婚約破棄されたので、一年間の白い結婚を選びました――私を切り捨てた元婚約者が、今度はすべてに見限られるまで
「君との婚約は解消する」
「レグルスは」
「明朝、処分する」
ゲオルク・ヴァルナーは厩舎の入口に立っていた。
私は飼い葉桶から手を離した。
「レグルスは走ります」
「そればかりだな」
厩舎の奥で、レグルスがこちらへ耳を向けた。
黒鹿毛の牝馬。
私の実家、ローデン牧場で生まれた馬だ。
ヴァルナー家へ渡ったのは、まだうちが馬を売れていた頃だった。
通路の反対側には、アルタイルがいる。
胸が深く、脚はまっすぐで、立っているだけで強い馬だと分かる。
御前競馬を二度勝った鹿毛だ。
「同じ調教をして、アルタイルは勝った。レグルスは勝てなかった」
「同じ調教をしたからです」
「分かっている」
彼は初めてこちらを見た。
「馬群に入ると力む。鞭を嫌う。前へ出そうとすれば崩れる。君が言ってきたことは覚えている」
「なら、一度だけでも走らせ方を変えてください」
「しない」
「なぜですか」
ゲオルクはアルタイルを見た。
「私は、一頭のために勝ち方を変えるつもりはない」
「出足がよく、前を取れて、そのまま押し切れる馬を選ぶ。それで二度勝った」
「レグルスはアルタイルではありません」
「分かっている」
ゲオルクは言った。
「だから切る」
私はレグルスの首に手を置いた。
「では、私との婚約も同じですか」
「同じだ」
返事は早かった。
「ローデンはもう、勝てる馬を出せない。ヴァルナー家がこれから縁を結ぶなら、勝てる馬を出す牧場がいい」
ゲオルクが中庭へ目をやった。
馬車の脇には、アデーレがいた。
アルタイルを生んだ牧場の娘で、次にゲオルクが選んだ相手だ。
アルタイルも、彼女の実家からヴァルナー家へ預けられている。
「レグルスを、私に売ってください」
ゲオルクがこちらを見る。
「払えるのか」
告げられた額に、指先が冷えた。
手持ちでは届かない。
父にも頼れない。
去年、うちの牧場は種牡馬まで手放した。
それでも、レグルスをここに残すことだけはできなかった。
「明朝まで待ってください」
「一晩で用意できるのか」
何のあてもなかった。
「用意します」
ゲオルクは鼻で息を吐いた。
「好きにしろ」
「来年の御前競馬に、レグルスを出します」
彼は歩き出した。
「その台詞は、馬主になってから言え」
*
馬車へ乗り込んだところで、父が先月こぼしていた話を思い出した。
ハロウ公爵は、年内に妻を迎えなければ、家督を従弟へ渡すことになる。
ローデンがまだ馬を売れていた頃、ハロウ家も客の一つだった。
馬一頭分の金と、一年の婚姻。
釣り合うかどうかは、向こうに決めてもらうしかない。
「ハロウ公爵家へ」
*
「ローデンの娘が、夜中に何の用だ」
マティアス・ハロウは、先触れもなく訪ねてきた私を追い返さなかった。
「取引をお願いに来ました」
「金か」
「いいえ」
「では」
私は彼の正面に座った。
「私と結婚してください」
マティアスの手が止まった。
「理由を聞こう」
「年内に婚姻しなければ、家督が従弟へ移るとうかがっています」
彼は否定しなかった。
「一年だけ、妻になります。公爵夫人として必要な場には出ます。寝室は別。一年後に婚姻を解消します」
「君の条件は」
「レグルスを買ってください」
「馬か」
「明朝、ヴァルナー家が処分します」
私は額を告げた。
「その額なら用意できる」
「買ったあとは、完全に私の馬にしてください。婚姻が終わっても」
「ほかには」
「空いている馬房を一つと、牧草地を一年」
「飼い葉や蹄鉄は」
「自分で払います」
「どうやって」
「馬医として働きます。ローデンでは、傷や脚を診るのも私の仕事でした」
マティアスはしばらく私を見ていた。
「馬一頭のために、一年の婚姻を差し出すのか」
「はい」
「そこまでして取り戻したい馬か」
「生まれた日から見ています」
沈黙のあと、彼は紙を引き寄せた。
