独り言
6月末に、裏野ハイツ202号室の池田が住んでいることを確認した高橋と伊藤。そして7月に入るのだが・・・
7月が始まった。
夏の本番はもう目の前と言わんばかりに、早朝から太陽が燦々と輝いていた。
ナロ建物管理株式会社賃貸マンション管理事業部のAエリア事務担当を務める伊藤美紅は、午前5時50分にデスクに座り、パソコンを起動させた。
一番に確認するのは、事務サポーターや他の事務担当からの引き継ぎ事項だ。
全社員が共有出来るナロの顧客管理用掲示板に書かれており、これでクレーム発生情報と対応履歴の最新状況を把握するのだ。
(裏野ハイツ203号室からクレームが来てる)
伊藤はアイコンをクリックした。
電話ではなく、クレーム受付専用のメールアドレスに、文章クレームをいれているようだ。
《おとといから、音がまぢでひどいです。
もー、ありえないんですけど。
これで家賃はらうとかムリなんですけど。
はやくなんとかしてください。
皆、迷惑してるって注意してください。
ほんとーにうるさいです
何か横も上も下からもドンドンします。
今日わ、ベランダからのぞかれてるみたいな気がしました。
キモいんでやめさせてください!!!!!!!!!!!》
(一昨日。
6月末からか・・・)
伊藤は、メール文章を見ながら、じっと黙っていた。
このクレームメールが届いたのは、今から数時間前の深夜だった。
隣で田中が「ゆとり世代って、国語を勉強しないのかしら?」と毒づいていた。
今電話するのは早過ぎるので、伊藤は高橋に対応方法を確認してから、203号室住民橋本桃に連絡しようと思った。
◇◆◇
9時を過ぎるまで、伊藤は月初の事務処理に集中していた。
しかし、それもいつもの内線電話で中断された。
ピピピピ
「はい、伊藤です」
『伊藤さん、裏野ハイツ103号室の山崎様、奥様の方から、騒音の件で相談と入電です』
(奥様・・・)
伊藤は自分に繋ぐよう指示し、素早く103号室住民情報を開いた。
「契約者:山崎 秀丙
生年月日:1986年9月7日生まれ 現在29歳
契約開始日:2014年5月1日
職業:会社員
入居者:契約者と同じ
入居人員:3人
同居人①:妻:山崎 春巳 1983年4月24日生まれ 現在33歳
同居人②:子(男):山崎 玄輝 2013年7月31日生まれ もうすぐ3歳」
顔写真は、契約当時の三人の集合写真だった。
細面の男性の隣に、ふっくらとした顔と体の女性が並んでいる。
女性はきょとんとした表情の赤ちゃんを抱いている。
質素な若い子連れ夫婦だ。
写真を見る限りでは、単身用格安ボロハイツに無理やり家族三人住み、家賃支払いが遅れるような人柄には見えなかった。
事務サポーターから自分へ繋ぐ保留音が切れた。
◇◆◇
「お電話替わりました。
裏野ハイツ事務担当の伊藤と申します」
『あ、あの、いつもお世話になっています。
裏野ハイツ103号室の山崎です』
「山崎様、いつもお世話になっております。
今回は騒音についてのお電話と伺いましたが、何かお困りですか?」
『あ、いえ、その、あの、えーと・・・』
気の弱そうな女性の声は、中々用件を話さない。
伊藤は苛つきを抑えながら聞いた。
『その・・・。
隣や上の階の方から、103号室がうるさいって、連絡入りませんでしたか?』
(そっち?!)
伊藤は、山崎の意外な言葉に小さく驚いた。
「何かお心当たりがあるのですか?」
『あ、あの、その・・・。
ウチの息子なんですが、急に独り言をぶつぶつ言い出しまして。
たまに、大きな声もあげることもあるんです。
まだあまり言葉も覚えていませんので、何言ってるのかサッパリ分からないんですが・・・』
伊藤は住民情報を見る。
息子の玄輝はもうすぐ3歳になるようだ。
「少々お待ちください。
そうですね、話し声が気になるというお声は現時点では入っていないようです」
伊藤は過去のクレーム履歴を確認しながら言った。
『ああ、そうですか、良かった・・・。
も、もし、そんな連絡が入りましたら、私に教えてくれませんか?
