花子の孤独と憎悪
私は激怒した。
──某有名短編文学作品の冒頭のパクりなんかでは決してなく、本当に心の底から激怒した。
「ハラワタが煮えくり返るほどの怒り」っていうのを、人生で初めて経験した。
私にはお兄ちゃんがいた。名前は太郎。ごく平凡なパートアルバイター。
両親は早逝していなかったので、五歳下の妹である私の学費はお兄ちゃんの収入と、親戚からの仕送りで賄われていた。
親がいないことで周りから色眼鏡で見られたし、経済的に苦しい環境だったのであまり贅沢はできなかったけど、優しいお兄ちゃんとの生活が辛いと思ったことはほとんどない。
アルバイトだけど、真面目に働いていつも頑張ってくれているお兄ちゃんが、私にとって何よりもの自慢で、おかげでクラスメイトから「ブラコン」なんてからかわれることもあった。でもむしろ「ブラコン上等!」って胸を張り返しちゃうくらいお兄ちゃんが大好きで、お兄ちゃんと平凡に暮らせることが幸せだった。
人並みの学歴を得たら、将来私は安定した職業に就いて、これまで苦労させてきたお兄ちゃんを休ませて恩返しをしてあげるんだ。そのために、今できる限りのことを一生懸命やらなきゃ。
当たり前のようにそう考えていた。
──半年前、勤め先の工事現場でお兄ちゃんが事故死するまでは。
必死に謝り倒してきた現場監督の人の話によれば、クレーンで運搬中の鉄骨を吊るしていたロープが突然千切れ、お兄ちゃんはその下敷きになったという事だった。救急車で運ばれた時にはもう息はなかったらしい。まるでドラマのワンシーンみたいな死に方だ、とか思ってしまった。
あまりにも突然の事に、頭がついていかなかった。
薄暗い霊安室で蝋人形のように硬直したお兄ちゃんの亡骸を前にしても、現実感が湧かなくて呆然としていた。
私がどうすることもできないうちに、親戚の人たちの手で葬儀が行われ、保険金とかの手続きも終わって。
そうして、帰り主を喪ったお兄ちゃんの部屋に入った瞬間に、涙腺が決壊した。
お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん、お兄ちゃん。
泣きながら、何度もお兄ちゃんの名前を呼んだ。返事はなかった。ますます泣けてきて、頭と心の中がぐちゃぐちゃになって、狂ったように部屋の物を投げて引きずり倒して暴れ回った。
立ち直るまでに二週間かかった。
最初の一週間、私はひたすら荒れまくった。
一日中抜け殻のように部屋で座り込んで、思い出したように泣き喚き、疲れるとまた抜け殻になって、悲しみが息を吹き返すとまた泣いて、その繰り返しだった。
何度も台所のナイフを握りしめて、手首を傷つけたり喉に突き付けたりした。冷たい刃が肌に触れると、体が硬直してそれ以上動けなくて、怖くなって放り出すしかなかった。
あんなにお兄ちゃんが大好きだったのに、こんなにお兄ちゃんに会いたいのに、結局自分の命までは捨てられない自分が惨めで情けなくて許せなくて恨めしかった。
そんな時、リビングの床へ無惨に散らかった家具を眺めていて、あるものを見つけた。
一冊の少年漫画。タイトルは『ノソトロスの剣』。
リビングの本棚に巻数順に並べてあったものを、床に投げつけて滅茶苦茶にしていたのだ。
『ノソトロスの剣』は、週刊漫画誌で五年以上に渡る連載を誇る人気作品の一つで、アニメ化もしている。映画化も決まってますます話題になった。ファンの間では『ノソ剣』と略され親しまれている。
いわゆる「剣と魔法のファンタジー世界」を舞台にした漫画で、跋扈する魔物達を率いる魔王を倒すために立ち上がる勇者達の冒険と戦いを描く──
ありきたりな粗筋で、しかも少年漫画だったから、書店の平積みを見てもまるで興味が湧かなかった。
