洗脳屋(笑顔の女)
男は先日還暦を迎えた。男の仕事は製造業。六十歳になると再雇用という形になり、六十五歳までは働ける。しかし、仕事内容は以前と変わらないのにもかかわらず、大幅に減給され、ボーナスは全額カットされる。それでも退職金は貰ったので、贅沢をしなければ生活に支障はない。男は思った。まあ、独り身なので食っていければいい。妻子は……いた事はあったが、もう遠い昔の話だ。
その日は会社帰り、しばらく会っていなかった知り合いのやっている飲み屋に行こうと思った。最後に行ったのが一年前だったので店の場所がうろ覚えだった。曲がる路地を間違えたのだろうか。少し寂れた感じの通りに出た。
「あれ、こんな通りじゃなかったような」
男はもと来た道を引き返そうとした。その時、ふとある奇妙な看板の前で足を止めた。『洗脳屋』。
「何の店だろう」
男は窓越しに店内を覗いた。暗くてよく中が見えない。すると自動ドアが開いて中から女が出てきた。
「どうぞ」女はニッコリ笑った。歳は三十前後だろうか。細身の美人だ。黒いブラウスに同色のパンツ。黒いパンプス。柔らかい笑顔で男に声をかけてきた。
「い、いや、ここは何の店なのかなぁと思って」
「美容院ですよ。どうぞ〜」
「あ、散髪はいつも決まった床屋でやってもらっているので」
すると女は男の顔をじっと見つめて言った。「たまには気分転換で、シャンプーとマッサージだけでもいかがですか?」女はまたニコッと笑った。
男はどうしたものかと迷ったが、女にじっと見つめられて舞い上がってしまった。
「じゃあ、お願いしようかな」
▪️
店内に入るとほのかにお香の匂いがした。薄暗い中に、なるほど大きな鏡とイス、シャンプー台が二台ずつあった。
「あ、節電でお客様がいない時は暗くしてるんです。今明るくしますね」
店内がパッと明るくなった。「さっ、シャンプー台へどうぞ」女に言われて男はシャンプー台に座った。男はこの歳にしては髪の毛は多い方だ。白髪は幾分増えてはきたが、決して禿げてはいない。ケープを男につけながら女は「しっかりした良い髪の毛ですね。痛んでもいないし、普段のお手入れがいいのですね」と褒めてくれた。男はまんざらでもなかった。
「お湯の温度は大丈夫ですか?」
「はい……」
「お痒いところはありませんか?」
「はい……」
男は気持ち良くて夢心地だった。
「はい、お疲れ様でした」
男はウトウトしていたようだ。
「さあ、こちらへどうぞ」
男はカット台の椅子に腰掛けると鏡に映る女の顔を見た。女はニコッと笑って「マッサージしますね。失礼します」と言った。
「凝ってますね。カチカチです」
女の細い指がツボに上手くはまり、イタ気持ちいい。
「お客様、お名前をお聞きして宜しいですか?」
「ああ、黒田と言います」男は偽名を名乗った。いつものことだ。昔から会社以外では黒田で通していた。別に意味はない。ほんの遊び心だ。そう言えば藍子と出逢った頃も男は黒田と名乗っていた。結婚式の前日にやっと本名を明かした。(彼女びっくりしてたよな)男は昔女房だった藍子をふと思い出してしまった。(なぜだ、今になって)
「黒田様、思い出し笑いですか?」
「い、いや」
「お顔がにやけています」鏡の中の女はまたニコッと笑った。茶髪のセミロングのストレートの髪がふわりと揺れる。
「あー、君の名前は?」
「失礼しました。花畑と申します」
「花畑さんですか?」
「はい、花畑美麗です」
「美麗……」
「どうされました。汗が」
男の額からだらだらと汗が流れ出した。
「あ、いや、あまりに綺麗な名前なんで、びっくりしたんだ。それに名前負けしていない。あなたは美しく華麗だ。笑顔がとてもかわいい」
「え? やだ、ありがとうございます。初めて言われました。でも良くわかりましたね。漢字まで」
「あ、美麗って言ったらそれしか思いつかないよ」男の汗は止まらない。
「空調の効きが悪いんですかね」女はリモコンを操作した。
「最近猛暑続きだからね。還暦にはキツイよ」
「ドライヤーをあてる前に冷たいお茶をお持ちしますね」おしぼりで男の額の汗を拭ってから女は店の奥に入っていった。
男が置かれてあった雑誌を見ていると「どうぞ」女が麦茶の入ったグラスを鏡台に置いた。「これ作ってみたんです。コーヒーゼリー。お嫌いじゃなかったら……」女はまたニコッと笑った。
「コーヒーゼリーか……頂きます」
