「欄外の数字は無駄だ」と追放された私、実は魔法薬を安定させる唯一の調合技師でした ~私をクビにした特級ラボが、翌日、極薬の爆発で吹き飛びました~
「おい、また記録用紙の隅に暗号みたいな数字を書いてるのか。気味が悪いんだよ」
羊皮紙を叩く鋭い音が、静まり返った『特級ラボ』に響いた。
筆頭研究員のミロが、私の手元にあった記録ノートを奪い取る。そしてためらいもなく二つに割き、四つに破り、床へ投げ捨てた。破片が魔導ランプの光の中で舞う。
「その神経質さには付き合いきれない。『気温上昇による粘度変化の補正値』だと? 規定通りのレシピに従って、規定の時間煮詰めれば済む話を、お前がいちいち数字を書き足すから作業が長引くんだ。今日限りでこのラボの記録権限を返上しろ」
私は床に散らばった紙切れを見つめ、握っていた羽ペンを置いた。
私の名前はレオン。王立錬金術学園の特級ラボで、三年間「補助員」として作業記録と環境データの管理を担当してきた。
「わかりました。権限はすべて返上します。私はただの補助員ですから」
反論も嘆願もせず、そう答えると、まとめておいた私物を革の鞄に詰め、整理した引き継ぎ書を机の中央に置いた。
「あっさり出て行くんだな。少しは『置いてください』と泣きつくかと思ったが」
「いいえ。指示通り、本日付で退会いたします」
私は一礼し、ラボの木製扉に手をかけた。
扉を閉めた瞬間、背後からミロと仲間たちの笑い声が漏れ聞こえてきた。
「せいせいした! あんな雑用係がいなくなれば、明日の『天照の極薬』の披露宴は俺たちだけで手柄を独り占めできる」
私は振り返らず、夕暮れに染まる学園の石畳を歩いて敷地を後にした。
しかし、彼らはまだ気づいていない。
なぜ私が毎日「無駄な数字」を書き続けていたのか。そして明日彼らが挑もうとしている『天照の極薬』が、どれほど精密さを求める薬品なのかを。
翌朝、特級ラボはかつてない熱気に包まれていた。
豪華な衣装の要人たちが列をなし、中央には学園長。その隣には王立騎士団の幹部たちが、腕を組んで立っていた。
「学園長、本当に今日『天照の極薬』の完成披露ができるのだな。我が騎士団にこの秘薬を投与できれば、国境警備の戦力は上がる。追加予算の認可はこの目で確かめてからだ」
「ご安心ください、騎士団長どの」
学園長は揉み手をしながら胸を張った。
「当学園が誇る天才、ミロ筆頭研究員のチームが準備を整えております。……そういえばミロ、いつもお前の後ろでメモを取っていた補助員はどうした?」
学園長の問いに、ミロは笑みを浮かべた。
「ああ、あの変人ですか。手際が悪く、作業の邪魔ばかりするので昨日追放いたしました。あんな雑用係がいなくとも、我々の技術があれば問題ありません。どうぞ、調合プロセスをご覧に入れます」
ミロは宣言すると、ラボ中央の大鍋の下、魔導炉に魔力を注ぎ込んだ。
『天照の極薬』――服用した者の魔力と身体能力を底上げする超高位の薬だ。精製難易度は高く、材料費だけで小国の予算に匹敵する希少植物や高純度の魔晶石が使われている。
「第一工程、サンシャイン・ハーブの抽出液を投入。規定通り百ミリリットル」
「第二工程、火炎蜥蜴の尾の粉末を添加。撹拌機の回転数は毎分三百回転」
ミロの指示のもと、研究員たちが手際よく材料を投げ込んでいく。ここまではマニュアル通りだった。
作業開始から三十分が経過した頃。
ラボ内に異変が生じ始めた。
漂うはずのハーブの香りが消え、代わりに焦げ付くような酸臭が充満し始める。
「な、なんだ? 黒煙が上がり始めたぞ」
観覧していた騎士団員たちがざわめき立つ。大鍋のフチから、黒煙が噴き出していた。
「ミロ先輩、薬液が激しく沸騰しています。規定の温度を超えています。色が青から濁った紫色に変わって……」
「落ち着け、動揺するな」
ミロは汗を吹き出しながら叫んだ。
「分量も、投入のタイミングも、火加減もすべて規定通りだ。マニュアル通りにやっているんだから失敗するはずがない。レシピ通りに次の材料を混ぜれば戻るはずだ」
ミロは焦った手つきで、私が昨日残していった『標準作業手順書』のページをめくった。