「一年。レグルスは君の所有。馬房と牧草地も一年。維持費は君が持つ」
「はい」
「条件は分かった」
彼は筆を取った。
「取引成立だ」
*
夜明け前。
ヴァルナー家の厩舎は静まり返っていた。
話はもうついている。
扉は開いていた。
奥の馬房に、レグルスがいた。
私が近づくと、耳がこちらへ向いた。
「迎えに来ました」
レグルスが鼻を鳴らした。
馬房の戸を開けると、自分から一歩こちらへ寄ってくる。
首を撫でて、手綱を取った。
「帰ろう」
レグルスは自分から歩き出した。
厩舎を出て、門を越える。
一度も、後ろを振り返らなかった。
*
ハロウ家へレグルスを連れ帰った、その日の午後だった。
「兄上がどんな女を迎えたのかと思えば、ローデンの娘でしたか」
馬房の前に、見たことのない男が立っていた。
「ユリウス・ハロウです。兄上が年内に婚姻しなければ、この家を継ぐはずだった男ですよ」
彼の視線が、私からレグルスへ移った。
「そのうえ、ヴァルナーが処分する馬まで、金を出して引き取った」
「御前競馬に出します」
「出足が遅い。寄られると力む。鞭を怖がる」
ユリウスは淡々と並べた。
「競走馬として、どれも立派な欠点でしょう」
「分かっています」
「それでも走れると」
「走れます」
「条件が合えば、でしょう」
返事が止まった。
「来年は、私の馬も御前競馬に出ます」
ユリウスは馬房の戸へ手を置いた。
「なら、今のうちに確かめておきたい。御前競馬で勝負になる馬なのか、兄上の馬房を一年塞ぐだけの馬なのか」
「どうやって」
「騎手を貸します。癖のある馬には乗り慣れている。あなたの指示どおりに乗らせます」
そこで初めて、彼が笑った。
「それで走らなければ、ゲオルクの乗せ方だけが悪かったとは言えませんよね」
それは、私も知りたかった。
「お願いします」
*
ユリウスの騎手は、鞍へ手をかける前に訊いた。
「何を嫌がります」
「出遅れたときに急かされること。ほかの馬に寄られること。鞭です」
「では、遅れても追わない。鞭も使わない」
二頭で外周へ出た。
最初の直線は、うまくいった。
ユリウスの馬が半馬身前にいる。
レグルスは追わない。
首も上がらない。
大丈夫。
そう思った。
角を回ったところで、相手の馬が少し外へ膨らんだ。
距離が縮まる。
レグルスの耳が伏せた。
騎手はすぐに気づいた。
接触を避けようと、外へ出す。
正しい判断だった。
それでも遅かった。
レグルスの背が固まった。
首が上がる。
脚が縮む。
その場で、ほとんど止まった。
私は柵の外にいた。
名前を呼んだ。
レグルスは動かなかった。
*
騎手は戻ると、すぐに降りた。
「寄られた瞬間、身体がこわばりました」
「はい」
「外へ出しましたが、戻りませんでした」
手綱を私へ渡して、離れる。
ユリウスが来た。
「今のでまだ、御前競馬を走れる馬だと思っているんですか」
答えられなかった。
彼はマティアスへ向き直った。
「兄上。それでも厩舎と牧草地を一年使わせるんですか」
「使わせる」
「今日のを見ても」
「一年使わせると約束した」
「兄上は甘い」
「約束を変えないだけだ」
ユリウスは鼻で笑った。
帰り際、私にだけ言った。
「二頭でこれです。本番で十頭に囲まれたら、走る以前の話でしょう」
言い返せなかった。
*
その晩、レグルスは飼い葉を残した。
私は馬房の前に座っていた。
マティアスが来た。
「昔は、あんなふうに怖がらなかったんです」
「そうか」
「戻せると思っていました」
「戻す必要があるのか」
顔を上げた。
「明日の朝、外周路を貸し切れるようにしてある」
「え」
「試したいことがあるんだろう」
*
翌朝、外周路には二頭だけがいた。
レグルスと、マティアスが跨ったハロウ家の一頭。
「昨日と同じように走ればいいのか」
「はい。途中で少しだけ、こちらへ寄せてください」
今度は私がレグルスに跨った。
合図が出た。
前の馬が先へ行く。
レグルスは遅れた。
私は追わなかった。