子どもはまだ小さくて、私なりに躾けているつもりですが、難しいところもありまして。
ご迷惑おかけしているようでしたら、せめてお詫びにご挨拶させていただきたいです』
「かしこまりました。
今後、そう言った連絡が弊社に入りましたら、ご報告いたします」
『ありがとうございます・・・。
うちの子は、普段は本っ当におとなしいんです。
赤ちゃんの時から、ほとんど泣かないから、病気なんじゃないかって、言われることもありまして。
検査や定期健診では、特に心配ないって言われてますので、大丈夫だと思っています。
でも、なぜかこの時期になると突然うるさくなるというか、去年は夜泣きがひどくて。
松本さんや紫野さんにも随分相談したんですよ。
今年もそうなんじゃないかって、思っていたら、案の上、突然独り言や大声や、部屋の中を走り回ったりして・・・。
松本さんは引退されたみたいですし、私、不安で不安で・・・』
(部屋を走り回ったり・・・)
伊藤は203号室のクレームメールに「下からドンドンという音」と書かれていたことを思い出した。
(話し相手がいなくて、ここぞとばかりに話している感じだけど、我慢して聞いていれば思わぬ情報が入るものね)
「恐れ入ります、山崎様。
お子様が独り言を言ったり、走ったりし始めたのは、昨日や一昨日からですか?」
『一昨日・・・ですか?』
「実は『一昨日からドンドンという音がする』と、他の入居者様からご相談いただいておりまして」
『・・・・』
受話器の向こうでしばらく沈黙が続いた。
伊藤は直感で、相手を怒らせたと感じた。
『いいえ、ウチではありません。
どこの部屋の方が言っているんですか?
103号室だと言っているんですか?』
「いえ、特定のお部屋に対してのお話ではございませんでした。
ですがもし、お子様が走る音が関係しているようでしたら、その方にもご説明した方が良いかと思いまして・・・」
『ウチではないと言っているでしょう!』
先程とは変わり、荒立った声色で山崎は返答した。
「失礼いたしました。
あくまで確認でお伺いしただけですので。
では、一昨日は特にお子様もお静かにされていたということですか?」
『一昨日の朝から今朝早朝まで、ウチは裏野ハイツにいませんでした。
紫野さんには伝えましたが、管理会社にも言わないといけなかったのでしょうか?
実は北海道にいる伯母が亡くなりまして、ずっと北海道にいました。
息子の独り言に気付いたのは、今さっきです。
主人はハイツに戻らずに出勤して、今朝、私と息子だけ先に帰ったのです。
私だって、葬儀の手伝いや長距離移動で疲れてましたから、息子を寝かしつける前に自分が先に寝ちゃったんですよ。
だらしない母親だと思っているんでしょうね・・・。
すみません・・・』
山崎春巳は徐々に初めの気の弱そうな口調に戻っていった。
感情の乱高下が激しく、こちらも厄介なタイプだと、伊藤は思った。
『ハッと目が覚めると、息子はずっと起きていたらしく、ボソボソと部屋の隅っこで独り言をつぶやいていたんです。
私が声をかけると、大声を出して、部屋の中を一周して止まって、またブツブツ言いだして、を繰り返しています。
きっと隣や上の階の方は、早朝からうるさいと思っているんじゃないかと思いまして・・・
あ、こら、どうしたの?』
受話器の向こうで、ガタガタと音がした。
山崎春巳は、手にしていた携帯電話をどこかに置いたようだ。
『げんちゃん、静かにしなさい!
ほら、どうしたの? 落ち着いて!
〈アー! アー!)』
携帯電話が拾う、子どもの奇声を伊藤は左耳で聞いた。
(この奥さんが言っていることは本当みたいね・・・)
『ママね、今お電話でお話しているの。
だから、ちょっとだけ静かにしていてね。
〈g※kすとあ●wgじょ♪いskじ☆ょyh☆けわh■rじょkdj・・・〉』
今度は、子どものボソボソ声が聞こえてきた。
何を言っているのかは確かに分からない。
『げんちゃん!
・・・あ、あら?
紫野さん、いらっしゃい。
おはようございます。ええ、今朝無事に戻ってきました。
朝からすみません。
ほら、げんちゃんも挨拶して・・・
〈ござーます〉』
(201号室の森紫野が部屋に入ってきたのかしら?
子どもも落ち着いたみたい・・・。
てか、まだ通話中なんだけど)
「あの・・・山崎様~?」
『やだっ、いけない。
電話中だったの、忘れてたわ。
紫野さん、すみません、ちょっとお待ちください・・・
〈キャー・・・・〉
ガタッ
もしもし、すみません。
子どもが落ち着きましたので、大丈夫です。
失礼します』
プッと通話が一方的に切れた。
ツーツーツー
「・・・・」
伊藤は受話器を左耳に当てたまましばらく固まっていた。
(今のは・・・何・・・?)
受話器の向こうから、遠くから微かに、でもはっきり聞こえた・・・。
あれは子どもでもない。
女性の高い声だった。それも悲鳴に近い・・・。