しかし、そこに書かれているのは、過去の文献から転載した基本的な配合手順と、標準的な規定値だけだった。
「くそっ、なんでだ。なぜレシピ通りにやって泡立つ。あいつがいつも余白に書いていた、あの数字はどこだ」
ミロはゴミ箱へ駆け寄り、前日に自分が破り捨てた私のノートの切れ端をかき集め始めた。煤にまみれた紙切れをパズルのようにつなぎ合わせる。
そこにあったのは、私が毎朝誰よりも早くラボに来て記録していた「無意味なはずの数字」だった。
『※注意:室温が24度を超えた場合、魔導炉の出力を12%下げ、撹拌速度を1.5倍にすること。薬液の粘度が低下し、熱伝導が異常伝播する』
『※湿度60%以上の日は、第3成分の投薬間隔を4分空けること。大気中の水分と反応して急激な酸化を引き起こす。怠ると爆発する』
「な、なんだこれは」
ミロの手が震え出した。
「あいつ……ただマニュアル通りに作業をこなしていたんじゃなかったのか。毎日、その日の気候や室温、湿度、魔力濃度の変動に合わせて、調合比率と手順を計算し直していたというのか」
そう――私は「変人」だから無駄な作業をしていたのではない。
『天照の極薬』は、周囲の環境変化に敏感な薬品だ。気温が一度上がれば反応速度が変わり、湿度が数パーセント変われば薬液の安定性が崩れる。マニュアル通りの「固定値」で完成させられるような代物ではなかった。
この三年間、特級ラボが「どんな日でも完璧な成果」を出し続けていられたのは、ミロたちの技術が優れていたからではない。
私が毎朝誰よりも早くラボに入り、気象データを計測し、補正計算を行って、陰から調合を成立させていたからだ。
それを彼らは「手際が悪い」「作業を長引かせる無駄な記録」と見下し、踏みにじった。
「まずい……」
ミロが窓の外を見上げた。外は雲ひとつない快晴。日差しが強く、気温は急速に上昇している。
「今日は今年一番の暑さだ。このままマニュアル通りに煮詰めたら――」
「ミロ、どうしたというのだ。早く抑え込め」
学園長が青ざめた顔で怒鳴った。騎士団長はすでに剣の柄に手をかけ、警戒態勢に入っていた。
「無茶です。補正計算がわからない。今の気温と湿度で、火力をどれだけ下げればいいのか、撹拌速度をどう変えればいいのか、俺たちにはさっぱり……」
ミロはやけになって、手当たり次第に冷却用の魔法薬を鍋に投げ込もうとした。
「ええい、冷やせばいいんだろ」
だが、その軽率な行動が引き金となった。
熱を帯びて不安定化していた薬液に異物が混入し、化学反応が決定的な破局へと向かう。
大鍋が耳鳴りのような高音を立て、赤紫色に発光し始めた。鍋の表面に亀裂が走り、内側から圧力が膨れ上がっていく。
「全員退避ッ」
ミロが叫んだ瞬間――。
ズドンッ。
猛烈な爆音とともに、特級ラボの石壁が内側から吹き飛んだ。
爆風が窓ガラスを砕き、黒煙と毒々しい色の煙が空へ打ち上がる。要人たちは騎士団員の防御魔法で難を逃れたが、爆発の直撃を受けたミロたち研究員は、全身煤だらけになり、眉毛を焦がして中庭の芝生の上に転がり出された。
「ゴホッ、ゴホッ……酷い目にあった」
煙が少しずつ風に流されていく。
そこには、凄惨な光景があった。
かつて学園の誇りであった特級ラボは屋根が崩落し、内部の機材や素材はすべて黒焦げの灰と化していた。数億ゴールドの価値があったとされる『天照の極薬』の素材も、跡形もなく消えている。
「ミロォッ」
煙の中から現れた学園長の顔は、怒りで歪んでいた。
「貴様、完璧だと言っていた実験室を吹き飛ばし、国家予算と素材をすべて灰にしたのか。騎士団長どのの前でなんという失態だ」
「ち、違います学園長。これは俺のせいじゃない」
ミロは地面を這いずりながら、必死に言い訳を叫んだ。
「全部あのレオンという補助員のせいです。あいつがわざと重要データを隠し、俺たちを陥れるためにトラップを仕掛けて逃げたんです。あいつが戻ってきて計算し直せば、まだやり直せます。捕まえて連れ戻してください」
「私のせいですか?」
涼やかな風とともに、静かな声が広場に響いた。
全員の視線がその人物へ向けられる。