だけど、ふとしたきっかけで同級生に猛プッシュされたので、眉に唾しながら何冊か借りて読んだ。そして一気にのめりこんだ。
「ありきたりな粗筋」を大いに裏切るスピード感と抑揚に溢れた展開。繊細に、そしてリアルに描かれる心情描写。鮮烈で勢いのある戦闘シーン。魅力にあふれた登場人物たち。たった一人の漫画家が生み出したとは思えないほどに大きなスケールの世界観。
私は『ノソトロスの剣』の全てに惹かれ、同級生に単行本を返してすぐ、自分の僅かな小遣いで一巻だけをこっそりと買い込み、何度も読み返した。二巻以降は、次の月の小遣いを少しずつ貯めて、安い古本屋でまとめて手に入れようと決めた。
『ノソ剣』のどこが好きかという問いに対する答えはいくつも浮かぶけど、とりわけ私は主人公の魔法剣士・スエロに惚れこんでいた。
最初は魔物と魔王に復讐するために旅立つスエロ。目的が目的だから、自分を顧みず、魔物を討つためだったら手段を選ばない、そんなギラギラした危うさに満ちていた。だけど旅をしながら多くの仲間に出会い、守る物が増えるにつれて、復讐ではなく「大事な物を守るため」に剣を振るうようになっていく。そうして一皮剥けていく変化の過程がとても自然で、そんなスエロがかっこよくて、私は好きだった。
ところが、うっかりリビングにそれを置いたまま学校へ行ってしまい、お兄ちゃんに見つかった。
翌日、お兄ちゃんは『ノソ剣』の二巻から最新刊までを大人買いして帰ってきた。
「実は俺も、雑誌の方の連載でずーっと立ち読みしてたんだよな。せっかくだから二人でファンになって一緒に読もうぜ」
照れ笑いしたお兄ちゃんに、私は躊躇うことなく抱き着いた。
それからというものの、私達兄妹の食卓は『ノソ剣』談義一色に染まる。
お兄ちゃんは、スエロもいいけど、後に恋人となる気の強いヒロイン・ヨヴァンと、戦いの最中で再会した妹・ルマナが好きだと言っていた。ヨヴァンは典型的な大人の美女、ルマナはあどけないがかわいい美少女で、ファンの間ではどっち派につくかで物議をかもしている。お兄ちゃんにどっちがいいか聞いてみたら、しばらく真面目に悩んでから「選べない」と断言したので、「鼻の下伸ばしすぎ」とツッコミを入れておいた。
アニメ放送が始まると、欠かさず録画して一緒に観賞して批評し合った。作画が原作に比べて汚いとか、捏造されたストーリーが気に入らないとか、声優さんのアドリブがすごくいい味を出してたとか、他愛のない内容だった。
『ノソ剣』のおかげで、私はいつもよりもちょっとだけ日常生活が充実した。
最近戦闘シーンがグロくなってきたとか話がだらだらしてるとか言われ始めたけど、それでも私は『ノソ剣』に出会えて良かったと思ってる。
だって、『ノソ剣』について話すお兄ちゃんの目は、他のどんな時よりも生き生きした目をしてたから──
そんなことを思い出しながら、私は拾い上げた『ノソ剣』の表紙をなんとなく開いた。
涙を放出しすぎてしぱしぱする目で、過去に何度も捲ったページのコマを追っていく。
ちょうど、最初の山場に当たる所のエピソード──スエロが初めて対峙した魔王に成す術もなく捻じ伏せられ、さらに仲間の中で最初の犠牲者を出してしまい、戦う事と同胞を喪う事への恐怖に立ち止まってしまうという話だった。
しかし、スエロは残る仲間達に励まされ、叱咤され、本当に大事な物を守るために落ち込んでいる場合ではない、また復讐心だけでは魔王には打ち勝てないと悟って再起する。そんな彼の姿を見ていたヨヴァンは、スエロにこれ以上傷ついてほしくないと意識し始める……。
気付けば、ストーリーに熱中していて、あっという間にその巻を読了してしまった。それどころか、床に散乱する家具の中から次の巻を発掘して、続きを読み始めていた。
お兄ちゃんを失くしてからの私の二週間目が始まった。
