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婚約破棄されたので、一年間の白い結婚を選びました――私を切り捨てた元婚約者が、今度はすべてに見限られるまで

作者: 中身無男
掲載日:2026/08/11

「君との婚約は解消する」


「レグルスは」


「明朝、処分する」


ゲオルク・ヴァルナーは厩舎の入口に立っていた。


私は飼い葉桶から手を離した。


「レグルスは走ります」


「そればかりだな」


厩舎の奥で、レグルスがこちらへ耳を向けた。


黒鹿毛の牝馬。


私の実家、ローデン牧場で生まれた馬だ。


ヴァルナー家へ渡ったのは、まだうちが馬を売れていた頃だった。


通路の反対側には、アルタイルがいる。


胸が深く、脚はまっすぐで、立っているだけで強い馬だと分かる。


御前競馬を二度勝った鹿毛だ。


「同じ調教をして、アルタイルは勝った。レグルスは勝てなかった」


「同じ調教をしたからです」


「分かっている」


彼は初めてこちらを見た。


「馬群に入ると力む。鞭を嫌う。前へ出そうとすれば崩れる。君が言ってきたことは覚えている」


「なら、一度だけでも走らせ方を変えてください」


「しない」


「なぜですか」


ゲオルクはアルタイルを見た。


「私は、一頭のために勝ち方を変えるつもりはない」


「出足がよく、前を取れて、そのまま押し切れる馬を選ぶ。それで二度勝った」


「レグルスはアルタイルではありません」


「分かっている」


ゲオルクは言った。


「だから切る」


私はレグルスの首に手を置いた。


「では、私との婚約も同じですか」


「同じだ」


返事は早かった。


「ローデンはもう、勝てる馬を出せない。ヴァルナー家がこれから縁を結ぶなら、勝てる馬を出す牧場がいい」


ゲオルクが中庭へ目をやった。


馬車の脇には、アデーレがいた。


アルタイルを生んだ牧場の娘で、次にゲオルクが選んだ相手だ。


アルタイルも、彼女の実家からヴァルナー家へ預けられている。


「レグルスを、私に売ってください」


ゲオルクがこちらを見る。


「払えるのか」


告げられた額に、指先が冷えた。


手持ちでは届かない。


父にも頼れない。


去年、うちの牧場は種牡馬まで手放した。


それでも、レグルスをここに残すことだけはできなかった。


「明朝まで待ってください」


「一晩で用意できるのか」


何のあてもなかった。


「用意します」


ゲオルクは鼻で息を吐いた。


「好きにしろ」


「来年の御前競馬に、レグルスを出します」


彼は歩き出した。


「その台詞は、馬主になってから言え」



馬車へ乗り込んだところで、父が先月こぼしていた話を思い出した。


ハロウ公爵は、年内に妻を迎えなければ、家督を従弟へ渡すことになる。


ローデンがまだ馬を売れていた頃、ハロウ家も客の一つだった。


馬一頭分の金と、一年の婚姻。


釣り合うかどうかは、向こうに決めてもらうしかない。


「ハロウ公爵家へ」



「ローデンの娘が、夜中に何の用だ」


マティアス・ハロウは、先触れもなく訪ねてきた私を追い返さなかった。


「取引をお願いに来ました」


「金か」


「いいえ」


「では」


私は彼の正面に座った。


「私と結婚してください」


マティアスの手が止まった。


「理由を聞こう」


「年内に婚姻しなければ、家督が従弟へ移るとうかがっています」


彼は否定しなかった。


「一年だけ、妻になります。公爵夫人として必要な場には出ます。寝室は別。一年後に婚姻を解消します」


「君の条件は」


「レグルスを買ってください」


「馬か」


「明朝、ヴァルナー家が処分します」


私は額を告げた。


「その額なら用意できる」


「買ったあとは、完全に私の馬にしてください。婚姻が終わっても」


「ほかには」


「空いている馬房を一つと、牧草地を一年」


「飼い葉や蹄鉄は」


「自分で払います」


「どうやって」


「馬医として働きます。ローデンでは、傷や脚を診るのも私の仕事でした」


マティアスはしばらく私を見ていた。


「馬一頭のために、一年の婚姻を差し出すのか」


「はい」