男は濃い琥珀色の角切りゼリーにミルクをかけて、あっと言う間に平らげた。
「黒田様、もう、召し上がっちゃったのですか?」
女は驚いて鏡に映る男の顔を見つめた。
「いやー、コーヒーゼリーは大好きなんだ。昔……いや、実に旨かった」
男はそう言って照れたように麦茶を一気に飲み干した。
「良かった」女は呟いた。
「黒田様、還暦を迎えられたのですか? おめでとうございます!」
「ありがとう。でも還暦になったからって何も変わりやしないさ」
「私の父も生きていればちょうど黒田さんぐらいだと思います」
「お父さんは亡くなられたのか……」
「はい、もうずいぶん前に。私の記憶の中には父は残っていないのです」
「そして母も……」
スー、スー……。寝息が聞こえる。
「黒田様? 黒田様……」
男はいつの間にか眠ってしまったようだ。
「黒田様、ずいぶん疲れていらっしゃるのですね〜」女は鏡に映る男にまたニコッと笑いかけた。
▪️
ピチャピチャピチャ……水の流れる音がする。男は酷い頭痛で目を覚ました。瞼を持ち上げようとしたが重くて半分も開かない。靄がかかったような狭い視界だ。すると、コツコツコツと硬いピンヒールの音が近づいてきた。そして止まった。
「黒田様」
男はビクッとした。
「お目覚めですか? 気持ち良さそうに眠っていらっしゃいましたよ」
「あ、ああ……頭が痛い。今何時だろう?」
「それはいけませんね。今は十時過ぎたところです」
「え?! 俺はそんなに眠っていたのか」
「はい、おかげで洗脳も終わりました」
「洗脳?」男は驚いて聞き返した。
「黒田様の頭にまあるくドリルで穴を開けて、そこから脳みそを掻きだしました。ずいぶん汚れていましたよ。今漂白が終わって洗い流していたところです。あ、頭は詰め物をして蓋をしたから大丈夫です。脳みそ御覧になりますか?」
そう言うと女は床に置いてあった水色のポリバケツを持ち上げて黒田の方に傾けた。「ほら、見てください。こんなに真っ白になりましたよ」
男はバケツの中を見た。と、そこには白いもぞもぞしたものが大量に……「ウグッ!」男は吐き気を催した。
「まあ、黒田様、顔色が真っ青ですね」
「トイレ……」男は這うようにトイレへ行って何度も嘔吐した。
しばらくして男は気付いた。(脳みそ? あれが脳みそ? そんな筈はない。俺は普通に生きている)
「あらあら、大丈夫ですか?」
トイレから戻った男は、黙ってまたイスに座った。鏡に映る女を見た。女は笑っていた。
「黒田様、残念なことにもう閉店なのです。この脳みそはパックに詰めるのでお持ち帰り下さい」そう言うと、女は手早く脳みそをパックに詰め始めた。
男は口を開いた。「白子は鍋に入れると最高に旨いよね、美麗さん」
「キャハハ、気付いちゃったの、おじさん〜」
「美麗……美麗なんだろう、君は俺の……」
「だまれ! オマエなんか、違う!」
女の目が鬼のようにつり上がった。その顔は藍子に瓜二つだと男は思った。藍子は……悲しい女だった。
「あたしは父も母も大嫌い。オマエのせいで、どれだけあたしが苦しんだと思う?」
女は突然ブラウスのボタンを外し出し上半身裸になった。そして男に背中を向けた。
「うっ……」男は言葉を失った。女の背中一面は、無数の痣と傷で変色し醜いケロイドが出来て正常な皮膚など見当たらなかった。
「あははは、あたしは母の生け贄になったの。オマエの身代わりに」
「美麗……俺は」男の目から涙がポロポロ溢れた。
「へぇー、泣けるんだ。何て素敵なの!」
男は堪らず女を抱きしめようとした。
「さわるな! ジジイ! 汚らわしい。あたしはずっと笑うことを強要されてきた。泣くことなんて一生出来ないんだ」そう言うと女はニッコリ笑った。男は流れる涙を止めることが出来なかった。
女は時間を気にしていた。時計をみると十時四十分。すると女はいきなり店を飛び出した。
「美麗!!」男は後を追った。
カンカンカンカンカンカンカンカン……
踏切の遮断機が下りている。女は遮断機を潜り線路にしゃがみこんだ。
カンカンカンカンカンカンカンカン……
「美麗!」男も続いて遮断機を潜り、女を抱きしめた。電車が迫ってきた。男は力を振り絞り女を突き飛ばした。
キキキキキキキィィィィィィーーーー
二人に気付いた運転士が急ブレーキをかけた。しかし間に合わない。男はそのまま即死した。それを見て女はニッコリ笑った。
「脳みそはどこ? あたしが洗ってあげる。花畑さん」