最初の二日間で最新刊まで読み終えると、一巻に戻って、また最後まで読み尽くした。
財布だけをもって数日ぶりに外へ出て、直近のレンタルビデオ屋で『ノソ剣』のアニメDVDを全巻借りて、家で一日中観賞していた。
戦闘シーンでは手に汗握り、ギャグの部分ではほくそ笑み、悲しい場面では緩んでいた涙腺からぼろぼろと涙が噴き出す。
全部見終わった後、いつも横でぶつぶつと感想を言いながらテレビを見ていたお兄ちゃんの姿がよぎって、また大泣きした。
──こうして『ノソ剣』漬けの二週間目が終わったとき、私はクラスメイト達もびっくりなくらいすっかり立ち直り、再び学校に通い始めたのだった。
なんで立ち直れたのか、自分でもよく分からない。
『ノソ剣』の何が私の心をどう慰めてくれたのかも。
だけど、それでいいのかもしれないと、日が経つにつれて思うようになった。
ただ分かっていたのは、お兄ちゃんとの思い出がいっぱいに詰まった『ノソ剣』がいよいよ手放せなくなり、ますます夢中になってしまったという事だけだった。
それから私は、親戚から引き続き支援をしてもらって勉強を続けつつ、インターネットで『ノソ剣』のファンサイトを巡るようになった。いわゆる二次創作の世界に片足を突っ込み始めたのだ。
キャラクターのイラストを見たり、小説を読んだり、それだけで私は楽しかった。
学校で嫌なことがあっても、『ノソ剣』に触れるだけで前向きになれた。
半年が過ぎ、自分も『ノソ剣』の二次創作に手を出してみようかと目論み始めた頃、私はその小説を見つけてしまったのだ。
「……うわ、またチート転生? よくも懲りずにまあ……」
とある二次創作小説投稿サイトで『ノソ剣』原作の作品を検索して、ずらりと並んだタイトルの数々に私は辟易した。
指定された各作品のタグには「チート」「転生」「最強主人公」の文字が当たり前のように含まれている。
最近急増し始めたこの手の小説が、私はあまり好きじゃなかった。
読んでみてもストーリーはほとんど原作をなぞるだけで何の創作性も感じられない。
転生した主人公が介入したことである程度話が変わるにしても、主人公が「最強」だから話が気持ち悪いぐらいトントン拍子に進みすぎて面白くない。第一、大好きな原作のストーリーがどこの馬の骨とも分からない部外者の介入で都合のいいように捻じ曲げられる事自体気に食わない。
さらに付け加えると、そうして転生する主人公のほとんどが男で、転生先の世界にいた女性キャラ達に無条件に好かれまくって、単なる自己満足のハーレムストーリーに堕している。
はっきり言って、私にはこのジャンルの面白味が全く理解できない……。
溜息を吐きながら適当に画面をスクロールさせていった時、作品紹介の欄に「太郎」という名前を見つけて、私は手を止めた。
最初は偶然かと思った。太郎なんてよくある名前だから。
でも、なんとなくその作品の冒頭を読んでみて、主人公の苗字までお兄ちゃんと同じと分かった時には思考停止した。
自慢じゃないけど、私たちの苗字はかなり珍しい響きと綴りで、名札を見た人は必ずと言っていいほど「何て読むんですか?」と聞いてくる。少なくとも、下の名前と違って"よくある"苗字ではない。
そのお兄ちゃんと同姓同名の主人公が、『ノソ剣』の二次創作に出ている。──偶然か?
私はその小説を本格的に読み始めた。
愕然とした。
正直なところ、その小説は文章が小学生の作文レベルの拙い奴で、誤字脱字も多く、とにかく読み難いったらありゃしなかった。
だけど、作中にちりばめられた主人公「太郎」の言葉遣いや癖、食べ物の好み、さらには転生時にちらっと綴られていた、彼自身の生前の生活事情が、死んだ私のお兄ちゃんとそっくり──いや、そのものであることが分かった。
──どういうことなのか?
