったら、注意文を202号室だけに投函しよう。

 何かあればナロに連絡するようにと、こちらの連絡先も添えてな。

 高橋、今日お前行ってこい」


「分かりました」高橋は頷いた。


「203号室からのメールにあった『誰かにベランダから覗かれている』という点はどうしますか?」

 伊藤は険しい表情で尋ねた。


「それは、住民がそう感じている話だろ。

 気のせいかもしれないし。

 仮に本当であっても、我々が対応できるものではないよ。

 警察に相談してもらうしかないね」

 佐藤は淡々と答えた。


「・・・」


 伊藤は黙ったまま考えた。

 それだけでは足りないような気がするのだ。

 以前、102号室の清水から言われた「橋本桃に気をつけろ」と言う言葉。

 奴の言っていた7月はもう始まった。


「あ、あの・・・」


 三人の男達は、伊藤を見る。


「橋本桃に、しばらく裏野ハイツに帰らないよう、伝えてはいけないでしょうか?

 ハイツに居ることで、彼女は音などに悩んでいるのですから・・・」


「何を言っているんだい、伊藤さん。

 特別な根拠も無いのに、そんなこと管理会社が言えるわけないだろう。

 そもそも入居者間のトラブルは入居者間で解決するものであり、貸主や管理会社に責任はないんだ。

 管理会社は、トラブル回避や解決の為に、出来る範囲の仲介や注意、サポートをするだけだ。

 『音が気になるならハイツに戻るな』は我々が言うことじゃないよ」


 佐藤は少々呆れたような様子で答えた。


「でもさ橋本桃ちゃんて、ごみ袋は管理会社からもらえると勘違いしてたり、電気代請求書を怪しいところからの架空請求だって相談したりするような、社会常識がまだ身に付いていない子ですよ。

 『ハイツに戻るな』はやりすぎですが、不安なら警察に相談するようアドバイスはしておいた方が良いと思いますよ」


 鈴木が意見を述べた。

 佐藤は「ウーム」と唸った。

 伊藤は、鈴木にフォローされてしまい、少々癪だったが、ありがたかった。


「じゃあ、伊藤さんは電話で、音や覗かれている件について、もう少し詳しく聞いてみて。

 で、警察の連絡先も伝える。

 高橋は同様の内容の書面を203号室に投函してくれ。

 鈴木は近くの交番にパトロール強化の依頼をする。

 とにかく、こちらで出来る最低限のことはやってみよう」


「「「分かりました」」」

 佐藤の指示に、三人はほぼ同時に返事した。


     ◇◆◇


「みーくちゃんっ」


 裏野ハイツ202、203号室向けに書面を作成し終えた伊藤は、トイレの為に席を立った。

 そこに、鈴木が近付いてきた。


「さっきのフォロー、結構良かっただろ?

 惚れてくれた?」


「馬鹿ですか?」伊藤は冷たく言い放つ。


「美紅ちゃんてさ、他の事務の子と違って、何て言うか『アツイ』よね。

 裏野ハイツクレームは、すぐに自分に回すようにしているんだろ?

 意外と仕事に情熱を捧げるタイプ?」


「鈴木さんには、関係ないでしょう」

 伊藤は心底面倒そうに言った。


「『私事務だから関係ありませーん』てロクな仕事しないクセに、営業や業務担当に文句ばっか垂れるような女共よりは500倍良いよね。

 だけどさ、あんまり深入りしすぎるなよ。

 俺達は管理会社。正義の人助けは専門じゃないぜ。

 何より、裏野ハイツと関わりすぎるのは止めた方が良い。

 根拠は無いけど、ヤバイ感じがするんだ」


 鈴木の言葉に、伊藤は思わず振り向き、彼を見た。

 高橋が前に言っていたことと同じだ。


「そんな怖い顔しないでよ。

 可愛い顔が台無しじゃん」

 いつものヘラヘラした口調に戻った鈴木は言った。


「・・・・」

 伊藤は言い返すことはせず、スタスタとトイレに向かった。 


     ◇◆◇


 トイレの鏡の前で手を洗いながら、伊藤は自分の目を見る。


(アツイ・・・か・・・)


 鈴木に言われたことを思い出し、フッと一人微笑む。


(確かに、今の私の顔は、あの頃に似ているかも)


