雨の降る街で二人は出会う
いつしかクレクリンの街には大粒の雨が降っていた。
ソロの髪を濡らした滴は、涙と混じって頬をつたう。
父オーボウと言い争った後、ソロはどうして今、雨の中を走っているのかさえ分からなかった。
その無我夢中で走るソロの心の片隅に、幼い頃に聞いた父の声が聞こえる。
『ソロよ、ワシらハバード家の人間、支配する人間は、支配する義務と責任のために自分の権利と義務を捨てなければならんのだぞ。』
雨の音と共にその声は幾度となく父の声がこだまする。
僕は、ただ…ただ…人を好きになっただけなのに。
遠くで稲妻が鳴り響く、雨はますます激しさを増し涙と共に地面に滴り落ちる。
水浸しの石畳を水しぶきを上げてソロは行く当てもなく走り続けていた。
人影の少ない路地を曲がったとき、涙に曇った視界に不意に現われた数人の男たちと肩がぶつかる。
「おい、ぶつかっておいて、誤りもしないのか!」
そのまま走り去ろうとするソロに罵声が飛ぶ。
「どうしたんだ!オイ!」
無言で立ちつくすソロに、男たちは怒りを顕わにソロの周囲を懲り囲み胸倉を掴み上げる。
「謝るんだった今のうちだぞ、僕はバス・トルート伯爵の子、
貴族なんだからな。」
貴族という言葉にソロは反応した。
ただそれだけで、何故普通の人間と違うのか、
普通の幸せを求めることは許されず、人より裕福な生活を送り。
人から媚びられて、諂らわれ、
人を卑下し、軽蔑する。
同じ人間じゃないか!!
「僕が貴族だと知って驚いたか。
本当なら貴人侮辱罪だが、そこの水溜りに額をつけて謝るなら特別に許してやるよ。」
取り巻きに傘を待たせて、いちばん後ろに陣取るバスがにやついた微笑でソロを見下す。
「ふざけるな!!」
高まる気持ちが爆発した。
強く握った拳に不意を突かれた取り巻きが水溜りに転がり倒れる。
「このガキ!!!」
残った取り巻きが一斉に殴りかかる。
ソロは自暴自棄にその中に飛び込んでいく。
肩を掴まれ、頬を殴られ、それでも、怒りと哀しみに満ちた拳をたった一発バスの顔に叩き込む。
「放すな!捕まえろ!」
うわずいたバスの声に取り巻きがソロの腕を締め上げる。
「この高貴なる僕を殴りつける馬鹿がいるなんてな!」
バスの脂肪のついた拳が何度も顔を腹を殴打する。
「放せ!」
ソロは何とかそこから逃れようと、必死に身をよじって絶叫する。
「放せ!放せよ!!
僕はなぁ…」
勢いのある声が途絶える。
ソロは、自分の名前を名乗ることをためらった。
「『僕は…』何なんだ?
『僕は神の子、マティス・ランスです』ってか?」
執拗にバスの殴打が繰り返される。
ソロの名前、ハバードの名を名乗れば間違えなくバスから開放される。
ハバードの名のもと何倍もの報復も可能だろう。
けれども、ソロはそれを望まなかった。
貴族を名乗ってしまえば、それはさっき必死に否定した父の、オーボウの考えを認めることになる。
ソロは遠のいていく意識の中、最後まで歯を食いしばっていた。
フラロアの酒場は、日が暮れてますます賑やかになっていた。
それぞれの仕事を終えた人々が酒場に集う。
鐘を鳴らし、笛を吹き、太鼓を叩く人々。
昼間は目立たなかった店の片隅の舞台には、音楽にあわせて何人もの男女が流行のダンスを踊っている。
「どうしたパーラス、調子悪いじゃねぇか。」
隣り人の声をかき消す程の喧騒の中、パーラスは33杯目のラスベースをゆっくりと飲み干す。
「もう駄目だ。気分が悪い。」
5時間近く飲み続けたパーラスも、ついにカウンターに額をつける。
「こーなったら!」
「こーなったら?」
額をカウンターにつけたまま叫ぶパーラスを周りが一斉に注目する。
「悪酔いに!迎え酒だ!!!」
立ち上がり、14杯目のラスベースを一気に喉に流し込むと、パーラスに拍手喝采が巻き起こる。
調子に乗ってジョッキを高々と掲げた途端パーラスの顔色は蒼白になって、慌ててジョッキを口元に持ってくる。
「吐くなら、裏で吐きな!!」
素早くフラロアは、パーラスの腕を引っ張ってカウンター近くの勝手口からパーラスを放り出す。
外は星一つなくしとしとと雨が降り続いていた。
「姉御、タオルとミルク出してくれないか。」
雨に髪の毛を濡らしたパーラスが勝手口からよろけて顔を出す。