焦げた瓦礫の立ち込める中、足音も静かに歩み寄ってくる男がいた。
ボロボロの作業着ではない。仕立てられた紺色の薬師服を着た私――レオンだった。
隣には、洗練された身のこなしの老紳士が付き添っている。
その顔を見た瞬間、学園長と騎士団長の目が見開かれた。
「な……サンジェルマン薬工の総裁どの」
サンジェルマン薬工。大陸全土の医療と錬金術市場を握る、国内最大手の薬工ギルドだ。学園に支払われる予算とは比べものにならない財力と権力を持つ。
「お前、レオン」
ミロは血相を変え、膝立ちになって私を指さした。
「どこに行っていた。いいから今すぐ火を消せ。計算をやり直して極薬を完成させろ。お前はうちの補助員だろう」
ミロが掴みかかろうと立ち上がった瞬間、騎士団長の合図で動いた騎士たちが、ミロの首元に剣を突きつけ、地面へ押さえつけた。
「静かにしろ、罪人め」
「な、なんで……学園長、助けてください」
私はもがくミロを見下ろし、静かに告げた。
「無駄ですよ、ミロ先輩」
「昨日付けで退職届を提出し、私はすべての記録権限と補助員としての地位を放棄しました。今の私は学園の人間ではありません」
「な、何を言っている。お前みたいな変人が、学園を辞めてどこへ行くというんだ」
一歩前に出たのは、隣に立っていたサンジェルマン薬工の総裁だった。総裁はミロを哀れむような目で見つめ、口を開いた。
「彼は我がサンジェルマン薬工の『首席調合技師』として、お迎えいたしました」
「し、首席調合技師……この無能な雑用係が」
学園長とミロの声が重なった。総裁は頷き、ポケットから一冊の論文を取り出した。
「昨日、学園を出たレオン君は直ちに我が社を訪れ、彼が三年かけて構築した『気候変動に伴う動的薬理補正理論』の論文を持ち込んでくれました。拝読して驚きました」
総裁は続けた。
「従来の錬金術は『レシピ通りに作れば再現できる』という考えに縛られていた。しかし彼は、気温、湿度、魔導炉の経年劣化、作業者の吐息による湿度上昇までを数値化し、リアルタイムで調合比率を補正する理論を確立していたのです。錬金術界にとって大きな一歩となるでしょう」
「な、なんだと」
「我が社は即座に彼と専属契約を結びました。新設される国家級新薬プロジェクトの責任者として、彼にすべてを委ねることにしたのです」
現場が静まり返る。
ミロの顔から血の気が引き、土色に変わっていった。
「た、頼む。レオン、戻ってきてくれ」
ミロは地面に顔を擦り付けながら、涙と煤と泥で顔を汚し、なりふり構わず懇願し始めた。
「俺が悪かった。お前の計算が正しかったんだ。『変人』なんて言って悪かった。だから補正の計算方法を教えてくれ。あのノートの破片だけじゃ、今日の気温の補正が解けないんだ。これがないと、俺たちは学園長に首にされて、騎士団に投獄されてしまう」
学園長も手のひらを返し、揉み手をしながら私に擦り寄ってきた。
「そ、そうだレオン君。君は我が学園の誇りだ。今すぐ特級ラボの筆頭研究員の座を君にあげよう。ミロを雑用係に降格させて、君がボスになればいい。だからあの爆発の処理と、極薬の再調合を」
あまりの身勝手さに、私は思わずため息をつきそうになった。
私は胸ポケットへ手を伸ばした。
取り出したのは、昨日ミロが破り捨てたノートの中で、私が唯一手元に残していた最後の一枚――今朝の気候データが記された羊皮紙の切れ端だった。
「教えるも何も」
私はそこに書かれた数式に目を通し、皮肉を込めて静かに笑った。
「私は毎日、すべての補正データと計算アルゴリズムを、学園の共有魔法サーバーに自動バックアップとして保存していましたよ」
「え」
ミロの目が丸くなった。
「学園のサーバーに? じゃあ、それを見れば俺たちでも」
「ええ。君たちが『変人のゴミ箱』という名前のフォルダだと笑って、昨日フォルダごと永久削除するまではね」
「――あ」
ミロの口から、間抜けな声が漏れた。
昨日の記憶が蘇ったのだろう。
『おいミロ先輩、共有サーバーに「変人のゴミ箱」って名前の隠しフォルダがありますよ』