そのまま差が開いていく。
角へ入る。
マティアスの馬が、少し外へ膨らんだ。
距離が縮まる。
昨日は、ここからもう一歩近づいたところで、レグルスが止まった。
私はそれ以上近づかなかった。
大きく外へ持ち出す。
馬体が離れた。
レグルスの背中から力が抜ける。
前に、何もいなくなった。
「行こう、レグルス」
脚が伸びた。
前の馬を追う。
真後ろには入らない。
離れた外側を走ったまま、少しずつ差を詰めていく。
遠回りでも、止まるよりいい。
直線の半ばで、私は手綱を引いた。
レグルスは、まだ前へ行こうとした。
昨日は、馬が止まった。
今日は、私が止めた。
少し先で、マティアスが馬を止めて、こちらを見ていた。
笑っていた。
*
御前競馬に出すには、まだ金が要った。
登録料。
レグルスの飼い葉。
蹄鉄。
私はハロウ領で馬医として仕事を始めた。
農家や商人の馬を診て、働かせていい状態か、休ませるべきかを判断する。
最初にまとまった仕事を持ち込んだのは、街道で荷運びをしている商人だった。
「半年前に買った馬なんですが、最近、走らせると右の後ろをかばうんです」
連れてこられたのは、栗毛の牡馬だった。
「歩かせてください」
ゆっくりなら、目立たない。
少し速くさせる。
右後ろだけ、踏み込みが浅い。
止めて脚へ触れた。
熱がある。
腱も、反対側より硬かった。
「前はどこにいた馬ですか」
商人が売買証を出した。
ヴァルナー家。
「元は競走馬だったそうです。勝てなくなって、売りに出されたとか」
「この馬は、しばらく仕事を休ませてください」
商人の顔が曇った。
「そんなに悪いんですか」
「この熱と腱の硬さは、最近できたものではありません」
商人は困ったように栗毛を見た。
「それと、もう一つ妙なところがあって」
荷台から短い鞭を取った。
柄に、小さな真鍮の輪が二つ付いている。
持ち上げた拍子に、輪が触れた。
ちり、と鳴った。
栗毛が大きく後ろへ下がった。
商人が慌てて鞭を下ろす。
「これを妙に怖がるんです」
私は鞭を見た。
見覚えがあった。
ヴァルナー家の厩舎で使われていたものと、同じ形だった。
「それも、馬と一緒に」
「ええ。前の厩舎で使っていたものだから、そのまま使えばいいと言われまして」
「使わないでください」
栗毛はまだ、商人の手元から顔を背けていた。
商人は診療代を置いた。
数える。
登録料には、まだ足りない。
「診断書もお願いできますか」
「診断書」
「働かせるのに問題はないと言われて買ったんです。買う前からの異常なら、売った相手と話せます」
私は、さっき診たことだけを書いた。
いつ、誰がこの脚を悪くしたのかは書かなかった。
それは、私には分からない。
商人がもう一枚、銀貨を置いた。
今度は、届いた。
残りでレグルスの飼い葉と蹄鉄を買うと、手元にはほとんど残らなかった。
栗毛のあとも、村からの呼び出しは続いた。
そうして、三か月が過ぎた。
*
雨の日、仕事から戻ると、レグルスの馬房の前にマティアスがいた。
連れてきた頃は、まだ寒かった。
牧草地の草は、もう膝の高さまで伸びている。
レグルスは飼い葉を食べていた。
通路を人が通れば口を止める馬だ。
慣れない人間が馬房へ近づけば、耳を伏せる。
それが、マティアスが隣にいても食べ続けている。
「いつから触れるようになったんですか」
「触ってはいない」
マティアスは一歩、馬房から離れた。
「最初は、近づくと耳を伏せられた」
「それで」
「近づくのをやめた」
「それだけですか」
「向こうから来るまで待った」
「先週、鼻を寄せてきた」
レグルスは、私たちの話など気にせずに飼い葉を食べていた。
*
御前競馬まで、あとひと月になっていた。
受付で、私は騎手欄に自分の名を書いた。
係員が紙を返した。
「騎手欄が、奥様ご本人になっています」
「間違いありません」
「女性が騎乗した前例はありません。別の騎手を立ててください」