「そこまでして取り戻したい馬か」


「生まれた日から見ています」


沈黙のあと、彼は紙を引き寄せた。


「一年。レグルスは君の所有。馬房と牧草地も一年。維持費は君が持つ」


「はい」


「条件は分かった」


彼は筆を取った。


「取引成立だ」



夜明け前。


ヴァルナー家の厩舎は静まり返っていた。


話はもうついている。


扉は開いていた。


奥の馬房に、レグルスがいた。


私が近づくと、耳がこちらへ向いた。


「迎えに来ました」


レグルスが鼻を鳴らした。


馬房の戸を開けると、自分から一歩こちらへ寄ってくる。


首を撫でて、手綱を取った。


「帰ろう」


レグルスは自分から歩き出した。


厩舎を出て、門を越える。


一度も、後ろを振り返らなかった。



ハロウ家へレグルスを連れ帰った、その日の午後だった。


「兄上がどんな女を迎えたのかと思えば、ローデンの娘でしたか」


馬房の前に、見たことのない男が立っていた。


「ユリウス・ハロウです。兄上が年内に婚姻しなければ、この家を継ぐはずだった男ですよ」


彼の視線が、私からレグルスへ移った。


「そのうえ、ヴァルナーが処分する馬まで、金を出して引き取った」


「御前競馬に出します」


「出足が遅い。寄られると力む。鞭を怖がる」


ユリウスは淡々と並べた。


「競走馬として、どれも立派な欠点でしょう」


「分かっています」


「それでも走れると」


「走れます」


「条件が合えば、でしょう」


返事が止まった。


「来年は、私の馬も御前競馬に出ます」


ユリウスは馬房の戸へ手を置いた。


「なら、今のうちに確かめておきたい。御前競馬で勝負になる馬なのか、兄上の馬房を一年塞ぐだけの馬なのか」


「どうやって」


「騎手を貸します。癖のある馬には乗り慣れている。あなたの指示どおりに乗らせます」


そこで初めて、彼が笑った。


「それで走らなければ、ゲオルクの乗せ方だけが悪かったとは言えませんよね」


それは、私も知りたかった。


「お願いします」



ユリウスの騎手は、鞍へ手をかける前に訊いた。


「何を嫌がります」


「出遅れたときに急かされること。ほかの馬に寄られること。鞭です」


「では、遅れても追わない。鞭も使わない」


二頭で外周へ出た。


最初の直線は、うまくいった。


ユリウスの馬が半馬身前にいる。


レグルスは追わない。


首も上がらない。


大丈夫。


そう思った。


角を回ったところで、相手の馬が少し外へ膨らんだ。


距離が縮まる。


レグルスの耳が伏せた。


騎手はすぐに気づいた。


接触を避けようと、外へ出す。


正しい判断だった。


それでも遅かった。


レグルスの背が固まった。


首が上がる。


脚が縮む。


その場で、ほとんど止まった。


私は柵の外にいた。


名前を呼んだ。


レグルスは動かなかった。



騎手は戻ると、すぐに降りた。


「寄られた瞬間、身体がこわばりました」


「はい」


「外へ出しましたが、戻りませんでした」


手綱を私へ渡して、離れる。


ユリウスが来た。


「今のでまだ、御前競馬を走れる馬だと思っているんですか」


答えられなかった。


彼はマティアスへ向き直った。


「兄上。それでも厩舎と牧草地を一年使わせるんですか」


「使わせる」


「今日のを見ても」


「一年使わせると約束した」


「兄上は甘い」


「約束を変えないだけだ」


ユリウスは鼻で笑った。


帰り際、私にだけ言った。


「二頭でこれです。本番で十頭に囲まれたら、走る以前の話でしょう」


言い返せなかった。



その晩、レグルスは飼い葉を残した。


私は馬房の前に座っていた。


マティアスが来た。


「昔は、あんなふうに怖がらなかったんです」


「そうか」


「戻せると思っていました」


「戻す必要があるのか」


顔を上げた。


「明日の朝、外周路を貸し切れるようにしてある」


「え」


「試したいことがあるんだろう」



翌朝、外周路には二頭だけがいた。


レグルスと、マティアスが跨ったハロウ家の一頭。


「昨日と同じように走ればいいのか」


「はい。途中で少しだけ、こちらへ寄せてください」