『ハッ、あの補助員が残したゴミデータだろ。容量の無駄だ、復元不可能の完全削除にしておけ』
彼らは自分たちの手で、唯一自分たちを救うはずだった命綱を、嘲笑いながら完全に消し去っていたのだ。
「あ……ああ……」
真実を突きつけられ、ミロは頭を抱えてその場に崩れ落ちた。自分たちが犯した愚行の重さが、逃げ場のない現実としてのしかかる。
「騎士団長どの」
学園長が青ざめた顔で助けを求めようとしたが、騎士団長は冷たい目で彼を一蹴した。
「言い訳は不要だ、学園長。国家予算を投じたプロジェクトを個人的な無知と怠慢で灰にし、あまつさえ優秀な研究者を不当に追放して証拠隠滅を図ろうとした。学園への追加予算は即座に全額凍結。ミロおよび関係した研究員全員の錬金術ライセンスを無期限剥奪とし、国家損害罪の容疑で収監する」
「そ、そんな。私の学園が……私の地位が」
学園長はその場に膝から崩れ落ち、ミロは騎士たちに引きずられていく。
「離せ。レオン、助けてくれ。計算式を教えてくれ」
遠ざかっていくミロの叫び声を、私はただ見送った。
彼らが「無駄」と切り捨てた毎日の地道な記録。
それこそが、このラボを支えていた唯一の柱であり、それを失った建物が崩壊するのは当然の帰結だった。
「レオン君」
サンジェルマン薬工の総裁が、私の肩に手を置いた。
「見苦しい者たちの相手はここまでで十分でしょう。我々の新しいラボが、君の到着を待っていますよ。最新型の気象観測装置も、君の理論に合わせて特注で用意してあります」
「ありがとうございます、総裁。行きましょう」
私は一度だけ、黒煙を上げる崩壊した特級ラボを振り返った。
「では、新しい調合室に向かいますので。さようなら、効率的な研究員の皆さん」
私は踵を返し、一歩を踏み出した。
背後で巻き起こる学園長の怒号と、連行されていくミロたちの叫びは、吹き抜ける秋風に乗って、すぐに遠くへ消えていった。
数ヶ月後。
帝都の一角にそびえるサンジェルマン薬工の中央研究所。
ガラス張りの陽光が差し込む調合室で、私は一人、特注の魔導ペンを走らせていた。
規則正しい音を立てて動く精密な気象測定器。
「室温21.5度。湿度52%。本日の大気魔力密度、標準値よりプラス0.03……」
つぶやきながら、羊皮紙の余白に補正計算を書き加えていく。
あの日以来、私の生活は一変した。
私が発表した『動的環境補正理論』は錬金術界で話題となり、かつて私を雑用係と見下していた人々は今や「才能ある技師」と評価している。だが、私のやるべきことは何も変わらない。
毎朝誰よりも早く起きて、空を見上げ、空気を肌で感じ、数字を刻む。それだけだ。
「ふふ、相変わらず余白が数字でいっぱいですね、レオン筆頭技師」
軽やかな声がして、振り返ると、総裁の娘であり私の新たな助手となった女性・エレナが、温かいハーブティーのカップを乗せたトレイを持って歩いてきていた。
「やあ、エレナ。また『変人の暗号』に見えますか?」
「まさか」
エレナは楽しそうに笑い、私の隣に並んでノートを覗き込んだ。
「これは変人の暗号なんかじゃありません。薬品と、それを使う人々の安全を守るための計算式です」
「優しい、ですか。ただの神経質な計算ですよ」
「いいえ。この数字の一つひとつに、あなたがどれだけ真摯に錬金術と向き合っているかが詰まっています。私、レオンさんのこのノートを見るのが毎朝の楽しみなんです」
エレナの言葉に、胸の奥が少しだけ温かくなるのを感じた。
以前のラボでは「気味が悪い」「無駄だ」と破り捨てられた私の記録。それを今、価値を理解し、隣で見つめてくれる人がいる。
「ありがとうございます、エレナ。さて、今日の補正値が出ました。最高の『天照の極薬・改』を精製しましょう」
「はい、準備はできています」
窓を開けると、澄み渡る青空から太陽の光が部屋いっぱいに降り注いだ。
追放された過去も、灰となった愚者たちの叫びも、もう遠い昔のことだ。
私は新しく手に入れた場所で、仲間とともに、今日も羽ペンを走らせ続ける。
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