「女性を禁じる条文を見せてください」
係員が綴りを開いた。
探しても、どこにもない。
「しかし、前例が」
「前例ではなく、規則で判断してくれ」
後ろから、マティアスが言った。
上役が呼ばれた。
綴りを確かめ、出走届に印を押す。
「馬名は」
「レグルスで。冠名は、ローデンに戻してください」
係員の筆が動いた。
〈ローデン・レグルス〉。
久しぶりに見た、牧場の名前だった。
御前競馬の勝ち馬には、賞金のほかに王家の種牡馬との配合権が下りる。
牝馬なら、生まれた仔を王家が優先して買い上げる。
ローデンが、もう一度馬を出せるということだった。
*
そこへゲオルクが来た。
アルタイルを連れている。
私の騎手欄を見て、鼻で笑った。
「君が乗るのか」
「はい」
「そこまでして、一頭の馬に合わせるのか」
「はい」
ゲオルクは笑った。
「だから君は勝てない」
アルタイルの手綱を引く。
「私は、勝ち方に合う馬を選ぶ」
「では、見ていてください」
「何を」
「レグルスは前には出しません」
ゲオルクが眉を寄せた。
「出遅れても追いません。馬群を先に行かせます」
「最後方まで下げる気か」
「はい」
「そこからどうする」
「ほかの馬から離して、大外へ出します」
ようやく、ゲオルクが笑った。
「最後方、大外。ずいぶん勝ちから遠い場所を選ぶんだな」
「そこから、アルタイルを抜きます」
笑みが消えた。
「なら、御前で証明しろ」
「そのつもりです」
*
御前競馬当日。
「騎手、エレナ・ハロウ」
名が読み上げられた途端、観覧席がざわめいた。
「女が乗るのか」
「あれ、ヴァルナーに婚約を切られた娘だろう」
「馬まで、ヴァルナーが捨てた馬じゃないか」
レグルスの耳が動いた。
柵の向こうから、ゲオルクが言った。
「今から棄権しても構わないぞ。恥をかくのは、もう君一人ではない」
私は答えなかった。
「エレナ」
反対側から、マティアスの声がした。
「それなら、私も一緒に恥をかこう」
彼はレグルスを見た。
「君はその馬だけ見ていろ」
輪乗りの外で、アデーレがアルタイルの右の後ろ脚を見ていた。
「大丈夫なの」
「問題ない」
ゲオルクは、それだけ答えた。
*
号砲が鳴った。
九頭が前へ出た。
私は追わなかった。
馬群との距離が開いていく。
最後方。
観覧席から、笑い声が聞こえた。
第一の角を回る。
それでも追わない。
馬群から離れたまま、レグルスだけを走らせた。
坂を越える。
柔らかい土に入って、前が縦に伸びた。
それでも、私は動かなかった。
最後の角へ入る。
まだ九頭すべてが、前にいた。
「行こう、レグルス」
大外へ出した。
前が開く。
黒鹿毛が伸びた。
後方の集団を、まとめて抜いた。
中団の馬も、大外からかわしていく。
観覧席の声が変わっていく。
前が、二頭になった。
先頭はアルタイル。
その後ろに、ユリウスの馬がいる。
ユリウスの馬が、大外へ出てきた。
背には、あの日レグルスに乗った騎手がいる。
進路が重なる。
レグルスの耳が伏せた。
私は内へ押し込まなかった。
さらに外へ出す。
観覧席がどっと沸いた。
大きく遠回りになる。
そのぶん、ユリウスの馬から離れた。
レグルスの首が下がる。
「今度は、私たちの走り方で」
外を回ったまま、抜いた。
騎手が一度だけ、こちらを見た。
前には、アルタイルだけが残った。
鹿毛はまだ強い。
けれど、私が何度も見てきた最後のひと伸びが、今日はなかった。
それでも、落ちてはこない。
レグルスの息も苦しくなっている。
「勝とう、レグルス」
黒鹿毛が、もう一度伸びた。
アルタイルの横へ並ぶ。
鹿毛も譲らない。
それでも、レグルスが半歩ずつ前へ出た。
決勝線を越えたとき、レグルスの鼻が前にあった。
*
「勝った」
レグルスから降りて、脚元を確かめた。
ようやく笑えた。
「勝ったよ、レグルス」
掲示が上がる。
一着、ローデン・レグルス。
二着、ヴァルナー・アルタイル。
三着に、ユリウスの馬の名があった。