今度は私がレグルスに跨った。


合図が出た。


前の馬が先へ行く。


レグルスは遅れた。


私は追わなかった。


そのまま差が開いていく。


角へ入る。


マティアスの馬が、少し外へ膨らんだ。


距離が縮まる。


昨日は、ここからもう一歩近づいたところで、レグルスが止まった。


私はそれ以上近づかなかった。


大きく外へ持ち出す。


馬体が離れた。


レグルスの背中から力が抜ける。


前に、何もいなくなった。


「行こう、レグルス」


脚が伸びた。


前の馬を追う。


真後ろには入らない。


離れた外側を走ったまま、少しずつ差を詰めていく。


遠回りでも、止まるよりいい。


直線の半ばで、私は手綱を引いた。


レグルスは、まだ前へ行こうとした。


昨日は、馬が止まった。


今日は、私が止めた。


少し先で、マティアスが馬を止めて、こちらを見ていた。


笑っていた。



御前競馬に出すには、まだ金が要った。


登録料。


レグルスの飼い葉。


蹄鉄。


私はハロウ領で馬医として仕事を始めた。


農家や商人の馬を診て、働かせていい状態か、休ませるべきかを判断する。


最初にまとまった仕事を持ち込んだのは、街道で荷運びをしている商人だった。


「半年前に買った馬なんですが、最近、走らせると右の後ろをかばうんです」


連れてこられたのは、栗毛の牡馬だった。


「歩かせてください」


ゆっくりなら、目立たない。


少し速くさせる。


右後ろだけ、踏み込みが浅い。


止めて脚へ触れた。


熱がある。


腱も、反対側より硬かった。


「前はどこにいた馬ですか」


商人が売買証を出した。


ヴァルナー家。


「元は競走馬だったそうです。勝てなくなって、売りに出されたとか」


「この馬は、しばらく仕事を休ませてください」


商人の顔が曇った。


「そんなに悪いんですか」


「この熱と腱の硬さは、最近できたものではありません」


商人は困ったように栗毛を見た。


「それと、もう一つ妙なところがあって」


荷台から短い鞭を取った。


柄に、小さな真鍮の輪が二つ付いている。


持ち上げた拍子に、輪が触れた。


ちり、と鳴った。


栗毛が大きく後ろへ下がった。


商人が慌てて鞭を下ろす。


「これを妙に怖がるんです」


私は鞭を見た。


見覚えがあった。


ヴァルナー家の厩舎で使われていたものと、同じ形だった。


「それも、馬と一緒に」


「ええ。前の厩舎で使っていたものだから、そのまま使えばいいと言われまして」


「使わないでください」


栗毛はまだ、商人の手元から顔を背けていた。


商人は診療代を置いた。


数える。


登録料には、まだ足りない。


「診断書もお願いできますか」


「診断書」


「働かせるのに問題はないと言われて買ったんです。買う前からの異常なら、売った相手と話せます」


私は、さっき診たことだけを書いた。


いつ、誰がこの脚を悪くしたのかは書かなかった。


それは、私には分からない。


商人がもう一枚、銀貨を置いた。


今度は、届いた。


残りでレグルスの飼い葉と蹄鉄を買うと、手元にはほとんど残らなかった。


栗毛のあとも、村からの呼び出しは続いた。


そうして、三か月が過ぎた。



雨の日、仕事から戻ると、レグルスの馬房の前にマティアスがいた。


連れてきた頃は、まだ寒かった。


牧草地の草は、もう膝の高さまで伸びている。


レグルスは飼い葉を食べていた。


通路を人が通れば口を止める馬だ。


慣れない人間が馬房へ近づけば、耳を伏せる。


それが、マティアスが隣にいても食べ続けている。


「いつから触れるようになったんですか」


「触ってはいない」


マティアスは一歩、馬房から離れた。


「最初は、近づくと耳を伏せられた」


「それで」


「近づくのをやめた」


「それだけですか」


「向こうから来るまで待った」


「先週、鼻を寄せてきた」


レグルスは、私たちの話など気にせずに飼い葉を食べていた。



御前競馬まで、あとひと月になっていた。


受付で、私は騎手欄に自分の名を書いた。


係員が紙を返した。


「騎手欄が、奥様ご本人になっています」