私はしばらく考え込み、学校でも携帯電話を使って作品を何度も何度も読み返していた。
だけど、ある時クラスでSFオタクと言われる同級生が自慢げに言っていた話を不意に思い出して、一つの結論に達する。
その同級生が言うには、この世に送り出された作品の数々は、実は地球とは違う異世界で実際に起きた事件を作者が無意識に"受信"することで生まれたものに過ぎないらしい。
元々「作者となるべき」人間達には、そういう異世界からの情報を受け取りやすい感受性に富んでいて、話を綴ったり絵を描いたりする際に受信能力をフルに利用し、作品として発信することにいつしか義務感のようなものを覚え始める。そして、いわゆる「神が降りた」瞬間──つまり、文章やストーリーや絵の構図のアイディアが次々と生まれて創作活動が爆発的に進む時、彼らの受信能力は最大限に研ぎ澄まされていて、逆にスランプで全く筆が進まなくなるのは、何らかの原因で異世界からの受信が妨げられているせいだと考えられているのだとか。
勿論、最初は胡散臭いと思ってまともに取り合う気などなかった。
だけど、もし……それが本当だったとしたら?
例えば、私が見つけた『ノソ剣』の二次創作小説が、実際に存在する異世界から一定期間の歴史の情報を受信して、その作者が書き綴ったものだったとしたら?
導き出される答えは一つだった。
──つまり、この中で常識破りの反則も大概にしてほしいくらいのチートな最強の戦闘能力を振るって、私達兄妹の思い出の大切な痕跡とも言える『ノソ剣』の世界を好き勝手に食い荒らし、美女のヨヴェンとかわいいルマナと平気で二股をかけ、本来の主人公であり私が好きなキャラのスエロをただの脇役にまで追いやって、満足そうにふんぞり返っている主人公が、まごうことなく私のお兄ちゃん・太郎なのだと。
私は激怒した。
生きている時に苦労したとはいえ、お兄ちゃんがチート転生なんて安っぽい好待遇を簡単に認めてしまった事に。
お兄ちゃんが、いくら見目麗しいからといって、女の人をはべらせて囲んでもらうなんて低俗さ丸出しのただのナンパ男に成り下がってしまっている事に。
あれだけ私が「スエロのどこがいいか」を語って、熱心に聞いてくれたはずなのに、そんなことも忘れてスエロの立場を平気で踏みにじっている事に。
二人であんなに夢中になって、魅了された『ノソ剣』の世界を跡形もなく壊すことへ、お兄ちゃんが何の躊躇いも戸惑いも覚えなくなっている事に。
取り残された私を毛ほども心配せず、気楽に構えている事に。
自分自身が経験した「死」の重みも理解できていない事に。
──何より、そんな生き方へあっさり転んでしまうほど、生前の人生に不満や疑問を覚えていたはずなのに、生きている間妹の私に一言も相談してくれなかった事に。
私は激怒し、落胆し、半年ぶりに涙を流した。
その翌日、私は帰宅途中で通り魔にナイフで腹を刺されて、ころっと死んでしまった。
17年の短い人生だった。
公開が迫っている『ノソ剣』の映画の前売り券を買ったのに観に行けなかったことが、一番の心残りだった。
「……え、あれ? 何ここ──ぉえっ、ぶエほッ!」
突然開けた視界に充満した真っ白な煙が鼻腔に侵入し、薬っぽい濃厚な臭いで思いっきりむせ返った。
喉元を押さえて必死に深呼吸して落ち着いてから、くるり、と周囲を見回した。
もくもくと煙が地面全体に蠢いて、膨らんだりしぼんだりを繰り返している。あちこちでちらちらと淡い光が点滅し、まるで雷雲の中で光る稲妻のようだった。
「な、に、ここ……」
不思議な空間だ。
体育館並みの大きなホールのようにも見えるし、実際は狭い小部屋のようにも感じられる。煙が足元や周りを漂って目隠しするので、距離感がおかしくなりそうだった。
とりあえず、学校指定の革靴の底から伝わる地面の感触だけは確かだ。
そこで、はッ、として自分の鳩尾を押さえた。
掌にブレザーの制服に並んだ冷たいボタンと布地が触れる。ナイフで裂き開かれたはずの穴も、生暖かい血も、痛みも消えていた。
「え、あ、あれ、なんで?」