「タオルとミルク!?そんなに気分悪いの?」
あわててフラロアがタオル片手にカウンターから勝手口に駆け寄る。
「俺じゃない、こいつだ。」
パーラスは、子猫か子犬のように一人の少年を店の中に引っ張り込む。
髪も服も泥だらけで全身を濡らした少年。
フラロアは持って来たタオルを少年にかぶせて、カウンターの隅に座らせて湯気の出るミルクを出す。
「しかし、派手に汚したな。
いったい何をやらかしたんだ?」
「別に…」
小さく呟いて少年は無言でミルクに口をつける。
「じゃぁ、名前ぐらいいえるだろう。」
少年の顔を覗き込むパーラスの声は段々と荒くなっていく。
それでも少年は小さく首を振るだけで何も言わず、ただ白い膜の張ったミルクを見ていた。
「かぁー、陰気なガキだな。
何があったのか知らねぇけど、
雨の中うずくまって座ってたのを助けてやったのに名前も言えねぇのかよ。」
「ちょっと、パーラス!あんた悪酔いしてるよ。」
パーラスの肩に手を乗せ、喰って掛かりそうなパーラスをカウンター越しに制する。
「ごめんなさい。
でも名前は言いたくないんです。」
うつむいたまま、店の喧騒に消えそうな声で少年は言った。
騒がしい店の中でそこだけが違う時間が流れていた。
「悪かったな坊主。
俺にだって、そんな気分になるときもあるのによ。」
36杯目のラスベースをチビチビの飲みながら、目を合わさずに独り言のように言う。
「まぁ、これでも飲めよ。」
パーラスはいつの間にか注文していた37杯目のラスベースを少年に手渡した。
「それ飲んで、嫌なことは全部忘れちまえよ。」
少年は初めて飲む苦いラスベースを涙と一緒に一気に飲み干した。
朝、昨夜の雨はきれいに上がって、青空には小鳥たちが舞っていた。
窓越しの朝日がベッドの上で寝ているパーラスの顔を照らす。
「熱い!!」
開口一番叫んで目を覚ましたパーラスはゆっくりと部屋を見回す。
並んだ2つのベッドに真っ白なシーツ、部屋の片隅にあるテーブルには湯気の立つラソウ茶が爽やかな香りを立てていた。
「ここはどこだ?」
まだ酔いの残る頭で、ゆっくりと昨日のことを思い出す。
「おはよう、パーラスさん。朝食持って来ました。」
「あっ昨日の…!」
扉を開けて部屋に入ってきた少年に、パーラスが思わず声を上げる。
「はい。昨日はごちそうさまでした。」
「あっ悪い、昨日のことあんまり覚えていないんだ。」
明るい少年の言葉に申し訳なさそうにパーラスが答える。
「ほら、お前にラスベースをおごったのまでは覚えてんだけど…」
「ああ、パーラスさんとあの後2時間ぐらいお話して、そしたらパーラスさん急に寝入ちゃって、少し様子見てたんだけど起きないから近くの宿屋まで運んでもらったんだ。」
少年はベッドの片隅に腰を下ろして上品にラソウ茶を飲みながら、昨日のことをパーラスに教えてあげた。
「それで、安い宿だけど、僕も宿取りたかったから。」
「安宿!?上等じゃねぇか?
俺がサイディール街道を旅してたときの宿なんざ8人相部屋でよ、4段ベッド2つと真ん中に四角い台が置いてあるだけだぜ、信じられるか?
朝起きると頭ぶつけるんだぜ。」
朝食を食べながらパーラスは大袈裟に身振り手振りで少年に話し掛ける。
少年も初めて聞く山道、町、そして出会いとわかれの話に瞳を輝かせて聞き入っている。
「ところでよ、坊主。
昨日よりずいぶん顔色が良くなったな。」
「昨日はパーラスさんに色々話を聞いてもらってスッとしたから。」
わりぃ、覚えてねぇわ。
パーラスは苦笑いをして、頭を掻いた。
「ああ、それでから俺のことは『パーラス』でいい、べつにさんづけしなくてもな。
坊主の名前は?」
「ごめんなさい、やっぱり名前は言いたくないんです。」
途端に少年の声が暗くなる。
「でもよ、『名無しの権兵衛』って呼ぶわけにもいかねぇし、『パリア』でどうだ?」
「『パリア』!?」
きょとんとした顔つきで少年はパーラスを見つめて、パーラスはいつもの陽気な調子で言葉を続ける。
「お前が本当の名前を教える気になるまでの偽名。まぁ、ニックネームだな。」
「『パリア』いい名前だね。」
「ああ、なんたって昔俺が名づけたペットの名前だからな。」
少年はおもわずラソウ茶を口から吹き出しそうになった。




