第一話:事の発端
涙の数だけ強くなれると言うなら、
僕らはその涙を流す為にどれだけ傷つけばいいのだろうか?
立ち止まり、肩で息をした。心臓がまるで早鐘のように打ち、喉の奥から鉄の味がせり上がってくる。身を包む服はあちこち破れてしまい、先ほど草で切った傷は、血と土がこびりついて黒ずんいた。背後から自分を追う者の声が聞こえ、震える足を叱咤して再び走り出す。体中から悲鳴が上がるが、その痛みは慣れたものだった。
(逃げてばかりだな)
自嘲的な笑みを浮かべ呟いた。追う者達の足音は、着実に自分に近づいている。つるつると滑る木の根の上を、ペースを落とさず走り続けた。苔の生えた木の根や岩は、足跡を残してしまうが、追ってくる鎧の男たちには足止めになる。白くなった息が静かな森に広がり、小さなこだまとなった。そして、後ろから来る鎧のガチャガチャという騒音で、すぐに掻き消される。
(ここまでか…)
目の前に広がる、深い青色の谷間を覗き込みそう思った。冬の冷たい水が、勢いよく飛沫を上げ流れていく。逃げ場がもう無い。一先ず引き返そうと振り向くと、ニヤニヤ気味の悪い笑みをした兵士達が囲むように立ち、こちらを見ていた。手に持った剣が鋭利な輝きを湛える。膝が崩れそうになり、それを支え体中に走る痛みが急激に増した。まだあどけなさの残る顔が、苦痛で歪む。だが、ただ殺されてやるのだけは嫌だ。腰に提げた短刀を、痛む手で引き抜いた。
「おい!やるきだぜぃ、このガキ。おっもしれー。敵うと思ってんのか?」
「相手は、かの有名な勇者様かもしれないからな。鄭重にお相手して差し上げなくては!」
兵士達の間で笑いが生じた。凛と静まり返った森に、全く不似合いな下賎な笑い声が響く。
「俺は、勇者なんかじゃ無い!!」
短刀を振りかぶり叫んだ。しかしその時、横からの衝撃が伝わり、体がブワリと浮く。そして、そのまま背中からたたき付けられ、一瞬呼吸が止まり喉から声がもれた。むせる度に、体の軋む音が聞こえるようだ。
「当たり前だ!お前のような貧相なガキが勇者であってたまるか!!」
罵声が飛び、それが頭に痛く響いた。『大変だ!勇者様をお殴りしていまった!』と、わざとらしいおどけた声に、再び笑いが起こる。
(こんな奴らに殺されてたまるか!手柄になんかさせてやるもんか!!)
苔むした岩に手をついて、無理矢理立ち上がった。そして短刀を構えると、突如頭に鈍い痛みが生じ、目が霞み地面がぐらりと揺れる。ふと、開放感が広がった。風音が大きくなり意識が遠くなる。兵士達の怒鳴り声が、とぎれとぎれに聞こえた。
(ざま見やがれ…)
水音とともに、自分の意識は閉ざされた。
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もう200年前の事。愚王の治世が続き、国はほぼ上流階級の貴族達の私服を肥やす為、その為だけに動かされているも過言では無い状態だった。都は豊かになり、地方は荒れ、病が流行り、日照りが続き、死ぬ者や餓える者、または家を無くしさ迷う者が増えていった。だかそんな時、一人の男が現れたのだ。男は、精霊や古代のまじないを使え、国に怯える民衆を奮い起こし、国王とその周りの貴族を一掃した。そして、人々を正しい方へ導くと、そのまま姿を消したという。だれもが彼を、勇者と呼んだ。
そして始まりである14年前。新たな勇者がこの地におりたと預言者が言った。国王は、自分が討たれると信じ、脅え狂ったあげく、国全土へ命を下した。
「その年に生まれた赤子を全て殺せ!一人も残すな!邪魔だてする者は皆、国家の敵とみなす!殺せ!!勇者を確実に殺すのだ!!!」
この後王都では、勇者が生まれたとされる年に生まれた子供の全てが殺された。国民からは、暴君という声が上がり、王を討てと反乱がいくつも起こった。しかし、それを起こした者達は、王直属の軍により捕らえられ、家族もろとも公開処刑となった。そして、今でも軍は各地に行き、その年に生まれた子供を捕え王都に連れて行く。もはや、国民の敵は王だけでは無かった。勇者という存在、それが国を泥沼化させていた。
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「…ルース。パラン島での報告を。」
「は!」
ルースと呼ばれた女将軍は顔を上げ、久々に目にする王を見つめた。しかしその顔は、もはや恐怖と疲れで痩せ衰え、こけた頬にシワが目立つ。暗く窪んだ目だけが、まるで生きている証のように、ギョロリと大きく見開かれていた。
(また、お痩せになられた…)
忠誠を誓うと心に決めた王。その姿を見て、ルースは痛々しい思いを必死で隠し、普段通りの表情を作った。14年前の厳格な姿は、もうその目に残る強い光りしか無い、覇王と恐れられた片鱗すら、当の昔に失われてしまっていたから。つまり、自分を殺すという勇者の存在は、それほど王に重くのしかかっているのだ。勇者を一刻も早く殺す。それしか、王を救う手だてが無い。ルースは、苦々しく顔を歪める。王の名で子供を狩っても、国民からの敵意を増すだけでしか無いのに。それを解っているのに。その方法しかないのは、事実でしかなのだ。この国は…、終わる。
「今年15になる少年は、全て捕らえました。逃げた者に関しては、皆殺してあります。どうかご安心を…。」
「うむ。―では捕らえた者、全員を公開処刑にせよ。」
「王っ!」
平然と言い放った王に、ルースは思わず声を張り上げた。国民の敵意をこれ以上、王に向ける訳にはいかない。
「勇者ならば、それらしき人物が上がっております!だから、ほかの者達の命はお助けください!つい最近、グリム将軍の配下が取り逃がした者。その者が、精霊と会話をしていたと…。」
「取り逃がしただと!!」
グリム将軍は、ルースと同じ王直属の三将軍の一人だった。しかしルースは、少し前に聞いていたその報告を、意図して王には伝えなかった。
「申し訳ございません。王のお心に負担を掛けまいと、黙っておりました。グリム将軍、カーライン将軍には、もう既に、その少年を追うようにと伝えてあります。」
「ならば、その少年を捕らえ次第、子供は返すと国民に伝えよ!!勇者の特徴と共にな!忌ま忌ましい勇者をあぶり出してくれる!」
怪しげな笑みを湛えた王に、ルースは国の最後を見た気がした。