──心配要らん、もうお前が苦痛を覚えることはこの先有り得ぬ。
突然、どこからともなく奇妙な反響音を残して、厳かな声が話しかけた。
その時、初めて気づいた。目の前に佇む、白い衣服と長い白髪と白髭を蓄えた老人の存在に。
ひょろりとした痩せ形で、目線が私よりも若干高い。
足元が煙で見えなくなってて、まるでその場に浮き上がっているような錯覚を受ける。
まさか、という思いが私の中に生まれた。
──よくここへ来た、●●●花子よ。
──そして、お前を短い生涯で死なせてしまった我が罪深き所業を、許してほしい。
──信じがたいかもしれぬが、私はお前たちの運命の手綱を握る……
「──長ったらしい能書きはいいよ、あんたが噂の神様ってわけね?」
ふ、と口元に笑みを寄せて、私はその老人の言葉を遮った。
老人は言葉を止めて、わずかに目を見開いた。随分俗っぽい反応をする神様だ。
「で……自分の手違いで死なせちゃったから、償いとして私を好きな所に転生させてあげようってこと? それとも生前に何か良いことをしたからそのご褒美? まあどっちでもいいか。あとオプションで特別な能力をくれてハーレム……いや、私は女だから逆ハーレムだっけ。それで順風満帆で何の障害もない幸せな人生にさせてあげるって言うんでしょ。わざわざどうもご苦労様です」
慇懃無礼に頭を下げてみせれば、ぴくり、と眉尻が上がった。この神様は意外と神経質なのかもしれない。
それでもなんとか落ち着きだけは保とうとしているようで、ゆっくりと唇を動かした。
──事情は呑んでいるようだな。
──ならば、選び、そして告げてみるがいい。お前の望む行き先と欲しい力を……
「黙れよ。私の話は終わってない」
ぴしゃりと一蹴した。
「小説読んだ時から、本当にいるものなら一度そのツラ拝んでみたいとずーっと思ってた……。あの話が本当なら、お兄ちゃんを殺したのはあんたってことだよね?」
──おにいちゃん?
胡乱げに神様が眉をひそめた。その態度に無性に腹が立って、どうにか紛らわすために両腕を組む。
「とぼけんな。半年前に工事現場の事故で死んだんだよ、私のお兄ちゃんは! あんたが今の私みたいに手違いでお兄ちゃん死なせたんでしょ? それで、詫びに『ノソ剣』の世界に便利な超能力つきで転生させた……違うとは言わせない。私をどっか違う世界に放り出したいなら好きにしろ。だけど、その前に包み隠さず正直に答えて。
──お兄ちゃんを殺して、あんなふうに変わり果てさせたのは、あんたなの?」
沸騰していく激情のまま問い質す。指先が二の腕を小刻みに叩き、目元の筋肉が自分のものでなくなったみたいに痙攣した。
神様は私を見下ろしたまま、しばらくの間黙り込んでいた。
何の感情も読み取れない、険しい顔のまま。白い前髪の向こうにある眼差しは、柔和とも冷徹とも取れる不思議な色を浮かべていた。
……ふぃーっ、と緊迫感を吐き出すような深い溜息が響く。
同時に、張り詰めていた空気が変わったのを感じた。厳かだった神様が困ったように目尻を下げ、肩からも力を抜く。
おもむろに人差し指を白髭の中に突っ込んで、すとん、と下に降りた──って、こいつ浮いてたんじゃなくて壇に上がってただけだったのか。
そして、
「ぅわあっははははははははははは!!」
爆笑した。
当然、私は唖然とする。開いた口が塞がらない、ってこういうのを言うんだろう。
皺だらけの顔をさらにくしゃくしゃにして、腹を抱えて、煙の中にしゃがみこんで大笑いする。
そういえば、声がさっきまでの変な反響のなくて普通になってる。
まさか──合成? 神様なのに? なんでそんな小細工を?
「ははははっはは、はっ……はあ」
ひとしきり笑い倒した後、神様は凝りをほぐすようにぐっと体を伸ばし、かくかくと頭を左右に揺らした。
「ああー……っと。いやいや、ごめんねえいきなり。スピーカー切っとかないと、笑い声でハウリングしちゃって軽く大惨事になっちゃうから、鼓膜とか鼓膜とか鼓膜とか」
ずっと立っていた壇に腰を下ろし、へらへらと笑う神様。……いや、神様、なのか?