「間違いありません」


「女性が騎乗した前例はありません。別の騎手を立ててください」


「女性を禁じる条文を見せてください」


係員が綴りを開いた。


探しても、どこにもない。


「しかし、前例が」


「前例ではなく、規則で判断してくれ」


後ろから、マティアスが言った。


上役が呼ばれた。


綴りを確かめ、出走届に印を押す。


「馬名は」


「レグルスで。冠名は、ローデンに戻してください」


係員の筆が動いた。


〈ローデン・レグルス〉。


久しぶりに見た、牧場の名前だった。


御前競馬の勝ち馬には、賞金のほかに王家の種牡馬との配合権が下りる。


牝馬なら、生まれた仔を王家が優先して買い上げる。


ローデンが、もう一度馬を出せるということだった。



そこへゲオルクが来た。


アルタイルを連れている。


私の騎手欄を見て、鼻で笑った。


「君が乗るのか」


「はい」


「そこまでして、一頭の馬に合わせるのか」


「はい」


ゲオルクは笑った。


「だから君は勝てない」


アルタイルの手綱を引く。


「私は、勝ち方に合う馬を選ぶ」


「では、見ていてください」


「何を」


「レグルスは前には出しません」


ゲオルクが眉を寄せた。


「出遅れても追いません。馬群を先に行かせます」


「最後方まで下げる気か」


「はい」


「そこからどうする」


「ほかの馬から離して、大外へ出します」


ようやく、ゲオルクが笑った。


「最後方、大外。ずいぶん勝ちから遠い場所を選ぶんだな」


「そこから、アルタイルを抜きます」


笑みが消えた。


「なら、御前で証明しろ」


「そのつもりです」



御前競馬当日。


「騎手、エレナ・ハロウ」


名が読み上げられた途端、観覧席がざわめいた。


「女が乗るのか」


「あれ、ヴァルナーに婚約を切られた娘だろう」


「馬まで、ヴァルナーが捨てた馬じゃないか」


レグルスの耳が動いた。


柵の向こうから、ゲオルクが言った。


「今から棄権しても構わないぞ。恥をかくのは、もう君一人ではない」


私は答えなかった。


「エレナ」


反対側から、マティアスの声がした。


「それなら、私も一緒に恥をかこう」


彼はレグルスを見た。


「君はその馬だけ見ていろ」


輪乗りの外で、アデーレがアルタイルの右の後ろ脚を見ていた。


「大丈夫なの」


「問題ない」


ゲオルクは、それだけ答えた。



号砲が鳴った。


九頭が前へ出た。


私は追わなかった。


馬群との距離が開いていく。


最後方。


観覧席から、笑い声が聞こえた。


第一の角を回る。


それでも追わない。


馬群から離れたまま、レグルスだけを走らせた。


坂を越える。


柔らかい土に入って、前が縦に伸びた。


それでも、私は動かなかった。


最後の角へ入る。


まだ九頭すべてが、前にいた。


「行こう、レグルス」


大外へ出した。


前が開く。


黒鹿毛が伸びた。


後方の集団を、まとめて抜いた。


中団の馬も、大外からかわしていく。


観覧席の声が変わっていく。


前が、二頭になった。


先頭はアルタイル。


その後ろに、ユリウスの馬がいる。


ユリウスの馬が、大外へ出てきた。


背には、あの日レグルスに乗った騎手がいる。


進路が重なる。


レグルスの耳が伏せた。


私は内へ押し込まなかった。


さらに外へ出す。


観覧席がどっと沸いた。


大きく遠回りになる。


そのぶん、ユリウスの馬から離れた。


レグルスの首が下がる。


「今度は、私たちの走り方で」


外を回ったまま、抜いた。


騎手が一度だけ、こちらを見た。


前には、アルタイルだけが残った。


鹿毛はまだ強い。


けれど、私が何度も見てきた最後のひと伸びが、今日はなかった。


それでも、落ちてはこない。


レグルスの息も苦しくなっている。


「勝とう、レグルス」


黒鹿毛が、もう一度伸びた。


アルタイルの横へ並ぶ。


鹿毛も譲らない。


それでも、レグルスが半歩ずつ前へ出た。


決勝線を越えたとき、レグルスの鼻が前にあった。



「勝った」


レグルスから降りて、脚元を確かめた。