*
「なぜ、あの馬に負けた」
ユリウスの声だった。
騎手は手綱を持ったまま、下馬したところだった。
「お前がレグルスに乗ったときは、まともに走れなかっただろう」
「はい」
「なら、なぜ今日は走った」
「私が乗ったときは、あの馬の力を出し切れませんでした」
騎手はレグルスを見た。
「あちらは大外を回った。距離ではこちらが有利でした。それでも、うちの馬は力を出し切って負けた。エレナ様とレグルスの方が強かった。それだけです」
ユリウスは何も返さなかった。
そこへマティアスが来た。
「ユリウス」
「何です」
「レグルスの餌代を心配していたな」
ユリウスの肩が止まった。
「もう心配はいらない。今日の賞金だけで、一年分は賄える」
*
「アルタイル、待って」
アデーレが駆け寄った。
戻ってきた鹿毛は、右の後ろ脚をかばっていた。
騎手が降りて、脚へ触れる。
「先月から、この脚に熱が出ています」
「先月から」
「はい。休ませるよう、何度もヴァルナー卿には申し上げました」
アデーレがゲオルクを見た。
「聞いていたの」
「軽いものだ」
「脚を悪くしていると知っていて、今日も出したの」
「走れる状態だった。実際、二着に入っている」
「だから問題ないと」
「御前競馬だ。勝てる馬を休ませてどうする」
アデーレの顔から、表情が消えた。
「二年も御前競馬を勝った馬でしょう」
「だから今年も勝たせるつもりだった」
彼女は首を振った。
「二年も結果を出した馬を、三度目の勝利のために壊しかけた人へ、次の馬は預けられません」
初めて、ゲオルクの顔が変わった。
「アデーレ」
「婚約は白紙にします」
「待て」
「父にも、私から話します」
彼女はアルタイルの手綱を騎手から取った。
「アルタイルも今日で引き上げます。今後、当家の馬をヴァルナー家へ預けることもありません」
そのまま、ゲオルクの横を通っていった。
*
王家の御厩長が、ゲオルクを呼び止めた。
「来年度から、王家の馬をヴァルナー厩舎へ預ける話は、いったん止めます」
「ヴァルナー家は、二年続けて勝ち馬を出しています」
「承知しています」
御厩長は、脚をかばって歩くアルタイルを見た。
「だから問題なのです。これほど結果を出した馬ですら、故障を承知で走らせる厩舎に、王家の馬は任せられません」
引き揚げていくゲオルクと、通路ですれ違った。
「あれが、レグルスの勝ち方か」
「はい」
「私は、あの馬のために勝ち方を変える気はなかった」
「レグルスには、あれが合っていました」
*
その日の夕方、書類が届いた。
御前競馬の勝ち馬に与えられる、王家の種牡馬との配合権と、生まれた仔の優先買い上げ。
契約者の欄に、私の名がある。
生産牧場の欄には、〈ローデン〉と書いた。
指で、その文字をなぞった。
終わったと思っていた家の名前だった。
*
「これで、レグルスは君自身の力で養っていけるな」
隣で、マティアスが言った。
「はい」
「ローデン牧場は、どうする」
私は書類の〈ローデン〉を見た。
「まだです。でも、もう一度始められます」
マティアスが少し黙った。
「契約は、予定どおり一年で終わらせよう」
私は彼を見た。
「君はもう、この婚姻に縛られる必要がない」
「はい」
「だから、そのあとで、今度は私から求婚したい」
「どうしてですか」
彼はもう一度、黙った。
「一年で君がいなくなるのが、嫌になった」
返事ができなかった。
「今度は、家督も馬も条件にしない」
マティアスが笑った。
「君に、私を選んでほしい」
「八か月後にも、そう思っていたら」
「思っている」
「まだ八か月あります」
「長いな」
白い結婚は、あと八か月残っていた。
初めて、その八か月を長いと思った。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。
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