当初に抱いていた確信があまりにも簡単に崩されて、戸惑うしかなかった。
「さあて……どうしようか。いやーでもびっくりしたよ、まさか自力でボクらの真実に辿り着いちゃうとは思わなかった。……んー違うか、辿り着いたとしても普通は『まさか』で済ませて忘れちゃうよね」
ふむ、と顎に手をやって一人で語る神様──でいいや、もう。
「ま、いずれにしても君のその賢さと最終的にここへ辿り着いた幸運には感服だよ。ホントすごいすごい。久々にいいもの見せてもらった! というわけで……君、名前は花子ちゃんだっけ。件のお兄ちゃんのお名前を聞いてもいいかな?」
「──神様っ!!」
ばたーん!と乱暴な音を立てて、煙の向こうからドアが口を開けた。そこから私と同い年くらいの中性的な顔立ちの子がずかずかと歩み寄ってくる。
「この期に及んで何やってんですかあなたは! もう真実が知れてしまってることは仕方ないですからいいとして、さっさと本人に転生への了承を宣言させて次に行ってください! 今ならまだ引き返せます!」
「やだー」
「やだ!? やだって言いましたか今!? 小学生じゃあるまいしホント冗談抜きでぶん殴りますよ!?」
「だーいじょうぶ。少なくとも協会規定には触れてないから、ギリギリ無傷で済むって」
「規定に触れないのは、たかが一般人が転生システムの真意に勘付いた上に自分が死んだ際、相手の神様に喧嘩売るなんて事態をそもそも想定して作られたものじゃないからです!」
「なおのこと好都合じゃない。どうしてそんなに焦る必要があるの? 交渉の内容がどうあれ、ボクらの仕事は"喚ばれた"人間たちを諭して、能力を付けて転生させること。そのお勤めはしっかり果たしますよ。ただ……ちょーっとアレンジを加えてみるだけ」
「アレンジって、あのですね」
「平気だよお、マイケ君。そんなに怯えないの。いざって時はボクが全部の責任負うから、だからちょーっとだけコレにしといてくれる?」
一方的に怒鳴ってくるその子に対し、神様はにこにことはぐらかして、口元に人差し指を立てて「内緒」を意味する仕草をしてみせる。
彼──「マイケ君」はなおも言葉を続けようとして、呑み込み、行き場のなくなった不平で口をぱくつかせたが、やがて諦めたように頭を抱え込んだ。
「……もう、知りませんよホント」
「うん、ありがとーねえ。では改めて、花子ちゃん。お兄ちゃんの名前を教えていただけますでしょうか?」
痩せた膝に頬杖をついて、神様は再度訪ねてきた。
ずっと話の置いてけぼりを食っていた私は、一瞬躊躇って、しかし思わず答えを返していた。
「……●●●太郎」
「うん。えーと半年前に工事現場だっけ? あと転生先が『ノソ剣』の所……どうかね、マイケ君」
神様が声をかけると、マイケ君は渋い顔をしながらも手に持っていた端末を操作し始めた。
「──ええ、ありましたよ。確かに記録が残ってます……って、他ならぬあなたが送った人間ですね」
「あれ、そうなの? ありゃーすごい偶然。そうか……よし。それでね花子ちゃん。ものは相談なんだけど、ぶっちゃけお兄ちゃんに会いたいと思わない?」
思いがけない提案に、私の思考停止時間がさらに延長された。
「ボクの斡旋……非公式だけどね、そういう形で君をお兄ちゃんのいる『ノソ剣』の世界に送ってあげよう。一言に"『ノソ剣』の世界"って言っても、実はたくさんある。パラレルワールドって言ったら分かりやすいか……各世界には基本一人しか転生させないんだけど、今回は特別に、君をその"太郎君が転生した『ノソ剣』の世界"に送り出してあげる。ここに辿り着いたご褒美でね。どうだろ? 悪くない話でしょ」
正直、神様の言ってることはよく呑み込めなかったけど、一つだけ分かった。
お兄ちゃんに会わせてもらえるってことらしい。
唐突な展開に、ますます頭がついていかない。混乱する脳を落ち着かせるのに、私はただ黙り込んで、時間をたっぷり費やすしかなかった。
その間、神様はのんびりと待ってくれてたし、マイケ君は苦い表情をしながらも待機してくれた。
「……ひとつ、条件があるんだけど」
切り出した私の言葉に、神様がにんまりと微笑んで「なんでございましょう?」と小首をかしげた。