ようやく笑えた。


「勝ったよ、レグルス」


掲示が上がる。


一着、ローデン・レグルス。


二着、ヴァルナー・アルタイル。


三着に、ユリウスの馬の名があった。



「なぜ、あの馬に負けた」


ユリウスの声だった。


騎手は手綱を持ったまま、下馬したところだった。


「お前がレグルスに乗ったときは、まともに走れなかっただろう」


「はい」


「なら、なぜ今日は走った」


「私が乗ったときは、あの馬の力を出し切れませんでした」


騎手はレグルスを見た。


「あちらは大外を回った。距離ではこちらが有利でした。それでも、うちの馬は力を出し切って負けた。エレナ様とレグルスの方が強かった。それだけです」


ユリウスは何も返さなかった。


そこへマティアスが来た。


「ユリウス」


「何です」


「レグルスの餌代を心配していたな」


ユリウスの肩が止まった。


「もう心配はいらない。今日の賞金だけで、一年分は賄える」



「アルタイル、待って」


アデーレが駆け寄った。


戻ってきた鹿毛は、右の後ろ脚をかばっていた。


騎手が降りて、脚へ触れる。


「先月から、この脚に熱が出ています」


「先月から」


「はい。休ませるよう、何度もヴァルナー卿には申し上げました」


アデーレがゲオルクを見た。


「聞いていたの」


「軽いものだ」


「脚を悪くしていると知っていて、今日も出したの」


「走れる状態だった。実際、二着に入っている」


「だから問題ないと」


「御前競馬だ。勝てる馬を休ませてどうする」


アデーレの顔から、表情が消えた。


「二年も御前競馬を勝った馬でしょう」


「だから今年も勝たせるつもりだった」


彼女は首を振った。


「二年も結果を出した馬を、三度目の勝利のために壊しかけた人へ、次の馬は預けられません」


初めて、ゲオルクの顔が変わった。


「アデーレ」


「婚約は白紙にします」


「待て」


「父にも、私から話します」


彼女はアルタイルの手綱を騎手から取った。


「アルタイルも今日で引き上げます。今後、当家の馬をヴァルナー家へ預けることもありません」


そのまま、ゲオルクの横を通っていった。



王家の御厩長が、ゲオルクを呼び止めた。


「来年度から、王家の馬をヴァルナー厩舎へ預ける話は、いったん止めます」


「ヴァルナー家は、二年続けて勝ち馬を出しています」


「承知しています」


御厩長は、脚をかばって歩くアルタイルを見た。


「だから問題なのです。これほど結果を出した馬ですら、故障を承知で走らせる厩舎に、王家の馬は任せられません」


引き揚げていくゲオルクと、通路ですれ違った。


「あれが、レグルスの勝ち方か」


「はい」


「私は、あの馬のために勝ち方を変える気はなかった」


「レグルスには、あれが合っていました」



その日の夕方、書類が届いた。


御前競馬の勝ち馬に与えられる、王家の種牡馬との配合権と、生まれた仔の優先買い上げ。


契約者の欄に、私の名がある。


生産牧場の欄には、〈ローデン〉と書いた。


指で、その文字をなぞった。


終わったと思っていた家の名前だった。



「これで、レグルスは君自身の力で養っていけるな」


隣で、マティアスが言った。


「はい」


「ローデン牧場は、どうする」


私は書類の〈ローデン〉を見た。


「まだです。でも、もう一度始められます」


マティアスが少し黙った。


「契約は、予定どおり一年で終わらせよう」


私は彼を見た。


「君はもう、この婚姻に縛られる必要がない」


「はい」


「だから、そのあとで、今度は私から求婚したい」


「どうしてですか」


彼はもう一度、黙った。


「一年で君がいなくなるのが、嫌になった」


返事ができなかった。


「今度は、家督も馬も条件にしない」


マティアスが笑った。


「君に、私を選んでほしい」


「八か月後にも、そう思っていたら」


「思っている」


「まだ八か月あります」


「長いな」


白い結婚は、あと八か月残っていた。


初めて、その八か月を長いと思った。

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