 伊藤美紅にとって、人生最大の失敗といえるのが、就職活動だった。


 伊藤はマスコミ・出版・広告・放送関係を志望していた。


 彼女を見る人からは、決まって「遊んでそう」「クラブばっか行ってそう」と思われてきた。


 しかし、彼女はジャーナリストを目指していた。

 大学ではマスメディアについて学び、ドキュメンタリー制作サークルと、新聞部を掛け持ちしていた。


 残念ながら、そんな努力も実らず、志望業種からではなく、他業種の会社にばかり内定がもらえた。


 ナロに入ったのは、その中で最も福利厚生が充実していたからだ。

 初めから転職を視野に入れてナロに入社した。

 そこで彼女が配属されたのは、広報部だった。


 社内報の作成。

 宣伝活動の企画。


 業種こそは違えど、今までやってきたことが、自分なりに存分に活かせる場だった。

 あっという間に三年が過ぎようとした頃、人事面談で「より良い広報をするには、現場をもっと知ることが必要だ」とうっかり言ってしまった為に、今の配属があるのだろうと、伊藤は思っていた。


 裏野ハイツ・・・。

 202号室・・・。

 橋本桃・・・。

 7月・・・。


 関わるなと言われるほど、追究したくなる困った性格。

 しかし、自分が管理会社の事務であることは変わらず、いくら好奇心が強くても、その範疇を越えないよう自制すべきだと思っている。


 いかにして、情報を得ようか。


 もっと裏野ハイツを知ることができれば、橋本桃の不安解消に繋がる案が見つかるかもしれない。

 そういう言い訳を考えつつ、伊藤はデスクへ戻った。


     ◇◆◇


 翌日。

 中番の伊藤は、昼食を済ませて出社した。


 昼食後であることは、ナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部フロアも同じだ。

 その為、どこか中だるみを感じる空気が漂っていた。


 早番の田中が、あくびをしながら書類と画面を交互に見ている。

 木村は今日は(いつもだが)遅番だ。

 田中が帰り、木村が出社するまで約7時間ある。


 情報を得るなら、恐らくが最も適任だ。

 しかし、あまりに深夜だと、人が少ないので電話が目立ってしまう。


 両隣に人がおらず、他の社員が最もバタつく時間帯。

 狙うは夕方~夜にかけてだ。


 伊藤はゴクリと息を呑んだ。

 あらかじめ、餌は撒いてある。


 デスクに置いている固定電話を見る。

 この内線ボタンが点滅するのが待ち遠しいと、伊藤は初めて思った。


     ◇◆◇


 午後16時頃、鈴木や高橋が事務所に戻ってきた。

 伊藤は、昨日の業務内容を確認する為に、二人に話しかけた。


 伊藤は昨日、橋本桃に何度か連絡するが、繋がらなかった。

 書面を送る旨をメールで報告することしかできなかった。


※15時退社の早番の場合、その日の業務について、外回りの担当に聞けないままになることが多い。

 事務担当と他の担当が情報を共有し合う際、時間差ができる場合があるのだ。


「一応、ハイツから最寄りの交番に行って、お巡りさんにはパトロール強化をお願いしてきたぜ。

 その交番の電話番号と、対応してくれたお巡りさんの名刺だけど、要る?」

 鈴木が言った。


「ちゃんと202号室と203号室のドアポストにそれぞれ書面を投函したよ。

 念の為、どちらもチャイムを鳴らしてみたけど、反応は無かった。

 日中だったし、外出してたんだろうな。202号室は居留守かもだけど。

 その代わり、いつものごとく紫野さんが、201号室から顔出してくれて。

 手作りのマフィンをもらっちゃったよ。

 何でも、昨日はお孫さんの誕生日だったみたいで、お孫さんが小さい頃の写真を見せてもらったよ。

 てか、写真は毎回見せてもらっているけどな。

 紫野さんが言うには、今年で19歳らしい」


 高橋は、残りのマフィンを伊藤にお裾分けしようとしたが、伊藤はそれを断った。


「俺、正直に『202号室の住民と連絡がとりたい』って紫野さんに相談してみたんだ。

 あ、個人情報に関わるから、本当はこういうのナシなんだけど、あのハイツは特別な。

 そうしたら、紫野さん。

 202号室とは、滅多に会わないけど、今度挨拶した時にウチの電話番号伝えるって言ってくれて。

 念の為、俺の会社用携帯電話の番号も伝えといた。

 本当に紫野さんは、協力的な入居者で助かるよ」


 二人からの報告を聞き終えた伊藤は、デスクに戻った。


 橋本桃に電話をかけるが、結果は昨日と同じだった。

(せめて留守電設定してくれていたらなぁ・・・)


 伊藤は受話器を置き、じっと電話を見つめる。


 昨日の朝に、受話器越しに聞いた悲鳴は、橋本桃なんじゃないか?

 彼女は、今、無事なのか?

 どうして彼女が、ターゲットなのか?


 エリア長の佐藤が、手の動いていない自分を見ている。

 それに気付いた伊藤は、一旦頭を切り替えて別の業務に集中することにした。


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